第29話 俺だけ特別だったのか
第四階層の救護区画。
携帯晶板には、総合一位へ上がった俺たちと、速度首位のレグルス班が並んでいた。だが、画面を見る者の視線は順位ではなく、転移罠の前で倒れた若手へ集まっている。
レグルスの目前には、首位を奪い返せる最短ルート。反対側には、青白く光り始めた感圧板と、意識を失った若手がいる。
罠が起動しても第一階層へ戻されるだけで、命まで奪われるわけではない。競技者のレグルスが、勝利を捨てて助ける義理はなかった。
しかし。
中継画面の中のレグルス・クロウは、舌打ちを一つすると、目の前にあった首位奪回の最短ルートへ完全に背を向けた。
『レグルス班、動いた! しかし進む先が違います! 彼らは最短ルートを捨てて、倒れた若手のもとへ駆け寄っていく!』
レグルスは罠が起動する寸前の床へ強引に踏み込み、倒れていた重装備の若手を軽々と自分の肩に担ぎ上げた。そして、仲間を置いて逃げた若手たちを追いかけることすらせず、迷宮の奥から逆走する形で走り出したのだ。
彼が向かってきているのは、俺たちのいるこの救護区画だった。
「……あの人、自分の勝利をドブに捨てやがったぞ」
ダグが信じられないというように呟く。
だが、俺には彼の選択が理解できた。レグルスは『起きている時間を努力に使う』ことを信条としている男だ。だからこそ、その努力の果てに倒れた者を、ただの自己責任だと見捨てることはできなかったのだろう。
数十分後。
救護区画の入り口に、レグルスが若手を担ぎ込んで現れた。
「おい、こいつの治療を頼む! 意識が混濁している!」
「こちらへ寝かせてください。フィアさん、解呪と回復を」
「ええ、任せて」
俺は余計な言葉を一切挟まず、実務的に若手の受け入れをサポートした。セレナが若手の装備を解き、フィアが治癒の光を放つ。
俺がレグルスの選択を説教したり、評価したりする資格はない。彼が首位を捨てたという事実だけがそこにあった。
「……すまない、アンタの講習の通りに、九十分まで睡眠を削ったのに……」
意識を取り戻しかけた若手が、虚ろな目でレグルスを見上げて呟いた。
その手から、くしゃくしゃになった一枚の羊皮紙が滑り落ちる。ギルドが発行した、レグルスの『時間拡張法』の広告チラシだった。
「俺は、お前たちに無理をしろとは教えていないはずだ。段階を踏んで適性を見極めろと……」
「でも……ここに、書いてあるじゃないか……」
若手の言葉に、レグルスは落ちたチラシを拾い上げた。
そこには、大きな文字で《受講生の九割が短眠に成功! 誰でも九十分で十分な回復を得られる!》と記されていた。
「……フィアさん」
「ええ」
俺の視線を受け、フィアが眼鏡の位置を直しながら静かに口を開いた。
「レグルス。あなたの《瞬眠》は本物よ。でも、あなたについて来られずに身体を壊して脱落した者たちのデータは、その広告の集計から意図的に外されているわ。成功した者だけを分母にした、都合のいい集計よ」
フィアの言葉に、レグルスはチラシを握りしめ、ギリッと奥歯を鳴らした。
彼は詐欺師ではない。自分が努力で手に入れたと思っている成功法則を、純粋に他人にも教えようとしただけだ。だが、ギルドの商業主義と結びついたその教えは、適性のない者たちに『睡眠を削れば誰でも強くなれる』という呪いをかけていた。
「……俺の《瞬眠》という特別な適性を、万人の正解だと押し付けていたというのか」
レグルスは、己の認識の甘さをはっきりと認めた。
長々とした言い訳も、自己弁護も一切ない。彼はただちに運営への直通通信用晶板を手に取り、回線を開いた。
「運営か、レグルスだ。俺の講習データの集計方法について、今すぐ脱落者も含めた正しい数字を公表しろ。……ああ、俺の名前を使って構わない。責任は俺が取る」
自身の社会的影響力と、無自覚に広げてしまった嘘に対して、彼は最も重い行動で責任を取った。己の格を微塵も落とすことなく、自省を行動へ変えたのだ。
「アンタたちのやり方を『遅い』と笑ったこと、訂正しよう。……アンタたちを『遅いだけ』と見ていたのは、俺の間違いだ」
レグルスが通信機を下ろし、俺に向かってそう告げた、その直後だった。
ズゴゴゴゴゴォォォ……ッ!
迷宮全体が、突如として激しい地鳴りに見舞われた。
床が揺れ、天井の砂がパラパラと落ちてくる。
「何だ!? 地震か!」
「いや、迷宮の魔力流が異常な速度で暴走しているわ!」
フィアが悲鳴のように叫ぶ。
レグルスが手にしていた通信機から、運営の焦燥しきったアナウンスが飛び込んできた。
『全班へ緊急通告! 迷宮構造の予定外変化により、本競技を緊急停止――』
だが、その声は直後に「ザーッ!」という激しい雑音に掻き消され、通信は完全に途絶した。
「おい、見ろ! 出口が!」
ダグが指差した先。救護区画から地上へと通じているはずの、強固な鉄の『退出門』。
それが、まるで蠟が熱で溶けるようにズルリと崩れ落ち、周囲の石壁と完全に同化して消滅してしまったのだ。
「……閉じ込められた、ということですか」
俺は剣の柄に手をかけた。
通信途絶と、脱出経路の消失。
百時間迷宮という整備された競技の舞台は、たった今、出口のない完全な死地へと変貌を遂げたのだった。




