第24話 本当に寝た
迷宮内の時間は、外の世界の昼夜に影響されない。だが、俺の体内時計とギルド支給の魔導時計は、間違いなく午後九時半を回っていることを告げていた。
第一階層の壁際に窪んだ小部屋を見つけた俺たちは、迷宮用に支給されたポイントで購入した装備の展開を終えていた。
「防音幕、設置完了。振動遮断床布の固定も終わりました」
俺が入り口に分厚い特殊な幕を引き、床一面に柔らかな布を敷き詰めると、じめじめとした地下水路の反響音や、遠くで響く魔獣の咆哮が嘘のように遮断された。
外の喧騒を完全に切り離した、極上の休息空間の完成だ。
「完璧ね。これなら馬車の荷台より遥かに快適に眠れそうよ」
セレナが満足げに頷き、寝袋の感触を確かめている。
その傍らで、記録係のフィアが携帯用の晶板を操作していた。画面には、ギルド本部が王都全域に流している『百時間迷宮』の公式配信映像と、視聴者からのコメントが滝のように流れている。
俺たちの総合順位は、相変わらず三百二十班中の最下位付近を這いずり回っていた。
【おい見ろよ、底辺のレン班が防音幕なんか張り始めたぞ】
【うわ、マジで寝る気か? 開始六時間で最下位なのに!?】
【こいつら舐めてんのか! 他のパーティーは血眼で徹夜してポイント稼いでるんだぞ!】
【『眠らぬ剣姫』もすっかり怠け者に毒されちまったな。終わってるわ】
コメント欄は、ほとんど炎上状態だった。
起きている時間こそが努力の証であるこの世界において、百時間というタイムアタックの最中に九時間もの睡眠を取る行為は、彼らの目には冒涜にしか映らないのだろう。
「随分と言われているわね」
フィアが苦笑しながら晶板を傾ける。だが、セレナは外野の嘲笑を鼻で笑い飛ばした。
「放っておきなさい。彼らは、睡眠を削ってどれだけ効率が落ちるかを自分の身体で測ったことのない連中よ。私は、私自身の検証結果しか信じないわ」
セレナは迷いなく晶板の光を落とし、一番奥の寝袋へと潜り込んだ。
彼女にはもう、順位や他人の評価に急かされて無理をするような焦燥感は一切なかった。昨日までの遠征で、「任せて休むこと」がどれほど自分の刃を研ぎ澄ますかを、身体の芯で理解しているからだ。
「俺も寝ます。ダグ、フィアさん、おやすみなさい」
午後十時。俺も寝袋に入り、目を閉じる。
周囲の批判などどうでもいい。俺の頭の中にあるのは、今日一日かけて集めた『第一階層の魔力流のパターン』と『罠のワイヤーの張力』、そして『ケイブセンチピードの予備動作』の記憶だけだ。
俺はそれらの未定着な経験素材を脳内で強く反芻しながら、意識を深い安息の底へと落としていった。
* * *
『競技階層/晶板中継/午前二時十五分』
『さあ、現在時刻は深夜二時を回りました! しかし上位陣の勢いは全く止まりません!』
王都の広場に響き渡る実況の声は、深夜帯特有の熱を帯びていた。
大型晶板のメイン画面を飾っているのは、圧倒的な速度で第三階層を爆走するレグルス班の姿だ。
『覚醒王レグルス! 先ほど九十分の《瞬眠》を終えたかと思えば、すぐに戦線に復帰し、第三階層の門番である大型ゴーレムを一撃で粉砕しました! 彼の《瞬眠》と無尽蔵のスタミナは、まさにこの百時間迷宮を制するためにあるようなものです!』
到達点と速度ボーナスを荒稼ぎし、ぶっちぎりの総合トップを快走するレグルスの姿に、深夜まで配信を見守る観客たちは熱狂した。
『一方で、中間層の動きには少し暗い影が見え始めていますね。晶板のカメラを、現在五十位付近のルーキーチームに切り替えてみましょう』
画面が切り替わり、薄暗い第二階層の通路を走る若手パーティーが映し出される。彼らはレグルスに憧れ、覚醒薬を過剰に摂取して徹夜行軍を強行しているチームの一つだった。
速度点こそ稼いでいるものの、彼らの足取りは重く、目は充血し、互いに交わす声にも余裕がない。
「おい、この通路さっきも通らなかったか!?」
