第1話 昨日できなかった一歩
踏み切りの瞬間、左足の親指にかける重心を、昨日よりわずか指一本分だけ外側へ逃がす。
宙に浮いた丸太が不規則に揺れ、足場が視界から逃げようとしていた。昨日の予備試験では三度挑み、三度ともここで足首を滑らせ、泥水の中へ無様に転がり落ちた難所だ。
だが、今の俺の足裏は、まるで吸い付くように湿った木肌の凹凸を捉えていた。
トン、と硬質な爪先のリズムが一つ。
身体がブレない。流れるように体幹が前傾し、最後の跳躍台を蹴り抜いて、俺は何の乱れもなく着地用マットのど真ん中に両足で立っていた。
「……タイム、二十四秒二。着地乱れなし。足運びの安定度、特A」
ストップウォッチを握った試験官が、わずかに眉を上げて羊皮紙の採点表に羽根ペンを走らせる。
ざわり、と訓練場の空気が揺れた。
着地台のすぐ脇、腕を組んでこちらを睨みつけていた同期の首席候補――ダリオ・ケインの青白い顔に、露骨な動揺が走るのが見えた。
ダリオの記録は二十五秒八。荒々しい魔力加速で丸太を強引に踏み潰しながら駆け抜けた彼の評価は「速度A、姿勢C」だった。精密さにおいて、俺の数値が明確に上回った瞬間だった。
「おい、アルヴァ」
試験官が羊皮紙から顔を上げ、訝しげに俺を検分するように見つめてきた。
「昨日の予備試験じゃ、同じ箇所で三度連続して足首を挫きかけていただろう。軸足の踏み込みが完全に死んでいたはずだ。……昨夜、どれだけ居残り訓練を積んだ? 覚醒術を使って夜通し補正の反復をやったのか?」
「いえ」
俺は乱れもしない呼吸を整えながら、ごく自然に答えた。
「昨夜は午後十時にベッドに入って、今朝七時まで――九時間きっかり寝ました」
訓練場が一瞬、静まり返った。
次の瞬間、吹き出すような嘲笑が周囲の受験生たちから漏れ出す。
「はっ……九時間だと? 正気かよ」
「この認定試験の直前に、丸々一晩爆睡したってのか?」
「俺なんて『眠気遮断薬』を二本飲んで、昨夜は二時間しか横になってないぞ。起きてる時間こそが成長のすべてだろうが」
笑い声の理由は同じだ。この王都では、長く起きているほど努力家で、眠るほど怠け者と見なされる。九時間睡眠は、試験前に遊び呆けたと告白するのと大差がない。
「ふざけるなよ、レン・アルヴァ」
ダリオが鼻を鳴らし、足音荒く歩み寄ってきた。
彼の目の下には、連日の徹夜訓練を示す濃い隈が張り付いている。だがその瞳には、自分の限界を削り取って得たという歪んだ誇りがぎらついていた。
「試験官殿、こいつに妙な下駄を履かせるのはやめていただきたい。こいつの授かった固有スキルは《休養》――使い道のないハズレスキル中のハズレですよ。寝ることしか能がない怠け者が、努力の積み重ねでしか身につかない精密動作を一晩で習得できるわけがない。今の跳躍は、ただのまぐれです」
「まぐれ、か」
試験官は顎を撫で、採点表のボードを叩いた。
「では、追加の実技を行おう。第二十一番課題――魔力散らしの二段踏み込みだ」
周囲の空気が一転して引き締まる。
それは予備試験の課題一覧にも載っていなかった、正規合格者向けの高等技術だった。足場を蹴る瞬間に足裏の魔力を二方向へ分散させ、反動を打ち消しながら加速する。一度も手本を見せられておらず、実地での反復経験もない技だ。
「ダリオ、まずお前からだ」
「はっ!」
ダリオは短く息を吐き、体内魔力を無理やりに練り上げた。血走った瞳をカッと見開き、鋭い気合とともに跳躍する。
