第40話 眠っている仲間を守れ
第四階層の旧避難区画を揺るがすような重低音と共に、漆黒の通路からそいつは這い出てきた。
迷宮の最深部に潜んでいた主クラスの巨大魔獣。四足歩行の猛獣の骨格に、硬質な鉱石の鎧を纏ったような異形の姿。そいつが低い唸り声を上げるたびに、周囲の魔力流がビリビリと震え、空気が重くのしかかってくるような錯覚を覚えた。
ターゲットは明確だった。魔獣の赤い双眸は、俺たち前衛陣を通り越し、背後の防音幕で覆われた『休息エリア』を真っ直ぐに睨みつけていた。
「チッ、どいつもこいつもうちの寝床ばかり狙いやがって……趣味が悪いぜ」
巨大なタワーシールドを構えたボルドが、額に脂汗を浮かべながら悪態をついた。
魔獣が前足で床を叩き割るように踏み込み、巨体が砲弾のような速度で突進してくる。
「受け流すわよ、ボルド! 正面からまともに受けないで!」
「分かってる!」
セレナの指示に合わせ、ボルドは盾の角度を斜めに傾けた。激突の瞬間、耳をつんざくような金属音が響き、ボルドの巨体が後方へ数メートルも滑らされる。
その隙間を縫って、レグルスの戦斧が魔獣の側面へと叩き込まれた。
「オラァッ!」
並の魔獣なら一撃で両断するその一撃も、主クラスの強固な鉱石の鎧には弾かれ、浅い亀裂を刻むに留まった。魔獣が怒り狂って尾を薙ぎ払い、レグルスが間一髪で後方へ跳躍して躱す。
「硬えな。だが、動きは大振りだ」
レグルスは戦斧を構え直し、不敵な笑みを浮かべた。
起きている組の疲労は、すでにピークに達しつつあった。レグルスの《瞬眠》による回復力をもってしても、この重圧の中で防衛線を維持するのは容易ではない。ダリオも息を切らし、投擲用の短剣を握る手が小刻みに震えている。
「なあ……もう、中の連中を起こした方がいいんじゃねえか?」
ダリオが焦燥に駆られた声で叫んだ。
「これだけのバケモノ相手だ。今すぐ中の連中を起こして総力戦で当たらないと、俺たちが先に潰されるぞ!」
彼の言うことは、一般的な冒険者の感覚からすれば正論だった。背後では、休息に入った者たちが次の交代を待っている。今すぐ叩き起こして数を足せば、この巨体を押し返せるかもしれない。
俺の横で、起きている組の何人かが防音幕を振り返った。
だが、セレナはそれを一蹴した。
「駄目よ。彼らと合意した最初の起床条件まで、あと十分残っているわ」
「十分!? この状況で、あと十分も待ってたら――」
「ここで中途半端に起こせば、彼らの判断力が戻り切らないまま前へ出すことになるわ! 起床確認もせず人数だけ増やしたところで、このクラスの魔獣相手じゃ陣形を乱して被害を拡大させるだけよ!」
セレナは剣の切っ先を魔獣に向けたまま、凛とした声で言い放った。
「私たちは、敵を全滅させるためにここに立っているんじゃないわ。後ろの連中が自分の役割を選べる状態へ戻るまでの時間を稼ぐための、ただの壁よ。最後まで役目を全うしなさい!」
その言葉に、ダリオがハッと息を呑み、力強く頷いた。レグルスも「違いねえ」と笑い、再び戦斧を振りかぶって前へ出る。
防衛線の目的は明確だった。勝つためではない。守り抜くためだ。
ボルドの盾が軋み、セレナの剣が火花を散らす。一分、一秒が永遠のように感じられる極限の死闘。
そして。
魔獣の強力な一撃がボルドの盾を弾き飛ばし、防衛線が決壊しかけた、その瞬間。
ピピピッ、ピピピッ。
背後の防音幕の奥から、無機質なアラーム音が鳴り響いた。
