第3話 眠らぬ剣姫
冒険者ギルド裏手の訓練場は、昼前だというのに奇妙な静寂に包まれていた。
普段なら新人が素振りで汗を流し、中堅が立ち回りの確認で怒声を行き交わせている場所だ。しかし今日、広場の中央を陣取っているのは俺と、もう一人の剣士だけだった。
「レン・アルヴァ。昨日の初依頼、リープハウンドの討伐記録を読ませてもらったわ」
透き通るような白銀の髪を揺らし、木剣を片手にスッと立つ少女。
『眠らぬ剣姫』の二つ名で知られるB級トップの若手剣士、セレナ・ヴァイス。昨日、俺が十二人抜きの公開訓練を遠巻きに眺めていた相手が、なぜか俺の検証役として目の前に立っている。
「実技試験の追加課題では無様に転倒した新人が、翌日にはリープハウンドのフェイントを完全に見切り、無傷でノルマを達成して帰還した。ギルドの稼働管理局は、あなたのその極端な戦果のブレを不審に思っているのよ」
「偶然か、まぐれ当たりじゃないかってことですか」
「ええ。だから私が直接、あなたの動きを評価する。木剣を構えなさい」
セレナの瞳は冷徹で、一切の油断がない。
だが、俺の目は彼女の目元にうっすらと張り付いた疲労の隈と、細い指先が木剣の柄を握る際の、ほんのわずかな力みに気づいていた。
彼女は一日二、三時間しか睡眠を取らず、起きている時間のすべてを剣に捧げていると聞く。その努力量は純粋に凄まじいが、身体が悲鳴を上げている兆候は隠しきれていなかった。
「……行きます」
俺は木剣を中段に構え、息を吐いた。
次の瞬間、視界からセレナの姿が消えた。
「っ!」
気づいた時には、彼女は既に俺の懐に潜り込んでいた。
風を裂く鋭い踏み込み。下段から掬い上げるような木剣の斬り上げが、俺の顎を正確に狙ってくる。
速い。昨日遠目から見ていた時よりも、実際に相対した時のプレッシャーは絶望的だった。純粋な身体能力も、積み上げてきた剣技の密度も違う。
俺は一昨日の夜に定着させた『丸太渡りの跳躍軌道』の足運びをフル回転させ、強引に後ろへ跳んだ。
剣先が鼻先をかすめる。ギリギリで回避した俺に対し、セレナは表情一つ変えずに追撃の連続斬りを放ってきた。
右、左、袈裟斬り、そして突き。
息をつく暇もない猛攻。俺は昨日、リープハウンドのフェイントを躱すために定着させた『重心移動予測』の感覚を総動員して、飛んでくる木剣の軌道を予測し、弾き、躱し続けた。
(しのぐだけで精一杯だ。だが……見える!)
俺の目は、彼女の剣の動きに追いつき始めていた。
いや、目が良くなったわけではない。俺の身体に定着した過去の失敗と観察の経験が、無意識のうちに最適な防御姿勢を導き出しているのだ。
それでも、地力の差は残酷だ。十合、二十合と打ち合ううちに、俺の握力は限界を迎え、ステップは徐々に遅れ始めた。
「そこね」
セレナの冷たい声が響いた。
彼女の木剣が俺の防御を強引に弾き飛ばし、俺の体勢は完全に右へ崩された。
左半身がガラ空きになる。セレナはそこへ、必殺の突きを放とうと剣を引き絞った。
勝負ありだ。誰の目にもそう映る瞬間だった。
だが、俺は転倒していく視界の中で、昨日見た「あの瞬間」を待っていた。
彼女が十二人目を倒し、剣を引こうとした時の、あの微細な違和感。
――トン、と。
突きを放つ直前、セレナの右手が柄を無意識に『握り直し』た。
(今だ!)
ほんのコンマ数秒の隙。
俺は倒れ込む勢いを逆利用し、丸太渡りで覚えた重心移動で床を蹴った。
崩れた体勢のまま左へ踏み込み、昨日リープハウンドに崩された急旋回の軌道を、自分の足でなぞる。
「なっ――」
セレナの目が驚愕に見開かれる。
彼女の突きが俺の残像を貫くより一瞬早く、俺の木剣の切っ先が、彼女の白銀の髪を数本掠め、その細い首筋へとピタリと届いた。
直後。
反射的に放たれたセレナの蹴りが俺の腹部を捉え、俺の身体は鞠のように訓練場の床を転がっていった。
「ぐっ……げほっ」
肺から空気が搾り出され、激しい痛みに顔をしかめる。
完全に俺の負けだ。蹴りの一撃で戦闘不能になっている。
「……今の、動きは」
セレナは俺に蹴りを放った姿勢のまま、信じられないものを見るような目で俺を見下ろしていた。
その呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。
「参りました。やっぱり、敵わないな」
俺は床に大の字になりながら、苦笑して木剣を手放した。
勝てるとは思っていなかった。見ただけの剣技は使えない。だが、昨日見つけた癖に、俺自身が失敗して覚えた足運びを合わせれば、一手だけは届く。
その一手も含めて、次に直すべき箇所は山ほど残った。
「レン・アルヴァ」
セレナがゆっくりと歩み寄り、俺を見下ろした。
その瞳には、最初のような見下す色はなく、代わりに強い探求心と、どこか焦りのようなものが混じっていた。
「あなたの最後の踏み込み……昨日までの記録にも、試験の調書にもない動きだったわ。それに、私の剣の『隙』を完璧に突いた」
「まぐれですよ。何度もやられて、ようやく一発だけ反応できただけです」
「いいえ。あなたは倒れながら、明確にあの瞬間を狙っていた。……あなたのその不気味な成長曲線、もっと近くで確認させてもらう必要があるわね」
セレナは右手を見下ろした。木剣を握る指先が、小さく震えている。
「この握り直しは、三か月前から消えない」
初めて聞く弱音だった。
「反復が足りないと思っていた。でも、あなたは昨日できなかった動きを今日変えた」
彼女は震えを止めるように拳を握り、ギルドの裏口を指した。
「明後日、近隣の街への長距離護送が出る。私が評価役として同行し、あなたにも入ってもらう。実戦で《休養》を確かめたい」
「俺にも予定があります」
「午後十時までには戻すわ」
そこまで調べていたらしい。
勝ったのは彼女だ。それでも、次の検証を選んだのも彼女だった。俺は痛む腹を押さえて立ち上がった。




