第44話 全員違う睡眠表
三十分ずれた巨大魔導時計を見上げ、避難訓練の列が一瞬止まった。
「第五班から第八班、東の広場へ住民を誘導しろ! 時計は見るな、現場の合図で動け!」
広場中央で声を張ったのは、避難誘導を担う『昼間隊』の隊長ダリオだった。かつての四時間睡眠をやめ、夜に五時間半と昼の短い仮眠を組み合わせた彼の声には、迷いがない。
俺が各隊へ配った複写表には、俺の九時間、ダリオの分割休息、レグルスの九十分という異なる休息条件と、時計が狂った場合の交代基準が記されている。
「レン、第一陣の誘導が終わるわ!」
セレナの報告とほぼ同時に、第十二区画の防壁の向こうから夜行種の小群が訓練区域へ雪崩れ込んできた。
「キャァァァッ!」
「魔獣だ! 逃げろ!」
訓練参加者である住民たちが悲鳴を上げ、隊列がパニックになりかける。
時計が狂い、スケジュール通りの交代や誘導のタイミングが分からなくなる。中央集権の指示系統であれば、ここで一度本部に確認を取らなければならず、致命的な遅れが生じる場面だ。
「慌てるな! 俺の指示に従って動け!」
だが、ダリオは狂った時計など一切見ずに叫んだ。
「時計の針がどうなろうが関係ねえ! 俺たちの表は現場の判断で回す! 第三班、前衛をカバーしろ! 残りは全員、予定通りの訓練避難路――『王都旧鐘楼』の脇を通る迂回ルートへ走れ!」
五時間半の睡眠と仮眠で自分に合う休息で判断力を整えている彼は、偽の時刻に惑わされることはなかった。現場の状況と目の前の事実だけを信じ、パニックになりかけた住民たちを的確に掌握して、素早く旧鐘楼ルートへと誘導していく。
「チッ、気の早い連中だぜ」
住民の避難時間を稼ぐため、即座に前線へ躍り出たのはレグルスだった。
彼が率いるのは、九十分の《瞬眠》で回復を終えたばかりの『夜間即応隊』だ。レグルスの巨大な戦斧が空気を裂き、侵入してきた夜行種の先頭を文字通り粉砕する。
「おら! 抜かせるかよ!」
レグルスの暴力的なまでの制圧力に合わせ、他の前衛陣も迷いなく武器を振るう。
その後方から、セレナが現場指揮官として鋭い声を飛ばした。
「右翼の二名、反応が落ちているわ! 代行権限を行使する、下がって十分の仮眠を取りなさい! 予備班、前へ!」
「了解!」
セレナは一律の覚醒を強いるのではなく、一人一人の疲労度を正確に見極め、設定された基準に従って的確に戦線の交代を指示していく。
狂った時計の針は、俺たちの防衛線を一切崩すことができなかった。
誰もが自分の適性に合ったサイクルで動き、限界を迎える前に下がり、回復してまた戻る。
「……レンの言う通りだ。限界まで起き続けてフラフラで剣を振るより、それぞれの一番動ける時間帯を組み合わせた方が、遥かに前線が安定する」
後方で息を整えていた戦士の一人が、感嘆の声を漏らした。
小規模襲撃は、三十分も経たないうちに完全に鎮圧された。
ダリオの誘導により、訓練参加者である住民を誰一人失うことはなかった。そして、前衛陣にも過度な疲労や怪我は残っていない。
この『襲撃下での避難成功』という事実そのものが、九時間、五時間半、九十分という全員違う睡眠表が同時に機能し、中央の指示がなくとも現場で自律更新できることの、何よりの証明だった。
「レン、住民の避難完了の報告が入ったわ」
「ええ。初回としては十分な実地証明です」
セレナの報告に、俺は短く頷いた。
これで、俺たちの休息戦術の有効性は実戦でも示せた。あとはこのシステムを維持したまま、本番の波を凌ぎ切るだけだ。
だが、その安堵は長くは続かなかった。
訓練の終了を告げる合図が鳴る前に、王都の上空を覆っていた分厚い雲が、異様な魔力の淀みによって赤黒く染まり始めたのだ。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
王都全域に、先日ギルドで聞いたのと同じ『特級魔境警報』のサイレンが鳴り響く。
「……来たわね。迷宮の底から、本陣が」
フィアが血の気を失った顔で空を見上げる。
《永夜潮》の第一波、その本格侵攻が始まったのだ。
「各隊へ伝達! これより訓練は終了、本番の防衛戦に移行する! 俺の家を買う予定の『静穏区』の住民たちも、避難指定区域として実避難を開始させろ!」
俺の言葉に、ダリオが晶板を確認して頷く。
「静穏区の連中の実避難路は、俺たちがさっき誘導で使ったのと同じルートだ。……『旧鐘楼前』を通って、王城の地下シェルターへ向かう形になる」
「分かりました。ダリオは引き続き誘導を。俺たちは各防衛ポイントの最終確認に入ります」
空を覆う絶望的な闇。
時計の針を狂わせ、通信を乗っ取る見えない敵《潮核》との、真の生存闘争である『第一夜』の幕が、静かに切って落とされた。




