第2話 九時間寝ただけじゃない
王都アルシオンから徒歩で一時間ほど下った先に広がる、薄暗い針葉樹林。初級冒険者たちの最初の狩り場となるこの森で、俺は明確な「失敗」を噛み締めていた。
視線の先で低く唸り声を上げているのは、リープハウンド――しなやかな四肢を持つ、大型犬ほどの大きさの魔獣だ。
動きそのものは目で追えないほど速いわけではない。だが、こいつらは独特のフェイントを持っていた。
グルルッ、と喉を鳴らした直後、リープハウンドの右前足が深く地面へ沈み込む。
右へ飛ぶ。そう判断して俺が剣の軌道を右下へ置いた瞬間、魔獣の動きがブレた。
沈み込んだ右足はただの囮。圧縮された筋肉がバネのように弾け、リープハウンドは逆の左方向へ鋭く旋回しながら跳躍してきたのだ。
「――っ」
完全に虚を突かれた俺の剣は空を切り、大きく体勢が崩れる。
首筋を狙って迫る牙を、咄嗟に左腕の革手甲で弾き飛ばしたものの、鋭い爪が俺の革鎧の肩口をかすめ、浅い裂傷を残した。
痛みが走り、わずかに血が滲む。致命傷ではない。だが、今の交差は完全に俺の負けだった。
「なるほど、そういう重心移動か」
俺は焦って斬りかかるような真似はせず、大きく後方へ跳んで間合いを取り直した。
今の一撃で討ち取れなかったのは、純粋に俺の身体が魔獣のフェイント挙動を知らなかったからだ。
魔獣が再び飛びかかってくるまでの間、俺は剣を構え直しながら、その骨格の連動と筋肉の収縮をじっくりと観察した。右へ沈み込む際、本命の跳躍へ備えて左の後ろ足にだけ不自然なタメができる。あれが予備動作だ。
頭の中で動きを整理し、俺は自分でも何度か、そのフェイントに対応するための左へのステップと迎撃の姿勢を小さく試してみる。
だが、頭で理解したからといって、すぐに肉体がその通りに動くわけではない。神経回路が新しい動きに繋がっておらず、ステップはひどくぎこちなかった。
(これ以上は無駄だな。今日はここまでだ)
今の未完成な動きのまま戦い続ければ、かすり傷が重傷に変わるだけだ。
俺は確実に仕留められる鈍重な個体だけを数匹狩り、ノルマの討伐証明部位だけを剥ぎ取ると、日が傾き始める前にさっさと森から撤収した。
* * *
夕方のギルドは、一日の依頼を終えた冒険者たちの熱気と血の匂いで充満していた。
報告窓口に討伐証明の耳を提出し、ささやかな銅貨を受け取っていると、背後から荒々しい足音が近づいてきた。
「なんだレン、もう帰ってきたのか? 討伐数五匹って、いくら初依頼でも少なすぎねえか」
振り返ると、昨日の実技試験で同期となったダリオが、血濡れの麻袋を肩に担いで立っていた。袋の膨らみからして、俺の倍以上のリープハウンドを狩ってきたらしい。
だが、彼の状態は決して褒められたものではなかった。
左腕の袖は大きく引き裂かれ、肩から二の腕にかけて深い爪痕が何本も走っている。傷口からはまだ血が滲み、顔色は疲労で青白い。それでもダリオの瞳は、興奮と優越感にギラギラと充血していた。
「見てみろ、この数を。森の浅い階層を走り回って、手当たり次第に斬り伏せてやったぜ。やっぱり実戦の経験値に勝るものはねえ」
「随分と派手にやられたみたいだが、大丈夫なのか」
「ああ? これくらい、覚醒薬を飲めば痛みなんて飛んじまうよ」
ダリオは腰のポーチから濁った緑色の小瓶を取り出し、一気に飲み干した。眠気と痛みを遠ざける代わりに、傷そのものは治さない薬だ。青白かった頬に、作り物めいた血の気が戻る。
「俺たちはこの後、傷の治療を手早く済ませてから、朝まで訓練場で今日の反復稽古だ。起きている時間にどれだけ剣を振ったかで、俺とお前の差はどんどん開いていく。どうだ、お前も今から訓練に来るか? それとも、このまま酒場で傷の舐め合いでもするか?」
ダリオの背後では、同じ班の新人たちが疲れ切った顔をしながらも、無理やり愛想笑いを浮かべていた。
俺はギルドの壁に掛けられた魔導時計へ視線をやる。針は午後六時を指していた。
