第25話 翌朝の逆転開始
防音幕と振動遮断床布を背嚢に詰め直し、俺たちは第一階層の奥へと歩を進めた。
百時間迷宮、二日目の午前七時二十分。俺の身体は九時間のまとまった睡眠を経て、羽のように軽く、そして恐ろしいほどに研ぎ澄まされていた。
「この先、昨日何度も足止めを食らった複合罠の区画よ」
セレナが剣の柄に手をかけながら、前方の薄暗い通路を見据えた。
昨日の午後、俺たちが数時間かけて慎重に魔力流を観察し、罠の構造を調べ尽くした場所だ。目視が困難な魔力糸が張り巡らされ、壁のわずかな窪みには毒針の射出機が仕掛けられている。
「ええ。ですが、もう立ち止まる必要はありません」
俺は迷うことなく、罠が密集する通路へと足を踏み入れた。
魔力糸の配置、感圧板の沈み込みの深さ、壁の射出機の射角。それらすべての『空間把握』の経験素材は、昨夜の睡眠によって、俺の脳内に歩いた範囲の立体図として整理されている。
右へ半歩。左肩を落として魔力糸をくぐり、三歩目の歩幅をわずかに広げて偽装された床板を跨ぐ。
昨日、何度も冷や汗をかきながら確かめた一つ一つの動作が、今日はまるで長年踊り慣れたステップのように滑らかに出力された。
通路の中間地点に隠されていたメインの起爆装置に到達すると、俺は躊躇いなく手を伸ばし、ワイヤーの張力を指先で感じ取りながら、三本の解除ピンを立て続けに引き抜いた。
「解除完了。通れますよ」
カチャリ、と重い金属音が響き、通路を塞いでいた魔力結界が霧散する。
後方で警戒していたダグが、目を丸くして立ち尽くしていた。
「……おいおい、嘘だろ。あんな複雑な罠、一歩も止まらずに抜けやがったぞ。昨日はあんなに手こずってたのに、まるで別人じゃねえか」
「言ったでしょう。彼の強さは、同じ障害へ再挑戦する時にこそ発揮されるのよ」
セレナが誇らしげに微笑み、俺の後を追って安全になった通路を通り抜ける。
罠を抜けた直後、岩壁の隙間から、昨日と同じ巨大な節足魔獣――ケイブセンチピードが二匹、嫌な水音を立てて這い出してきた。
「レン、来るわよ!」
「昨日の復習ですね」
俺は剣を抜き、這い寄る魔獣へ向かって自ら間合いを詰めた。
昨日、セレナが前衛で引き出してくれた、多脚の駆動パターンと毒液を吐く前の予備動作。魔獣の顎が不自然に膨らみ、右側の三本の脚が深く沈み込んだ瞬間、俺は迷いなく左斜め前へと踏み込んだ。
毒液の射線から外れた位置。魔獣の甲殻の継ぎ目、最も柔らかい急所が俺の目の前に晒される。
一切の力みなく、一直線に剣を突き入れた。
硬い外殻を傷つけることなく、内部の神経束だけを正確に断ち切る。一匹目が声を上げる間もなく崩れ落ちるのと同時に、セレナの白銀の閃光が二匹目の急所を貫いていた。
「見事ね。素材の損傷、全くなしよ」
「ええ。高く売れそうです」
俺たちは魔獣の希少部位である毒腺と無傷の甲殻を素早く剥ぎ取り、麻袋へと放り込んだ。
午前九時。第一階層の終端に設置された、運営の魔導記録台に到達した。
俺がギルド支給の携帯晶板を台座にかざすと、淡い光と共に俺たちレン班の最新のスコアが更新された。
《第二十三回チェックポイント通過・スコア更新》
《到達・主要目標:一〇点》
《速度ボーナス:〇点》
相変わらず、徹夜で下層を走っている連中と比べれば、この二項目のポイントは底辺を這いずり回っている。
だが、その下に続く項目の数字が、昨日から一変していた。
《地図作成・構造把握:一五五点(第一階層網羅率九八%・重複ペナルティなし)》
《罠解除・謎解き:一四〇点(誤作動ゼロ)》
