第27話 三階層戻し
第二階層と第三階層を繋ぐ、重厚な黒い大扉。
そこを抜けた先は、薄暗い岩壁の通路ではなく、足元に幾何学的な文様が刻まれた白亜の回廊だった。
「レン、止まって。前方に先行パーティーがいるわ」
セレナの鋭い声に、俺はピタリと足を止めた。
回廊の数十メートル先、徹夜で下層へ向かっていたB級上位のパーティーが、息を切らしながら歩を進めているところだった。
彼らの顔には濃い疲労の色が浮かんでいる。だが、その足取りは急いでいた。前を走るレグルス班に少しでも追いつこうという焦りが、彼らの歩幅を無自覚に広げさせている。
先頭を歩いていた盾役の男が、何の変哲もない白い床石に足を踏み入れた、その瞬間だった。
――カチッ。
微かな起動音。
直後、足元の幾何学模様が強烈な青白い光を放ち、パーティーの五人全員を飲み込んだ。
光が収まった後には、彼らの姿は影も形も残されていなかった。
「……消えたわね」
「おいおい、今の連中、どこに飛ばされちまったんだよ!?」
ダグが青ざめて叫ぶ。
その後方で、フィアがギルド支給の晶板を操作し、全体のログを確認していた。
「……確認したわ。さっきのパーティー、第一階層の入り口付近に座標が更新されている。間違いなく『三階層戻し』の強制転移罠よ」
「マジかよ……」
ダグが絶望的な声を漏らした。
ここまで丸二日、三十時間以上をかけて潜ってきた苦労が、あの一歩で完全に水泡に帰したのだ。単純な負傷なら治癒魔法で数時間もあれば復帰できる。だが、物理的にスタート地点へ戻されてしまえば、もう一度この長大な距離を歩き直さなければならない。
疲労の限界が近い彼らにとって、それは実質的な脱落宣告に等しかった。
「あの罠、相当に巧妙に偽装されているわね。魔力流の乱れがほとんどない」
セレナが目を細めて回廊の床を見据える。
フィアが晶板の画面を切り替え、公式配信の中継録画を空中に投影した。
「見て。現在トップを独走しているレグルス班が、どうやってこの区画を抜けたかの記録映像よ」
映し出されたのは、数時間前のレグルスの姿だった。
彼もまた、あの罠の存在には直前まで気づいていなかったようだ。だが、罠の感圧板に触れるコンマ数秒前、彼の超人的な直感が危機を告げたのだろう。レグルスはあり得ない反射神経で床を蹴り、罠が起動するよりも早く、強引な大跳躍で区画全体を飛び越えてしまっていた。
「……あれは参考にならないわね。あの人自身の『本物』の身体能力があってこその芸当よ」
「ええ。俺たちが同じ真似をすれば、空中で光に飲み込まれて終わりでしょう」
俺は晶板から目を離し、白亜の回廊へと視線を戻した。
「それに、他の上位陣はかなり苦戦しているようです」
フィアの言葉通り、晶板のログには『〇〇班、転移罠により第一階層へ戻し』という通知が次々と記録されていた。
覚醒薬で無理をして徹夜を続けている上位陣は、主観の疲労こそ麻痺していても、脳の処理能力と空間認識が著しく落ちている。巧妙に隠された罠の微細なサインを見抜くことができず、次々とスタート地点へ弾き飛ばされていた。
さらに恐ろしいのは、飛ばされた彼らが焦って走り直し、疲労のせいで再び同じ罠の配置に引っかかるという、無間地獄のようなループに陥り始めていることだ。
「さあ、行きましょうか」
俺はゆっくりと歩を進め、転移罠の密集地帯の前に立った。
レグルスのような超反応はない。だが、俺の脳と身体には、昨日の第一階層で泥臭く時間をかけて集め、九時間の睡眠で、再現しやすい形へ整理した『経験』があった。
石の材質、魔力糸の隠し方、そして踏み込む際の重心のブレ。
俺は目を細め、白亜の床に引かれた見えない『起動線』を浮き方と傷の差から候補を絞った。
「セレナ。右から三番目の白い石板はダミーです。その横の、わずかにくすんだ灰色の石板が安全ルートの入り口だ」
「分かったわ」
俺は一切の力みなく、定着した足運びで踏み込みを一歩だけずらした。
青白い光は上がらない。罠の起動線を数ミリの単位で回避し、偽装された床板のパターンを一本ずつ荷重を確かめながら進んでいく。昨日、罠解除に手間取りながら指先に刻み込んだテンションの記憶が、この回廊のどの石板が『浮いている』かを直感として教えてくれていた。
「よし、安全な床を再検証できる仮説まで絞れました」
俺が回廊の中間地点で振り返ると、フィアとダグが信じられないものを見る目で立ち尽くしていた。
「レン。あなた、本当に一度も迷わなかったわね……。これなら、私たちもノーミスで抜けられるわ」
「ええ。ですが、ただ抜けるだけじゃもったいない」
俺はフィアに向かって、先ほど自分が書き込んだ白地図のデータを差し出した。
「フィアさん。この転移罠区画の安全ルートの法則性と、危険な偽床のパターン。これを、ギルドの共有台帳の『全体公開』枠へ登録してください」
「全体公開? ライバルたちに安全な道を教えるってこと?」
「そうです」
俺は採点表の規約を思い出しながら言った。
「この《百時間迷宮》は、王立保険院と迷宮管理局が共催している。彼らが求めているのは、犠牲者を出さないことと、正確な情報です。採点項目には『危険情報共有・安全経路提示』の加点枠が大きく取られていましたよね」
「……なるほど。そういうことね!」
セレナが目を輝かせて意図を察した。
他人が罠にかかって脱落していくのを嘲笑っていても、俺のポイントは増えない。だが、情報を共有して後続の二次遭難を防げば、それは明確な『救助・共同貢献』として俺たちのスコアに加算される。
フィアが素早く晶板を操作し、共有台帳へ情報を登録する。
数分後、俺たちの携帯晶板から、ポイントの大幅な上昇を知らせるファンファーレが鳴り響いた。
《レン班:危険区域の安全経路提示および後続の遭難防止貢献により、一二〇ポイントを加算》
《総合順位:六十八位へ上昇》
三十時間の稼働時間の差を、どうやって埋めるのか。
その答えがこれだ。俺たちは九時間寝ることで極限の判断精度を保ち、やり直し(手戻り)による数時間のロスを完全に排除する。さらに、その精度から得た情報をルールに沿って得点化していく。
起きている時間の量ではなく、ミスのない確実な進行とシステムへの適合。それが、俺たちがレグルス班の背中を追うための最短ルートだった。
後続の一班が、跳躍の構えを解いた。
彼らは共有した安全床へ一歩ずつ印を置き、誰一人転移させられずに回廊を渡り切った。
俺たちの遅い一歩が、別の班の手戻りを初めて消した。




