第45話 第一夜
空を覆う絶望的な暗雲と共に、《永夜潮》の第一波が王都アルシオンの防衛線に激突した。
無数の夜行種が城壁の隙間や地下水路から這い上がり、都市の輪郭を黒く塗りつぶそうとする。
「第三小隊、前衛を下げろ! 予定時刻だ、第四小隊の休息組と入れ替わるぞ!」
俺が直接指揮を執っていない東地区の防衛線。そこでは、現場の隊長が手元の『個別睡眠表』の複写を握りしめ、自律的に交代の指示を飛ばしていた。
押し寄せるシャドウハウンドの波に対し、彼らは決して一律に耐えようとはしない。設定された疲労度と時間に基づき、代行権限を使って部隊をこまめに後ろへ下げ、旧式術式で強化された仮眠所へと放り込む。
そして、短い休息で限界から脱した新鮮な部隊が、再び前線へと躍り出る。
深夜二時を回った頃。その差は、誰の目にも明らかになっていた。
グレン局長の旧軍方式に従い、全員が覚醒薬をあおって一律に起き続けている部隊は、疲労による反応速度の低下から防衛線を徐々に押し込まれていた。
対して、俺のシステムを導入し、適性に合わせて睡眠を分散させた部隊は、陣形に一切の淀みがなかった。彼らは常に高いパフォーマンスを維持し、俺がいなくても見事に一地区の防衛を成立させている。
「レン、東地区の安定を確認したわ。これで、中央の誘導に戦力を回せる」
前線の様子を確認しに戻ってきたセレナが、安堵の息を吐きながら報告する。
俺は手元の白地図に目を落とした。そこには、俺がいつか家を買うために目を付けていた高級住宅区《静穏区》が、危険地帯として赤くマークされている。
「静穏区の住民の避難状況は?」
「ダリオの隊が誘導に当たっているわ。敵の別働隊が予想より早く接近していたから、彼の現場判断で、予定時刻より前倒しして退避を開始させたそうよ」
「助かります。彼なら上手くやるでしょう」
俺が戦う理由は、英雄として世界を救うことじゃない。王都の防衛などという大義名分よりも、俺がいつか『誰にも起こされない静かな家』を持つはずの街を、魔獣の泥足で踏み荒らされたくないという実利と欲望のほうが強い。
だから、あの区画の住民たちには、無傷で避難してもらわなければ困る。
* * *
本部の中継晶板が、ダリオ隊の記録映像へ切り替わった。
『急げ! 足元に気をつけろ、子供の手は絶対に離すなよ!』
旧鐘楼前を走るダリオの声と、数百人の住民が地下シェルターへ入っていく映像が届く。最後尾が鐘楼の影へ入った瞬間、画面端の時刻表示だけが数秒進み、影を抜けると元へ戻った。
『……時計が跳ねた。旧鐘楼の真横だけだ。記録ごとフィアへ回す!』
ダリオは足を止めず、最後の住民を押し込んで鉄扉を閉めた。
* * *
静穏区住民の避難完了の報告は、すぐに本部の情報室で通信網を監視しているフィアの元へ届けられた。
彼女の目の前には、各部隊から送られてくる魔力波形のデータと通信ログが、滝のように流れている。
「……レンの言う通りね。敵の主戦場は、物理的な防衛線や睡眠場所じゃない」
フィアは、傍らで待機していた俺に数枚の羊皮紙を見せた。
そこには、俺たちの部隊へ送られてきた「虚偽の救難要請」や「意図的に遅延された作戦伝令」のログがびっしりと記録されている。
「《潮核》は、直接攻撃より『情報』と『交代順』を狂わせることにリソースを割いているわ。偽の命令で部隊を動かし、疲労したところを狙い撃ちにする気よ」
「厄介ですね。フィアさん、敵の送信元や、偽信号の法則は掴めましたか?」
俺の問いに、フィアは丸眼鏡のブリッジを押し上げ、二つの別々の記録を卓上に並べた。
「一つは、さっき避難誘導を終えたダリオから報告があった『旧鐘楼周辺での数秒の時刻ずれ』。もう一つは、私が観測しているこれよ。敵の偽信号が本部の回線に割り込んでくる瞬間、ほんのコンマ数秒だけ生じる『無音の波形』」
彼女は、ダリオの報告書と、自らが記録した波形データを別々のファイルに綴じた。
この時点では、その二つの事象が何を意味するのか、旧鐘楼に何があるのかを断定することはできない。推測だけで戦力を動かせば、それこそ敵の思う壺だ。俺たちは既知の事実だけを淡々と記録し、次の判断の材料として蓄積していく。
第一夜の最大の山場を越え、静穏区の住民も無傷で避難を終えた。
各隊の自律運用も上手く回っている。このまま夜明けを迎えられるかと思った、その矢先だった。
ピーッ! ピーッ! ピーッ!
フィアが監視している通信盤に、耳障りな通知音が立て続けに鳴り響いた。
緊急救難信号だ。それも、本物と全く同じ暗号形式を持った信号が、王都の「三つの異なる方向」から、同時に飛び込んできたのだ。
「……三方向からの同時救難!? どれが本物なの!?」
フィアが血相を変えて通信盤を操作する。
それだけではない。俺の携帯晶板に、各防衛ラインで自律運用を指揮している隊長たちから、次々と焦燥に満ちた報告が入り始めた。
『レン! 本部の時計とこっちの時計が合ってないぞ!』
『第三防衛線より報告! そっちの指示した時刻表と、こっちの表示が数秒ズレている! 次の交代はどっちの時間を信じればいい!?』
俺は腕の時計を見た。
秒針の動きが、さっきまでとは明らかに違う。少し進み、少し遅れ、粘りつくように歪んでいる。
各隊の時計が、数秒、また数秒と、不気味に食い違い始めていた。
「……情報戦の本命が来ましたね」
三つの救難信号と、狂い始めた時刻板。
《潮核》は、第一夜から俺たちの時計と交代表へ手を伸ばしてきた。