《素材・討伐品質:八五点(部位損傷なし)》
フィアが晶板の画面を見つめ、小さく息を呑んだ。
「……信じられないポイントの伸び方よ。一時間あたりの得点効率が、昨日の夜から跳ね上がっているわ」
彼女が表示を送り、全体順位を表示する。
昨日、三百十九位という最下位付近に沈んでいた俺たちの順位は、たった数時間のうちに『百六十二位』――全体の中盤帯へと一気にジャンプアップしていた。
「うおおっ! 一気に半分抜いたぞ!」
ダグが興奮して拳を握りしめる。
無理もない。他のパーティーが疲労によって同じ道を何度も往復し『地図作成』の点数を落とし、罠の誤作動で減点を食らっている中、俺たちはすべての行動を最高精度の品質でノーミスでこなしているのだ。
到達点や速度ボーナスといった「起きている時間の長さ」で勝負する項目を捨てた代わりに、一歩あたりの『得点の密度』が桁違いに高くなっている。
「まだ喜ぶのは早いわ。レグルス班の総合スコアは、いまだに千点を越えてトップを独走している。ここからが本当の勝負よ」
セレナが気を引き締めるように言い、俺も深く頷いた。
俺たちの戦術は間違っていない。だが、レグルスの《瞬眠》がもたらす圧倒的な活動量に追いつくためには、さらにこの精度を維持し続けなければならない。
「第二階層へ下りましょう。今日の素材集めの開始です」
俺たちは暗い階段を降り、より複雑な迷宮の奥へと足を踏み入れた。
* * *
『競技階層・第三階層/晶板中継/午後一時十分』
王都の広場に設置された大型晶板は、迷宮の第三階層を信じられない速度で突き進むトップランナーの姿を映し出していた。
『ご覧ください! 覚醒王レグルス・クロウの快進撃は二日目の午後になっても止まりません! 複雑な岩の迷路を直線的に破壊し、既に第四階層への入り口を捕捉した模様です!』
実況の声が熱を帯びる中、レグルスは巨大な戦斧を軽々と振り回し、立ち塞がるゴーレムたちを粉砕していく。
彼の動きには、昨日のスタート直後と全く変わらない力強さと精細さがあった。九十分の睡眠で完全な安息を得る彼の肉体は、百時間のサバイバルにおいて無類の強さを誇っている。
だが。
その背後を守る彼のパーティーメンバーたちは、決してそうではなかった。
レグルス本人の超人的なペースに必死に食らいつき、覚醒薬で限界まで眠気を散らしている彼らの身体には、三十時間を超える連続稼働の疲労が、目に見えない鉛となって確実に蓄積していた。
「グッ……!」
前衛を任されていた若手の一人が、倒れたゴーレムの残骸に足を滑らせた。
普段であれば絶対にあり得ない、初歩的なステップのミス。そのわずかな体勢の崩れを突いて、岩陰から飛び出してきた鋭い刃を持つ魔獣が若手の肩口へ襲いかかった。
「下がれ!!」
レグルスが即座に反応し、戦斧の柄で魔獣を強引に殴り飛ばす。
凄まじい反射神経による完璧なフォロー。若手の命に別状はなかった。
だが、魔獣の刃は若手の肩の装甲を浅く掠め、鮮血を散らしていた。
『あーっと! ここでレグルス班の前衛が被弾! 致命傷ではありませんが、初めて【軽微な負傷】によるペナルティ減点が加算されました!』
実況が事実を告げる。
レグルス班の総合スコアから、わずかな点数が引かれた。
千点を超える圧倒的な総合ポイントからすれば、誤差のような小さな減点だ。彼らがぶっちぎりの首位であることに、何ら変わりはない。
しかし、百時間の長丁場において、短眠エリートたちの完璧な行軍に生じたその『初めての小さな判断ミス』は、無視できない綻びの兆しだった。




