第37話 壁の向こうの旧式術式
第四階層・旧避難区画の最奥部。
崩落した岩を慎重に退かすと、昨夜フィアが見つけた平らな壁面が全体を現した。
そこには、現代のアルシオンでは見かけない複雑な幾何学模様が、壁一面に刻み込まれていた。
「……間違いないわ。これ、魔導回路の基盤よ」
フィアが壁に両手を添え、指先から微量の魔力を慎重に流し込んでいく。
すると、石に刻まれた溝が淡い青色の光を帯び、壁全体が脈打つように淡く明滅を始めた。
直後、俺の足元から伝わってきていた不快な微振動と、遠くで響く迷宮特有の地鳴りが、まるで分厚い水の中に潜ったかのようにスッと抑え込まれた。
「すごいな……振動が消えたぞ」
「ええ。これは百夜戦役よりもずっと前、おそらく初期の探索者たちが使っていた『休息術式』の跡ね。外部の物理的な振動や音を相殺し、内部の人間の魔力循環を安定させて、外からの刺激を減らし、休息と経験定着を邪魔しにくくする結界よ」
フィアの言葉に、俺は感嘆の息を漏らした。
俺の《安息陣》が直接他人を回復させるわけではない。この壁の術式も、侵入者を止めてはくれない。二つを併用すれば、せめて音と振動で休息を中断される回数は減るはずだ。
「フィアさん、この術式は使える範囲まで戻せますか?」
「回路がいくつか焼き切れているけれど、私の魔力で迂回回路を作ればいけるわ。ちょっと待ってね」
フィアがさらに魔力を注ぎ込んでいくと、壁の模様が次々と光を取り戻していく。
だがその過程で、術式の右端――黒く煤けて焼けていた余白の部分から、隠されていた別の図面のようなものが青白く浮かび上がってきた。
「これは……地図? いや、通信網の配線図かしら……」
浮かび上がった未知の魔導技術の痕跡を前に、研究者であるフィアの瞳が知的好奇心に強く輝いた。彼女の顔が図面に近づき、夢中になって解読しようとする。
だが、彼女はふっと息を吐くと、自ら顔を上げて首を横に振った。
「駄目ね。今は歴史の研究なんてしている場合じゃないわ」
「いいんですか?」
「ええ。学者としての興味より、みんなの生存を優先するのが私の今の仕事よ。まずはこの休息術式を安定させて、後続の部隊が途中で起きにくい環境を作るわ」
そう言って、彼女は図面から視線を外し、術式の修復作業に全神経を集中させた。
十分後、壁の幾何学模様のうち、焼け残っていた回路が安定した光を放ち始める。
地鳴りに起こされる者が減り、予定していた休息を終えた冒険者たちが、状態を確認された順に前線へ復帰してきた。
「レン、交代の連中が来たぞ! これならいける!」
ダリオが明るい声を上げる。
戦力が潤沢に回り始めたことで、起きている組の仕事は魔獣の迎撃から、前方を塞ぐ『崩落した脱出路の開拓』へと移行した。
レグルスやボルドといった重戦士たちが、交代で戦斧やハンマーを振るい、道を塞ぐ巨大な岩を凄まじいペースで砕いていく。
安全な休息が保証されているからこそ、彼らは後の体力を心配することなく、目の前の岩砕きに全力を出せるのだ。
「作業は順調ね。……さて、それじゃあさっきの謎解きをしましょうか」
一段落ついたところで、フィアが携帯用の晶板を手に俺とセレナの元へやってきた。
晶板の画面には、先ほど壁の余白に浮かび上がっていた古い図面が複写されている。
「かなり欠損が激しいけれど、いくつか読み取れる情報があったわ」
フィアが画面の一部を拡大する。
そこには、古代文字で記された『永夜潮』という不吉な単語と、王都アルシオンの中心に位置する『旧鐘楼』を示す特徴的な建造物のアイコンが描かれていた。
さらに、その旧鐘楼から波紋のように広がる通信網。その中を一定の軌道で巡回する点と、そこから外へ伸びる細い魔力線があった。線の脇には、欠けた古代文字で『中継……刻印』とだけ残っている。
「この動いている点、文字が掠れているけれど……『指揮……核』って読めるわね」
「指揮核? 魔獣の群れを統率するような、ボス的存在でしょうか」
セレナが眉をひそめる。
さらに不気味なのは、その『指揮核』を示すアイコンの横に、波形のような記号が添えられていることだった。
ツッ、ツッ、ツー、というリズムを視覚化したような、特徴的な『三連の信号印』だ。
「永夜潮、旧鐘楼、移動する指揮核、そして三連の信号。……フィアさん、これらが何を意味しているのか分かりますか?」
「推測の域を出ないわ。百夜戦役の時代に、当時の王都とこの迷宮が何らかの通信網で繋がっていた……ということくらいしか」
「なら、今の俺たちがここで頭を悩ませても無駄ですね」
俺は実務的に切り捨てた。
得体の知れない歴史の謎を解き明かすより、今は目の前の岩を砕いて地上へ帰ることの方が先決だ。
「この図面のデータ、ギルド本部のグレン局長宛てに送信してください。迷宮の管理や過去のデータにアクセスできる彼なら、何か分かるかもしれない。意味の確定は専門家に任せましょう」
「そうね。それが一番合理的だわ」
フィアは晶板を操作し、ノイズの混じる緊急回線を通じて、本部の稼働管理局へ図面の複写データを送信した。
俺たちは再び開拓作業へと戻り、瓦礫を運び出しながら脱出路を数十メートルほど前進させた。
やがて、フィアの持つ通信晶板が短い通知音を鳴らした。
『――こちら本部。グレンだ。データの受信を確認した』
雑音交じりの音声だが、局長本人の声だった。
『欠損図の解析には時間がかかる。混乱を避けるため、他の冒険者への情報公開は延期する。だが、その旧式術式が人命救助に繋がるというのであれば、現場での利用は許可しよう。……何としても、戦力を維持して生き延びろ』
グレン局長の返信は、彼なりの安全保障上の合理的な判断だった。
俺が「了解しました」と短く返し、通信を切ろうとした、その直前。
『――ザザッ……ツッ、ツッ、ツー……』
「……えっ?」
フィアが怪訝な声を漏らした。
本部の通信が切断される直前の、ほんのわずかな隙間。
ノイズに紛れて聞こえたその通知音は、先ほど俺たちが中継図で見た『三連の信号印』の波形と、全く同じリズムを刻んでいた。
「レン。今の音……」
「……ええ」
俺とセレナは顔を見合わせた。
ギルド本部からの通信回線に、なぜあの古い図面に記されていたのと同じリズムの雑音が混じったのか。
単なる回線の混線か。それとも、見えない何かが俺たちの通信に干渉しているのか。
分厚い壁の向こう側から、得体の知れない巨大な悪意が俺たちを覗き込んでいるような、不吉な予兆だけがそこに残された。




