第32話 短眠者の仕事
「――そこだ」
闇の中で、低く落ち着いた声が響いた。
直後、空気を切り裂くような凄まじい風切り音と共に、巨大な戦斧の刃が暗がりを横薙ぎに一閃する。
ギャァァッ、という不快な悲鳴が上がり、ドサリと重い何かが床に崩れ落ちる音がした。
「脅かして悪かったな。こいつが背後からつけ回してきやがるもんで、処理に手間取った」
松明の明かりの端、暗闇から悠然と姿を現したのは、『覚醒王』レグルス・クロウだった。
彼は血に濡れた戦斧を軽く振り払い、足元に転がった魔獣の死骸をブーツの先で小突く。
それは、全身が周囲の岩肌に溶け込むような保護色に覆われた、四つん這いの奇妙な夜行種だった。
「レグルスさん……。斥候に出ていたんじゃなかったんですか?」
「ああ。周辺の区画をぐるっと回ってきたところだ」
競技の中止が決定し、俺たちが救護区画で救助班の再編を行ってからの数時間。
レグルスは、負傷者の搬送を終えた後、仮眠所で『九十分』の睡眠を取った。そして、目覚めると同時に単独で迷宮の奥へ偵察に飛び出し、こうして帰還したのだ。
彼の顔には、九十分前よりも明らかに目の焦点が戻っている。瞳には強い理性の光が宿り、筋肉のバネも初日と変わらない弾力を保っている。
薬で無理やり神経を昂らせている他の冒険者たちとは違う。彼は本当に、あの短い時間で実戦に必要な集中を取り戻しているのだ。
「これが、俺が調べてきた周辺の地図だ。ダリオ、お前が持っているデータと照合してくれ」
レグルスは懐から羊皮紙を取り出し、ダリオへと手渡した。
そこには、俺たちがまだ足を踏み入れていないエリアの複雑な地形と、魔獣の分布が正確に書き込まれていた。
「……すげえ。たった数時間で、これだけの範囲を調べてきたのかよ」
ダリオが羊皮紙を受け取り、信じられないというように目を丸くする。
俺もその精緻なデータを見て、純粋な感嘆の息を漏らした。
災害の初動。通信が途絶し、周囲の状況が全く分からないこの極限状況において、彼のような存在がどれほど心強いか。
九時間寝なければ頭が回らない俺には、こんな真似は絶対に不可能だ。短時間で完全な安息を得て、誰よりも長く、誰よりも早く戦場を駆け回ることができる《瞬眠》の適性。
それが、短期決戦や緊急対応における絶対的な『最強』であることは、紛れもない事実だった。
「助かります、レグルスさん。アンタのその能力は、災害対応において本当に強い」
俺が素直に称賛すると、レグルスは少しだけ驚いたように目を瞬かせた後、ふっと口角を上げた。
「……お前にそう言われると、嫌味に聞こえねえから不思議だな」
「事実を言ったまでです。俺には九時間の睡眠が必要ですが、アンタにはそれがいらない。だったら、その適性の違いを最大限に活かしましょう。情報収集と偵察は、俺たちの誰よりもアンタが適任だ」
「ああ、任せておけ。俺の人生は、起きている時間にしか使えねえからな」
レグルスが頼もしく頷く。
俺たちは思想敵ではない。適性が違うだけであり、その違いを理解して分業すれば、これほど頼りになる味方はいない。
だが、その頼もしい男の顔が、すぐに険しいものへと変わった。
「感心している場合じゃないぞ。厄介な情報を持ち帰ってきた」
レグルスは、先ほど自分が仕留めた夜行性の魔獣の死骸を指差した。
「さっき俺が落としたのは、ただの斥候に過ぎない。周辺の通路を調べてきたが、この区画を包囲するように、こいつらの同族が集まりつつある」
「集まりつつある……? 偶然じゃなくて、明確にここを狙っているということですか?」
「ああ。奴らは迷宮の深層に潜む特化型の捕食者だ。人間の微かな呼吸音や、睡眠に入った際の魔力の低下を感知して群がってくる。壁のあの新しい爪痕も、奴らがつけたものだろう」
レグルスの言葉に、セレナが石室の入り口に刻まれた無数の爪痕を見上げる。
背筋に冷たいものが走った。
この石室は確かに壁が厚く、地形としては防衛に向いている。だが、それはあくまで「起きている人間が戦う」ための砦としての話だ。
「……ただの石室に隠れた程度じゃ、駄目ってことね。匂いや呼吸音で確実に気づかれる。少しでも見張りに隙ができれば、寝首を掻かれるわ」
セレナが剣の柄を握りしめ、深刻な顔で呟く。
その通りだ。ここは『百時間迷宮』という競技の舞台ではない。俺たちを狩ろうとする捕食者たちから、文字通り命を守り抜かなければならない死地なのだ。
「レン。どうする?」
ダリオが不安げに俺を見る。
俺は深く息を吸い込み、頭の中で情報を整理した。
俺の《休養》を機能させるためにも、そして限界を迎えている冒険者たちに戦力を取り戻させるためにも、絶対に『質の高い睡眠』が必要だ。
それができない場所なら、自分たちで作るしかない。
「ただ壁があるだけの部屋じゃ、誰も安心して眠れません」
俺は全員の顔を見回し、明確な方針を告げた。
「物理的な防壁だけじゃない。音を遮断し、魔力の漏れを防ぎ、確実に魔獣を弾き返す強固な護衛線を敷く。俺たちの手で、ここに一から『眠るための場所』を作ります」
入り口の奥から、再び獣たちの唸り声が響いた。
石室の外側に新しい爪痕が一本増え、削れた石粉がまださらさらと落ちている。
夜行種は、もう防壁の向こうまで来ていた。




