第20話 十日目の差
大断層渓谷の空を、分厚い土埃が覆っていた。
比較遠征の十日目。本来であれば、今日の夕方には全日程を終え、王都のギルドで結果報告の祝杯を上げているはずだった。
だが、昨日の朝に発生した大規模な魔力溜まりの崩壊と、それに伴う魔獣のスタンピードは、遠征の前提を根底から覆していた。
「レン、右手の尾根から救難信号! 赤の閃光弾よ!」
「了解。ルートを変更して向かいます!」
セレナの叫びに、俺は即座に進行方向を修正した。
現在、渓谷の中層から深部にかけては地獄絵図と化している。突然の地形変動と溢れ出した魔獣の波に呑まれ、数え切れないほどのパーティーが孤立し、救助要請と撤退の判断が同時多発的に繰り返されていた。
もちろん、ギルドが設定したイベント上の『討伐数』と『踏破距離』のポイントは、いまだにレグルス班が圧倒的なトップを独走している。九十分の《瞬眠》で判断精度を保つ『覚醒王』の機動力は、災害下においてさらに猛威を振るっていた。
活動量という土俵では、俺たちは彼に手も足も出ない。
だが、この予定外の延長戦という極限の消耗状況下において、俺たちレン班は別のカテゴリーで明確に他を凌駕していた。
「助けてくれ! 足場が崩れる!」
尾根を越えた先のすり鉢状の岩場で、五人の冒険者が孤立していた。
彼らの足元は今にも崩落しそうな脆い岩棚で、その周囲を十数匹のストライプボアの亜種が取り囲んでいる。岩棚の下は底の見えない谷底だ。
疲労困憊の彼らは完全にパニックを起こしており、力任せに武器を振り回して足場の崩壊を早めていた。
力任せに突っ込めば、俺たちごと崩落に巻き込まれる二次遭難の典型的なパターンだ。活動量に任せた力業だけでは、あの命は救えない。
(どう動く。どこから手をつける――)
思考を巡らせた、その瞬間だった。
俺の脳内で、パズルのピースがカチリと音を立てて噛み合うような、奇妙で圧倒的な感覚が走った。
視界が極彩色に研ぎ澄まされる。
初日の新人認定試験から護送任務にかけて泥臭く反復し、定着させた『足場の悪い場所でのステップ』。
数日前の廃坑探索で頭に叩き込み、定着させた『地図の空間把握』と岩の脆さを見抜く感覚。
そして昨日、焦って悪癖になりかけたものをセレナと共に上書きし、完璧に定着させ直した『魔獣の重心移動の癖』。
これまで《休養》を通じて別々の日に定着させてきた三つの経験が、一本の線として繋がった。今夜、新しい技を三つ覚えたわけではない。すでに残っていた経験同士の使いどころが、初めて同じ局面で重なったのだ。
(崩落線は、あの亀裂より手前。右回りの三匹をセレナが止めれば、左の岩壁から順に引き上げられる)
経験の足し算ではない。掛け算として組み上がった、今の条件で最も損失が少ない『撤退と救助の判断』が、俺の身体を自動的に前へ押し出した。
「セレナ! 俺が崩落線を越えて足場を作ります! 右回りの三匹だけを間引いてください!」
「分かったわ!」
セレナは俺の判断に一切の疑問を挟まず、白銀の閃光となって右側へ展開した。
俺は迷いなく、崩壊寸前の岩棚へと飛び込んだ。
空間把握の経験が教える最も固い岩の出っ張りを蹴り、崩落線を「一歩だけ」越える。岩棚が嫌な音を立ててひび割れるが、定着したステップの重心移動がその負荷を極限まで分散させていた。
襲いかかってくる魔獣の予備動作は、昨日の経験から完全に読み切っている。剣を振るまでもない。最小限の首の動きだけで牙を躱し、俺は最も谷底に近い位置で滑り落ちかけていた男の腕を掴んだ。
「引くぞ!」
そのまま遠心力を使って男を安全な尾根の側へ放り投げる。