夕食を取り、風呂に入り、昂ぶった神経を鎮める時間を逆算すれば、もう寄り道をしている余裕はない。
「遠慮しておく。十時に寝るので、もう帰る」
「……はぁ? まだ六時だろうが!」
「十時に寝るための準備があるんだ。じゃあな、怪我を悪化させないようにな」
呆気にとられるダリオをその場に残し、俺は足早にギルドを後にした。
酒も飲まないし、夜更かしもしない。
今日の失敗は、まだ頭で分かっただけだ。明日、身体が同じ合図に反応できるかは、眠ってみなければ分からない。
安宿の硬いベッドに潜り込み、俺は目を閉じた。肩の浅い傷がシーツに触れ、鈍く痛んだ。
* * *
翌朝。
窓から差し込む朝日と共に目覚めた俺の視界に、あの淡い文字が浮かび上がった。
《未定着経験:リープハウンドの重心移動予測および迎撃姿勢――定着完了》
身体が軽い。ベッドから降りて軽くステップを踏んでみると、昨日は引っかかっていた左への踏み込みが、迷わず一度で出た。
俺は満足して身支度を整え、昨日と同じ森へ向かった。
木漏れ日の落ちる獣道。
茂みを揺らして飛び出してきたのは、昨日俺に傷を負わせたのと同じ、リープハウンドの群れだった。
先頭の一匹が低く唸り、右前足を深く沈み込ませる。
(来る――)
昨日ならここで右に釣られていた。
だが今日は、魔獣の左後ろ足にだけ残るタメを見落とさなかった。
魔獣が右へのフェイントを見せ、筋肉を爆発させて左方向へ鋭く旋回した瞬間。
考え直すより先に、左足が昨日決めた位置へ出た。
魔獣が空中に身を投げ出した時には、既に俺の剣はその軌道上に置かれていた。
自らの跳躍の勢いを利用される形となり、リープハウンドは自ら俺の剣先へ首を差し出すようにして両断された。
血飛沫が舞う。着地と同時に剣を払い、俺は次弾へ備えて残心を取る。
呼吸の乱れはない。焦りもない。
「……決まったな」
昨日できなかった迎撃が、今日は決まった。
その後も同じフェイントを仕掛ける個体を選び、動きを確かめながら仕留めた。昨日と違い、革鎧には新しい傷がない。討伐証明の入った麻袋は、昨日より明らかに重かった。
* * *
太陽が高い位置にあるうちにギルドへ戻り、報酬の銀貨を受け取った帰り道。
ギルド裏手に併設された公開訓練場から、地鳴りのような歓声が上がっているのが聞こえた。
何事かと人だかりの隙間から覗き込むと、広場の中央で一人の剣士が立ち回っているところだった。
白雪のような銀髪を揺らす、まだ二十歳前後の少女。
しかし、その華奢な身体から放たれる剣圧は異常だった。訓練用の木剣を握っているにもかかわらず、彼女の周囲だけ空気が張り詰めている。
相手をしているのはB級相当のベテラン剣士だが、彼は完全に防戦一方だった。
「すげえ……これで十二人抜きだぞ」
「さすがは『眠らぬ剣姫』セレナ・ヴァイス。今月に入ってから一日三時間しか寝てないって噂だが、動きに一切の陰りがねえ……!」
観客たちの熱狂的な声が耳に届く。
彼女の剣は速く、そして精密だった。無駄な予備動作が一切なく、相手の防御を紙のように斬り裂いていく。
やがて、セレナが踏み込みと同時に放った鋭い刺突が、ベテラン剣士の木剣を根本からへし折った。勝負ありだ。
歓声が爆発する中、彼女は静かに木剣を下ろした。
強い。今の俺が百回挑んでも百回負けるだろう。そう確信するほどの圧倒的な実力差だった。
だが、俺の目は、彼女が対戦相手へ一礼し、剣を鞘へ納めようとした一瞬の動作に釘付けになった。
――トン、と。
本当にごくわずかな動作。彼女は木剣の柄から一度力を抜き、まるで指先の違和感を確かめるかのように、柄を「握り直し」たのだ。
(今の癖は……?)
十二人を連続で圧倒した完璧な剣士に似つかわしくない、ほんのわずかなズレ。
それが疲労によるものなのか、何か別の要因があるのかは分からない。
だが、その微細な握り直しの癖を、俺の目はしっかりと「観察経験」として脳裏に焼き付けていた。




