第31話 眠れるわけがない
男はすでに救護区画を飛び出し、松明の届かない闇へ手を伸ばしていた。追いついた俺が肩を掴むより早く、助けを求めていた声が不自然に途切れた。
ギィィッ!
闇の中から、人間の声帯を引きちぎったような不快な鳴き声と共に、漆黒の刃が男の首を狙って振り下ろされた。
迷宮の深層に生息する夜行性の魔獣――獲物をおびき寄せるため、狩った人間の声を擬態する悪辣な捕食者だ。
「――っ!」
男が死を悟って目を剥いた直後。
背後から猛烈な速度で追いすがったセレナが、男の襟首を乱暴に掴み、後方へ強引に引き倒した。
空を切った漆黒の刃を下から蹴り上げ、セレナの白銀の剣が魔獣の急所を的確に貫く。魔獣は嫌な体液をぶちまけながら、闇の中へと崩れ落ちた。
「はぁっ、はぁっ……」
尻餅をついた男が、荒い息を吐きながらガタガタと震えている。
セレナが剣の血を払い、厳しい声で男を見下ろした。
「馬鹿な真似をしないで。あなたの疲労はもう限界を超えているのよ。罠に飛び込んで自殺する気?」
「わ、分かってるさ……! でも、こんな状況でどうやって眠れって言うんだよ!」
男は床を叩き、半狂乱になって叫んだ。
「外にはまだ、逃げ遅れた仲間がいるかもしれないんだぞ! いつ化け物が襲ってくるかも分からない場所で、俺たちだけ寝袋に入って休めだと!? ふざけるな、目を閉じた瞬間に殺されるかもしれないじゃないか!」
彼の叫びは、救護区画に残っていた他の冒険者たちの不安をも代弁していた。
休息の重要性は、頭では分かっている。だが、死への恐怖、仲間を見捨てるかもしれないという罪悪感、そして防衛線が突破されるかもしれないという不信感。
それらの感情が極限状態において綯い交ぜになり、彼らの本能が『睡眠』という最も無防備な行為を全力で拒絶していた。
「落ち着きなさい。私たちが見張りに立っているわ。今は休まないと――」
「セレナ。言葉で説得するのは無駄です」
俺はセレナの肩に手を置き、彼女を一歩下がらせた。
安全が担保されていない場所で、「大丈夫だから寝ろ」という強制命令は逆効果だ。不安を抑え込んで横になっても、脳が警戒状態を維持したままでは、俺の《休養》が機能するような深い休息には決して到達しない。
「あんたの言う通りだ。こんな場所で安心して眠れるわけがない」
俺は男の目の前にしゃがみ込み、彼の目をまっすぐに見て言った。
「だから、条件を決めましょう。俺たちが強制するんじゃない、あんたが自分で決めるんです」
「……条件?」
「ええ。一つ目、何を基準にあなたを起こすか。『外から少しでも音がしたら』でも、『一時間経ったら』でもいい。あなたが指定した【起床条件】を満たしたら、必ず起こすと約束します」
俺は指を折りながら、実務的なトーンで続ける。
「二つ目、防衛線がどこまで押し込まれたら全員で逃げるかという【撤退線】の共有。三つ目、あなたが目を閉じる時、仮眠所の入り口の【どこに誰が見張りに立っているか】を完全に可視化します」
俺の提案に、男の瞬きが止まった。
睡眠を『他人に強制される無防備な時間』から、『本人の意思でコントロールできる戦力維持の手段』へと変える。いつ起こされるか分からない、誰が守っているか分からないという不確定要素を、物理的なルールで塗りつぶしていく。
「……本当に、約束した条件で起こしてくれるんだな」
「もちろんです。あんたたちに深く休んでもらわなければ、明日以降の戦線が崩壊して、俺の命まで危なくなりますからね」
俺が本音を隠さずに言うと、男はようやく張り詰めていた糸を緩め、深く息を吐き出した。
彼らの中にあったのは、「休んではいけない」という道徳的な強迫観念と、「休んだら死ぬ」という恐怖だった。その両方を実務的なルールで取り除いたことで、彼らはようやく、仮眠所へと重い足を引き摺っていった。
「見事ね、レン。他人の休息を守るには、ただ場所を用意するだけじゃ駄目なのね」
「ええ。本人の選択と信頼がなければ、人間は眠れませんから」
俺が立ち上がった時、通路の奥から駆け足で戻ってくる足音があった。
伝令役を買って出ていたダリオだ。
「レン! セレナ! 少し離れた区画に、良さそうな場所を見つけたぞ!」
息を切らすダリオの報告によると、ここから数百メートルほど進んだ先に、旧時代の施設を利用した強固な石室の区画があるという。
今の救護区画は入り口が広すぎて、少人数の見張りで魔獣の波を捌き切るには限界がある。俺たちはダリオの案内に従い、すぐにその『安全区画候補』へと向かった。
辿り着いた先は、確かに防衛には理想的な地形だった。
分厚い石壁に囲まれ、入り口は一つしかない。大人数が交代で休息を取るには十分な広さがあった。
「ここなら、入り口を塞ぐだけで安全が確保できそうね」
セレナが石室の入り口を見上げて頷く。
だが、俺はその入り口の『壁面』を見て、顔をしかめた。
フィアが手に持っていた魔導ランタンの光を、その壁へと向ける。
「……見て。この壁」
入り口の頑丈な石壁には、鋭い鉤爪によって深く抉られた跡が、無数に刻まれていた。
古いものではない。抉られた石の断面は新しく、爪痕の深さは、並の魔獣の腕力を遥かに超えている。
この迷宮の夜行種は、ただ闇雲に人間を襲っているわけではない。こういった「人間が休もうとする場所」を正確に学習し、睡眠で無防備になった瞬間を狙って狩りを行っているのだ。
場所を見つけただけでは、安全にはならない。
「……レン」
ダリオが、青ざめた顔で俺の袖を引いた。
「静かに。……奥から、何か聞こえないか?」
全員が息を殺す。
安全区画候補のさらに奥、漆黒の闇に包まれた通路の先から、微かな足音が響いてきた。
ズリッ……ズリッ……。
それは、魔獣が獲物を追って疾走する音ではなかった。
一定のペースでもない。
スゥ……ハァ……という、まるで人間が『深く眠っている時の呼吸』のリズムに、ピタリと合わせるような。
俺たちの睡眠を嘲笑うかのような、不気味で静かな足音だった。




