第19話 短期決戦なら向こうが強い
大断層渓谷での比較遠征も、大詰めの九日目を迎えていた。
拠点としていた宿場町の広場で、ギルドが設置した大型晶板が甲高いファンファーレの音と共に更新された。
《速報:レグルス班、大断層渓谷の最深部エリア『竜の顎』への到達記録を三日更新。討伐数、踏破距離ともに歴代新人遠征の最高記録を単独で突破!》
その文字を見た瞬間、広場に集まっていた他の冒険者たちからどよめきと歓声が上がった。
毎日九十分の睡眠だけで限界を超えた活動量を維持し、それでいて判断力も速度も落とさない。本物の《瞬眠》を持つレグルス・クロウという男は、短期的な踏破競争において間違いなく最強の存在だった。
「完全に置いていかれたわね」
隣で晶板を見上げていたセレナが、苦笑交じりに呟いた。
現在、俺たちレン班の踏破距離はレグルス班の半分を少し上回った程度だ。毎日九時間の睡眠を取り、夕食と入浴の時間を削らずに活動している以上、これだけの『起きている時間の差』がつけば、純粋な移動距離や討伐の総数で追いつけるはずがない。
「ええ。短期的な速度競争なら、レグルスさんの完勝です。こればかりは物理的な活動時間の差ですから、どう足掻いても勝てませんよ」
「悔しくないの?」
「悔しいですよ。俺だって、早く高い評価を得て静かな家を買いたいですから。でも、自分にできない戦い方で無理をしても、怪我をするだけですからね」
俺は肩をすくめた。
俺の《休養》は、昼間の経験を睡眠で定着させるスキルだ。寝る時間を削って活動量を増やせば、そもそも定着という恩恵そのものが失われてしまう。
レグルスには彼の、俺には俺の正解がある。それをしっかりと受け入れた上で、俺たちは俺たちの戦い方で評価を稼ぐしかなかった。
「さあ、出発しましょうか。俺たちには、俺たちの武器がある」
俺たちは宿場町を出て、渓谷の険しい岩場地帯へと足を踏み入れた。
目標は『竜の顎』には及ばないものの、旧時代の魔力トラップが多く残る複雑な迷宮区画だ。
「レン、右の岩陰からストライプボアの亜種が二体! さらに頭上からケイブバットの気配よ!」
セレナの鋭い警告が飛ぶ。
かつての俺なら、上下からの同時攻撃に焦って不用意なステップを踏み、無駄なダメージを受けていただろう。
だが、今の俺には九日間の睡眠を経て定着した『経験』の蓄積があった。
「俺が上を落とします。セレナは右をお願いします!」
俺は剣を抜くと同時に、視線を上げることなく腰のホルスターから短剣を引き抜いた。
数日前の廃坑では手首のスナップが利かずに外した投擲。だが、その後の日中で正しいフォームを反復し、夜の《休養》で完璧に定着させ直した今の軌道に、迷いは一切なかった。
――ヒュッ!
放たれた短剣は空気を裂き、急降下してきたケイブバットの片翼を正確に貫いた。バランスを崩して落下してきたところを、定着した足運びで最小限の動きだけを使って躱し、すれ違いざまに首を落とす。
それとほぼ同時に、セレナが踏み込みの圧力だけでストライプボア二体を怯ませ、淀みない連撃で斬り伏せていた。
「見事な投擲だったわ。あの一回で、完璧に自分のものにしたわね」
「失敗の記憶を上書きできましたからね」
俺たちは一度も足を止めることなく、迷宮区画の奥へと進んでいく。
レグルス班のような圧倒的な速度はない。だが、俺たちの進行には『やり直し』という概念がほとんど存在しなかった。
罠の兆候を見落として道を引き返すことも、不意打ちを受けて怪我の治療に時間を割くこともない。睡眠によって研ぎ澄まされた判断の精度が、すべての行動を最適化し、一歩ごとの質を極限まで高めているのだ。
総稼働時間と踏破距離では完敗しているが、ギルドの晶板に表示されている詳細なデータをよく見れば、俺たちの異常性に気づくはずだ。
負傷率、ゼロ。
罠の誤作動による手戻り、ゼロ。
希少素材の損傷率、ほぼゼロ。
速度という派手な数字の裏側で、俺たちは品質と安定感というカテゴリーにおいて、確実にレグルス班との差を詰めていた。
* * *
そして迎えた、遠征十日目。最終日の朝。
予定通りであれば、今日の夕方には王都への帰還命令が出て、この比較遠征はレグルス班の速度的勝利という形で幕を下ろすはずだった。
俺とセレナがベースキャンプで出発の準備を整えていた、その時。
ズズズズズッ……!!
地底の奥深くから、巨大なすり鉢状の大断層渓谷全体を揺るがすような、不気味な地鳴りが響き渡った。
空気を震わせるほどの重低音に、ベースキャンプにいた冒険者たちが一斉に顔を上げる。
「なんだ、今の音は……!?」
「地震か!?」
直後、ギルドから支給されている通信用の晶板が一斉に、耳をつんざくような緊急警報のサイレンを鳴らし始めた。
『緊急事態発生! 大断層渓谷全域の冒険者に通達!』
査定官の悲痛な声が響く。
『渓谷の深部にて、大規模な魔力溜まりの崩壊を観測! それに伴い、数百を超える大型魔獣の群れ――スタンピードが発生した! 現在、深部から中層エリアにかけて、複数のパーティーが退路を断たれ孤立している!』
「スタンピードだと!?」
「馬鹿な、この時期に発生するなんて聞いてないぞ!」
広場がパニックに包まれる中、晶板からの通信はさらに残酷な決定を告げた。
『王都からの増援が到着するまで、これ以上の被害拡大を防がなければならない。よって、現在渓谷内にいる全冒険者の遠征期間を【事態の収拾まで無期限延長】とする! 各班は直ちに周辺の安全を確保し、孤立者の救出と魔獣群の防衛線構築にあたれ!』
通信が切れ、重苦しい静寂が広場を支配した。
予定外の延長。それはつまり、今日の夕方で終わるはずだった遠征が、いつ終わるかも分からない極限のサバイバルへと変貌したことを意味していた。
「……レン」
「ええ。分かっています」
セレナと視線を交わす。
短期決戦という前提が崩れ去った。ここから先は、疲労と絶望が蓄積していく長期の消耗戦だ。
眠らない英雄と、休息を守る俺たち。長い遠征でどちらが結果を残すのか、比較はここから数字で始まる。