直後、セレナが魔獣のヘイトを完璧に集め、三匹の首を同時に刎ね飛ばした。その隙を突き、俺は残る四人の冒険者を次々と安全圏へ引き摺り出した。
俺が最後の一人を引き上げたコンマ数秒後。耐えきれなくなった岩棚が轟音と共に崩落し、残っていた魔獣たちを巻き込んで谷底へと消えていった。
「はぁっ……はぁっ……助かった……」
「あんたたち、神様かよ……!」
へたり込む冒険者たちに、俺は短く「怪我の確認を」とだけ告げた。
俺の心臓は、未だに激しく高鳴っていた。
今の救出劇。レグルスのように一瞬で敵を殲滅する圧倒的な暴力は俺にはない。だが、疲労で判断力が落ちていれば間違いなく崩落に巻き込まれていたし、過去の経験が一つでも欠けていれば、優先順位を誤って誰かを落としていた。
疲労で判断が落ちていれば、俺たちも崩落へ巻き込まれていた。既に定着していた経験を同じ救助手順へ結び、五人全員を引き上げられたのは、俺たちの方式だった。
夕刻。
事態がひとまずの落ち着きを見せ、俺たちはベースキャンプへと帰還した。
渓谷内の魔獣の数は目に見えて減っており、孤立者の救出もあらかた完了している。
ギルドの晶板に、十日間の比較遠征の暫定集計が映し出されていた。
《暫定集計》
《レグルス班/討伐数・踏破距離:総合一位》
《レン班/救助成功数・負傷率(〇%):総合一位》
イベントの目玉であるポイントそのものはレグルス班の圧勝だ。彼らの活動量はやはり化け物じみている。
しかし、予定外の延長戦という過酷な状況下において、救助成功数、負傷率の低さ、そして未知の状況への適応力というカテゴリーでは、俺たちレン班が明確に他を上回る結果を出した。
どちらが絶対に正しいというわけではない。だが、俺の「九時間寝る」という選択が、命を救うための実利として確かに通用したことの証明だった。
「やったわね、レン。私たちの戦い方は、間違っていなかったわ」
泥だらけの顔を拭いながら、セレナが誇らしげに微笑む。
俺もまた、報奨金の額に胸を踊らせていた。これだけの救助実績と無傷の帰還だ。王都の《静穏区》に、誰にも邪魔されない静かな家を買うという俺の夢が、一気に現実味を帯びてくるはずだった。
だが。
ギルドの大型晶板が、突然、不気味な赤い光の明滅へと切り替わった。
ファンファーレではない。それは王都のギルド本部からの、全冒険者に向けた重大な制度変更の通達だった。
『――ギルド本部より、全冒険者へ通達』
冷たい機械音声が、広場に響き渡る。
『昨今の夜間魔獣災害、および今回のスタンピードの甚大な被害を重く受け止め、ギルドは冒険者の【連続稼働能力】こそが人命救助の要であると再定義する』
嫌な予感がして、俺は思わず息を呑んだ。
『よって、従来の評価基準を改め、連続稼働時間と覚醒術への耐性をこれまで以上に高く評価する新制度《覚醒指数》を来月より導入する。今後、この《覚醒指数》は、冒険者の昇格、高難度依頼の受注資格、および王都居住区における【身分保証の推薦】に直接反映されるものとする――』
広場が静まり返った。
それはつまり、「休まずに長く起き続けられる者」でなければ、正当な社会的評価も、安全な暮らしも得られない世界への逆行だった。
「……冗談でしょう」
セレナが青ざめた顔で晶板を睨みつける。
俺は奥歯を強く噛み締めた。
現場でどれだけ結果を出そうと、命を救おうと、社会の制度そのものが「長く寝る俺」を否定し、俺の夢である『静かな家』への道を理不尽に塞ごうとしている。
比較遠征は終わった。
だが、救助点だけでは評価基準は変わらない。次に越えるべき相手は、俺を最下位へ落とした制度そのものだった。