「違う! 魔力苔の光り方が右曲がりだ、ここはまだ未踏破のルートのはずだ!」
だが、画面端に表示される迷宮の『実測マップ』は残酷な真実を告げていた。
彼らは同じ区画をすでに三回もループしていた。疲労によって空間認識能力が著しく低下し、似たような景色を見分けることができなくなっているのだ。
『あーっと、またしても行き止まりです! 同じ経路の重複探索は《地図作成》項目において大幅なマイナス査定となります! 起きている時間は長いのに、一時間あたりの獲得ポイントが急激に下がり始めています!』
* * *
『競技階層/晶板中継/午前五時四十分』
夜明け前。人間の身体のリズムが最も深く沈み込み、疲労がピークに達する時間帯。
晶板の画面は、迷宮内の至る所で発生する「小さな事故」を次々と映し出していた。
「しまっ……罠だ!」
ある中堅パーティーの斥候が、床のわずかな色の違いを見落とし、感圧板を踏み抜いた。
壁から無数の毒矢が射出され、後続の仲間たちが悲鳴を上げて倒れ込む。
『またしても罠の起動です! 命に別状はありませんが、毒の解呪と負傷の治療で、このパーティーは最低でも二時間は足止めを食うことになります!』
『しかも、罠の作動ペナルティとして総合点から三十点がマイナスされました! これは痛い!』
別の画面では、魔獣の単調なフェイントに反応しきれず、腕を斬り裂かれる冒険者の姿が映る。
起き続けている彼らは、確かに速度点を稼いでいた。だが、疲労による集中力の欠如が引き起こす『地図重複』『罠の見落とし』『小傷の蓄積』が、稼いだはずのポイントを容赦なく削り取っていく。
起きている時間の量が、必ずしも得点に結びつくわけではない。
競技開始から半日が経とうとする中、その冷酷な事実が、客観的なデータとして晶板の上に少しずつ可視化され始めていた。
* * *
『競技階層/第一階層・第七休息区画/午前七時〇〇分』
ピッ、ピッ、ピッ。
設定しておいた魔導時計のアラームが鳴る数分前。
俺は、長く絡んでいた糸がほどけたような頭の軽さと共に、静かに目を開けた。
《未定着経験:第一階層における安全な進行手順――定着完了》
視界の隅に浮かぶシステム表示を確認するまでもない。
寝袋から身を起こした瞬間、俺の脳内には、昨日歩き回った第一階層の複雑な立体マップが、歩いた範囲の見取り図として、迷わずたどれる形にまとまっていた。
両手の指を軽く動かす。罠のワイヤーが弾ける寸前の、あのギリギリの張力が、指先の記憶として残っている。
「……おはよう、レン」
隣の寝袋から、セレナが身を起こした。
白銀の髪を手櫛で整える彼女の顔には、微塵の疲労も残っていない。瞳は澄み切り、剣を握らずとも、その身体から発せられる闘気が極限まで研ぎ澄まされていることが分かった。
昨日の焦りを残さず、自分で選んだ動きを再現できる『二日目の別人』だ。
「おはようございます。よく眠れましたか」
「ええ。防音幕のおかげで、一度も目を覚まさなかったわ」
ダグとフィアも起き出し、手早く朝食の干し肉をかじりながら撤収の準備を進める。
フィアが晶板を起動し、最新の順位表を空中に投影した。
「現在のトップは相変わらずレグルス班。総合点、九百八十点よ。彼ら、もう第四階層に入ろうとしているわ」
「で、俺たちは?」
「百七十点。三百二十班中、三百十九位よ」
ダグが「マジかよ」と頭を抱えるが、俺もセレナも全く動じなかった。
「上等ですね」
俺は防音幕を畳み、背嚢に押し込みながら笑った。
八百点近い大差。だが、迷宮の構造も、罠の解除法も、魔獣の動きも、俺の身体には再挑戦に使える手順として残っている。ここからは、昨日のような泥臭い素材集めの時間ではない。昨日確かめた手順を、今度は止まらずに再現する番だ。
「さあ、昨日取りこぼしたポイントを回収しに行きましょう」
俺が剣帯を締め直すと、セレナが不敵な笑みを浮かべて頷いた。
二日目の朝。九時間を使った俺たちが、一歩の得点で差を返す番が来た。




