第41話 今度は九時間が正義?
第四階層の崩落による『百時間迷宮』の緊急中止と、それに続く四十人規模の生還劇から数日後。
王都アルシオンの空気は、俺たちが地上へ戻った直後の熱狂から、さらに異様で面倒な方向へと極端な裏返りを見せていた。
「聞いたか? あいつ、昨日の夜も四時間しか寝てないらしいぜ」
「うわ、時代遅れだな。だから万年C級なんだよ。今は『九時間睡眠』こそが最高のパフォーマンスを生むって、レン・アルヴァ班の活躍で証明されたっていうのによ」
ギルド本部のロビー。
依頼の精算を待っていた俺の耳に、そんな会話が飛び込んできた。
これまで「長く起きていること」を誇り、睡眠を削れない者を見下していた連中が、そっくりそのまま「長く寝ること」を誇り、短眠者を見下す側に回っているのだ。
彼らは俺たちが迷宮で見せた交代制の強さを、『九時間寝れば誰でも無敵になれる』という新しい宗教にすり替えようとしていた。
「レンさん! 探しましたよ!」
げんなりとしている俺の前に、数人の若い冒険者たちが目を輝かせて群がってきた。
彼らは胸に『睡眠推奨』を掲げる新しい派閥の連中だった。
「俺たち、覚醒至上主義の古い連中に対抗して、新しいギルドの評価基準を作る組合を立ち上げたんです! レンさん、どうか俺たちの旗印になってくれませんか!」
「あなたの九時間睡眠のメソッドを、本にして出版する話も来ています! これからは、長く寝る者こそが偉い時代です!」
興奮気味に捲し立てる彼らに、俺は短くため息をつき、静かに首を横に振った。
「断ります」
「えっ……? で、でも、レンさんが九時間の睡眠でレグルスを出し抜いたのは事実じゃないですか!」
「俺が九時間寝ているのは、俺の身体とスキルにそれだけの時間が必要だからです。あんたたちの最適な睡眠時間なんて、俺は知らない」
俺は詰め寄る彼らを、冷淡に突き放した。
「誰かのやり方を勝手に『万人の正解』にして押し付けるなら、あんたたちが批判している古い連中と何も変わらない。俺は俺が寝たいから寝る。それだけです」
「なっ……なんだよその言い草は! せっかく俺たちが担ぎ上げてやろうってのに!」
鼻白んだ冒険者の一人が、声を荒げて俺の肩を掴もうとした。
だが、その手は横から伸びてきた分厚い腕によってパシッと払いのけられた。
「おいおい、俺たちを助けてくれた恩人に絡むんじゃねえよ」
そこに立っていたのは、ダリオだった。
彼は迷宮での負傷から完全に回復したようで、いつもの生意気そうな笑みを浮かべていた。
「ダリオ……お前、たしか四時間睡眠を自慢してた首席候補の……」
「ああ、そうだ。だが、あれは無理して背伸びしてただけだって迷宮で思い知ったからな」
ダリオは自分の首をポキポキと鳴らしながら、群がる『九時間派』の連中を見下ろした。
「かと言って、レンみたいに九時間も寝てたら、俺は逆に身体が鈍っちまう。色々と試した結果、俺は『夜に五時間半寝て、昼間に短い仮眠を挟む』のが一番身体が軽く動くって分かったんだよ。人それぞれ、必要な休息は違う。誰かの数字をパクってドヤ顔してる暇があったら、自分の最適なリズムくらい自分で見つけろ」
かつて短眠を誇り、俺の九時間を「楽をしたいだけ」と笑っていた男の言葉には、確かな実感がこもっていた。
ダリオの気迫に押され、九時間派の連中は「チッ……」と舌打ちをして退散していった。
「……助かりました。相変わらず口が回るな、あんたは」
「ハッ、これくらいで恩を返したとは思ってねえよ。迷宮じゃ、俺たちの命まで拾ってもらったからな」
ダリオがニッと笑う。
これで少しは静かになるだろう。そう思って息を吐いた、その瞬間だった。
ウゥゥゥゥゥゥゥゥ――ッ!!
ギルド本部全体に、空気を引き裂くようなけたたましいサイレンが鳴り響いた。
普通の魔獣発生警報ではない。都市の存亡に関わる、最上位の『特級魔境警報』だ。
「な、なんだ!?」
「レン! いたわね!」
騒然となるロビーを掻き分け、血相を変えたセレナとフィアが俺の元へ駆け寄ってきた。
フィアの腕には、迷宮の魔力観測データを記録した羊皮紙の束が抱えられている。
「フィアさん、この警報は……」
「最悪の事態よ。第四階層の崩落で終わったと思っていた迷宮の魔力暴走が、さらに奥深く、最深部の地脈を完全に破壊したわ」
フィアが青ざめた顔で、観測データの束を俺に突きつけた。
「迷宮の底から、とてつもない数の魔獣が地上を目指して押し寄せてきている。その規模と魔力波形は、過去の記録にある『百夜戦役』の時のものと完全に一致したわ」
「百夜戦役って……おい、嘘だろ」
ダリオが絶句する。
百八十年前、この王都アルシオンを地獄に陥れ、『眠らぬ騎士』という覚醒至上主義の源流を生み出した、夜間にのみ襲来する魔獣の大海嘯。
《永夜潮》の再来だ。
「ギルドと王立保険院は、すでに王都の防衛体制への移行を決定したわ。グレン局長から、私たちも本部の作戦会議室へ来るようにと緊急要請が出ている」
セレナが切迫した声で告げる。
社会の評価軸が九時間か短眠かなどという、平和な論争はこれで完全に吹き飛んだ。
敵は、人間が眠る『夜』という時間そのものを侵略してくる絶望の波だ。
「……《永夜潮》の先陣が地上へ溢れ出すまで、あとどれくらいです?」
俺が静かに問うと、フィアは唇を噛み締め、絶望的な数字を口にした。
「予測される襲来まで、あと三日よ」
残された時間は少なすぎる。
だが、泣き言を言っている暇はない。俺は自分の部屋で、十時に安心して眠れる夜を取り戻すために。
真の生存闘争への準備を始めるべく、仲間たちと共に作戦会議室へと走り出した。