それと同時に、分厚い防音幕が勢いよく開け放たれた。
「――交代です。よく、守り抜いてくれました」
合意した起床条件を満たした冒険者たちが、防音幕から次々と出てきた。
俺はその顔を見て、前へ出せる者と搬送へ回す者を素早く分ける。休息前には声も届かなかった彼らが、今は自分の役割を答えられた。
「下がれ! ここからは俺たちがやる!」
俺は前日までの地形データに、十分間見続けたボスの大振りな予備動作を重ねた。未知の技が増えたわけではない。踏ませたい位置だけは見えた。
「重装兵は俺の足運びに合わせて右側面に壁を構築! 魔術師は敵の左足の関節、装甲の薄い部分に詠唱を集中させてください!」
俺の指示に従い、新鮮な前衛陣が迷いのないステップで魔獣の側面を塞ぐ。
休息を終え、詠唱手順を確認できる魔術師たちの杖から、極大の制圧魔法が一斉に放たれた。
閃光と爆音が空間を支配し、魔法の直撃を受けたボスの左足が大きく崩れる。
その隙を逃さず、俺は定着した足運びで敵の死角へと滑り込み、装甲の継ぎ目に向かって全身のバネを乗せた一撃を深々と突き入れた。
「オォォォォォッ!!」
魔獣が断末魔の咆哮を上げ、巨体を床に沈める。
数十人がかりの、一切の無駄がない集中攻撃。起きている組が稼いでくれた時間のおかげで、俺たちは狙いを一箇所へ揃えることができた。
ボスが崩れ落ちたことで、迷宮の奥へと続く通路――地上へと繋がる最後の脱出路が完全に開けた。
「……終わったな」
俺が剣の血を振り払うと、後ろで膝をついていたボルドやダリオが、安堵の息を吐いて笑い合った。セレナも額の汗を拭い、レグルスは満足げに戦斧を肩に担いでいる。
この百時間迷宮の極限状態において、俺たちはただ生き延びただけではない。
「誰をいつ休ませるか」という緻密な管理。それが、俺個人の《休養》という特異性を越え、チーム全員が運用できる『交代休養プロトコル』という強力な戦術として、完全に機能した瞬間だった。
* * *
迷宮からの生還。
崩落した出口が王都の警備隊によって外側から掘り開けられ、俺たちが地上へと足を踏み出した時、そこには信じられないほどの数の群衆が詰めかけていた。
「出てきたぞ! レン班だ!」
「彼らが中継で四十人もの命を救ったんだ! 見ろ、誰一人欠けていない!」
王都の市民たちから、割れんばかりの歓声と拍手が降り注ぐ。ダグは負傷者の列の最後尾を支えながら、俺たちと一緒に地上へ出てきた。
晶板の中継を通じて、俺たちが迷宮内で見せた戦いは、王都全域に配信されていたのだ。
俺は眩しい朝日に目を細め、静かに息を吐いた。これで、当初の目的であった《静穏区》の家を買うための莫大な報奨金と推薦状は、間違いなく手に入ったはずだ。
だが、群衆の熱狂を注意深く聞いていたフィアの顔が、少しずつ険しいものへと変わっていった。
「……レン。どうやら、手放しで喜べる状況じゃないみたいよ」
彼女の視線の先。歓声を上げる群衆の中から、不穏な叫び声が上がり始めていた。
「見たか、これが答えだ! 睡眠を削って突っ走る覚醒至上主義は間違っていたんだ!」
「その通りだ! レグルスのような一部の特権階級の真似をして、命を落としかけた若手たちが証拠じゃないか!」
「これからは九時間だ! 九時間きっちり寝て戦うレン班のやり方こそが、絶対の正義なんだよ!」
その声は熱狂の波に乗り、広場全体を包む大合唱へ変わっていく。
『これからは全員、九時間だ!』
俺は、歓声の中で背筋が冷えるのを感じた。