空中で足裏の魔力が炸裂した。衝撃の制御が甘く、着地で膝を激しく震わせたものの、彼は歯を食いしばって転倒を耐え抜いた。
「……合格点だ。技術は荒いが、覚醒状態で無理やりねじ伏せたな」
試験官の判定に、ダリオは誇らしげに顎をしゃくった。
そして冷笑を浮かべながら、俺へと視線を投げてくる。
「さあ、見せてみろよ九時間睡眠。お前のその素晴らしいお休みで、見たこともない高等技が飛び出すんだろうな?」
俺は何も言わず、スタート位置に立った。
息を吸い、地面を蹴る。空中へと身体を投げ出し、頭の中でダリオの動きと試験官の言葉をなぞり、足裏の魔力を分散させようと試みた。
――だが。
ドサッ、と鈍い音が響いた。
魔力は散るどころか互いに干渉して暴発し、推進力は完全に霧散した。
俺の身体はそのまま軌道を失い、無様に背中からマットへ叩きつけられた。受け身を取るのが精一杯で、技の形にすらなっていない完全な落第動作だった。
「ぶはっ! あはははは!」
「おいおい、何だあのザマは!」
「二段踏み込みどころか、ただ空中で足をもたつかせて落ちただけじゃねえか!」
観客たちから一斉に爆笑が巻き起こる。
ダリオは満足そうに肩を揺らし、蔑むような目を俺に向けた。
「ほら見ろ、やっぱり奇跡は一度きりだ! 寝ただけで新しい技が頭から湧いて出るはずがないんだよ。起きている間に血を吐く思いで身体へ叩き込んだ者だけが、未知の技術をねじ伏せられる。お前のような怠け者が冒険者を名乗るなど、身の程知らずもいいところだ!」
試験官もまた、小さく息を吐いて手元の紙をめくった。
「最初の跳躍は評価する。だが、未知の技まで使えるわけではないらしいな。追加課題は不合格だ、アルヴァ」
俺は泥を払いながら立ち上がり、静かに一礼した。
「ご指導、ありがとうございます」
悔しさは微塵もなかった。
むしろ、確信がさらに深まっただけだ。
《休養》は、知らない技を授けてくれるスキルではない。
昼に失敗し、観察し、自分の身体で確かめた経験だけが、眠った翌朝の動きになる。昨日三度転んだ丸太渡りは成功し、一度も試していない二段踏み込みは失敗した。
それで十分だ。できないことまで分かった。
「アルヴァ、ダリオ。二人とも総合点では基準を越えている。これが初級冒険者証と、初回の活動準備金だ」
受付の天幕へ移動し、試験官から小さな革袋と銅の冒険者証を受け取る。
銀貨が数枚、ジャラリと擦れ合う重みを感じながら、俺は壁に貼られた王都の案内図へ視線を走らせた。
案内図の隅にある《静穏区》の家賃欄と、手の中の銀貨を見比べる。
(誰にも起こされない部屋までは、まだ遠いな)
だが、焦る必要はない。
隣ではダリオが、悔しさを滲ませた目で俺を睨みつけていた。
「今日は一本取られた。だが次はない。俺は今夜も四時間で切り上げる。起きている時間の差を、次の依頼で見せてやる」
ダリオはそう吐き捨てると、踵を返して去っていった。
俺は彼の背中を見送ることもなく、空を見上げた。午後十時にベッドへ潜り込むためには、夕方の買い出しと装備の手入れを無駄なく最短で済ませる必要がある。
ふと、視界の隅が淡く瞬いた。
誰にも見えない、俺の網膜だけに浮かび上がる透明な文字の羅列。
《未定着経験:丸太渡りの跳躍軌道および重心補正――定着完了》
表示が消えた後も、左足の親指には、丸太を捉えた感触が残っていた。
明日は森で、この一歩が未知のフェイントにも通じるのか確かめる。




