第14話 何もしない一時間
深夜の大断層渓谷。
崖崩れによってルート変更を余儀なくされた物資輸送隊と、俺たちレン班は、渓谷の分かれ道で無事に合流を果たした。
だが、安堵している暇はない。風に乗って届く生臭い獣の臭いは、崩落の音に引き寄せられた夜行性魔獣の群れが、すぐそこまで迫っていることを告げていた。
「レン。最後尾の荷車を空けさせたわ。指示通りに」
「ありがとうございます。セレナ、中へ」
俺は、輸送隊の御者に頼んで荷台の木箱を前方に寄せてもらい、空いたスペースに持参した厚手の防音布と毛布を敷き詰めた。ガタつく金具は全て布で縛り上げ、荷車の中に音と振動を極力遮断した即席の暗室を作り上げた。
促されて中に入ったセレナは、しかし、すぐに幌をめくって外へ出ようとした。
「やっぱり私が外に出るわ。魔獣の気配が濃くなっている。私が指揮を執らないと、被害が広がるかもしれない」
彼女の目には、明らかな焦燥があった。
魔獣が迫る実戦の最中に、自分だけが安全な場所で目を閉じる。それは『止まれば価値がなくなる』と信じて生きてきた彼女にとって、恐怖に等しい行為だったのだろう。
「セレナ。あなたはこれから一時間、一切の判断を放棄して目を閉じてください」
「でも……!」
「報告の窓口は、夜戦に慣れているダグに一本化しました。そして、荷車から半径十メートルを絶対の撤退線と定めた。この線を越えさせない限り、俺とダグの裁量で敵を処理します」
俺は幌を掴む彼女の手に、自分の手を重ねて静かに押し戻した。
「あなたは指揮官です。一時間後、群れの本命が来た時に、俺たちに的確な指示を出すのがあなたの任務だ。だから今は、剣のことも陣形のことも全部俺たちに丸投げして、頭を空っぽにしてください」
「……」
「約束します。一時間、絶対にこの荷車には指一本触れさせない」
暗がりの中で、セレナは俺の目をじっと見つめ返した。
やがて、彼女は小さく息を吐き、幌から手を離した。
「……分かったわ。私の判断を、あなたに預ける」
幌が下ろされ、荷車の中が完全な闇に包まれる。
俺は剣を抜き、ダグたちと合流して荷列の最後尾へ陣取った。
馬車が動き出し、車輪が岩場を軋ませる。それとほぼ同時に、渓谷の闇の奥から、無数の赤い眼光が浮かび上がった。
「来るぞ! ストライプボアの群れだ!」
ダグの鋭い警告。
一直線に突撃してくる魔獣たちに対し、俺は深く呼吸を沈めた。
ただ倒せばいいわけではない。剣と牙がぶつかる硬質な音や、魔獣が馬車に激突する衝撃は、幌の中で眠るセレナの脳を強制的に覚醒させてしまう。
(音を立てるな。流して、仕留める)
俺は事前に決めた半径十メートルの撤退線の内側で、最も手前にいた個体の突進を迎え撃った。
昨日定着させた『重心移動予測』と、足場の悪い岩場でのステップ。俺はあえて自分から半歩踏み込んで魔獣の間合いに入り、相手が牙を剥いた瞬間に、紙一重で斜め後ろへ身体を逃がした。
空を切った魔獣の喉元へ、音もなく剣を滑り込ませる。
悲鳴を上げる間も与えず、急所を的確に断ち切って地面へ静かに転がした。
「おいおい、なんだ今の動き……昨日より明らかに無駄がねえぞ」
隣で援護に入ったダグが、目を丸くして呟く。
俺は答えず、すぐに次の個体へ向き直った。
群れの動きは執拗だった。だが、明らかに手ぬるい。統率のとれた連携というよりは、こちらの足を止めさせるための『囮』の動きだった。
並の冒険者なら、ここで焦って数を減らそうと前線へ飛び出してしまうだろう。だが、俺たちは事前に「十メートル以上は追わない」というルールを共有している。
ダグたちが牽制で敵の足を止め、俺が射線に入った個体だけを静かに処理する。
荷車は止まらない。幌の中からは、いっさいの物音も声も聞こえなかった。
* * *
荷車は揺れ続けた。
俺は幌のすぐ外を守りながら、内側の気配に耳を澄ませていた。最初の十分は、布が擦れる音が何度もした。セレナが起き上がりかけては、決めた条件を思い出して横になっているのだろう。
「報告は要りません」
幌越しにそう告げると、しばらくして一度だけ、短い返事があった。
「……任せるわ」
それきり、寝返りの音は少しずつ減っていった。
外では魔獣が唸り、車輪が岩を噛んでいる。それでも幌の内側から指示は飛んでこない。俺たちが決めた撤退線と報告窓口が、彼女に判断を返さずに済ませていた。
やがて、規則的な呼吸だけが聞こえ始めた。
* * *
「――時間だ」
俺が腰の魔導時計を確認した、その時だった。
最後尾の荷車の幌が跳ね上げられ、白銀の髪が夜風に舞った。
「おはよう、レン。状況は?」
荷車から飛び降りたセレナの声は、驚くほど澄んでいた。
たった一時間の休息。それでも、判断を他人に預けて脳を止めた分だけ、昨夜から彼女を苛んでいた靄は薄れていた。疲労は残っている。だが、少なくとも味方の声を聞き、退くべき時に退ける目は戻っている。
「囮を十数体処理しました。防衛線は割らせていません。ただ――」
俺が言いかけた直後。
これまで散発的だった囮の群れが、一斉に左右へ割れた。
その奥、岩壁の死角に身を潜めていた群れのリーダー――通常の三倍近い体躯を持つ巨大なストライプボアが、地鳴りを立てて荷車の後方へ突撃してきた。
圧倒的な質量。俺たちが組んでいた十メートルの防衛線など、紙屑のように突破される速度だった。
「レン、右へ二歩! ダグは牽制をストップ!」
起き抜けのセレナから、淀みない指揮が飛ぶ。
俺は一切の疑問を挟まず、指示通りに右へステップを踏んだ。
巨大猪が俺を追ってわずかに軌道を変える。その瞬間、魔獣の左前足が、岩場のぬかるみに深く沈み込んだ。俺が囮を捌きながら、意図的に敵を誘導するために作った『足場の悪い射線』だ。
体勢が崩れ、巨大猪の顔が下がる。
そこへ、完璧なタイミングで踏み込んだセレナの剣が、下段からの斬り上げとなって炸裂した。
「シィィィッ!」
硬い頭骨を砕き、脳天までを一撃で両断する。
巨大な質量が空中で真っ二つに割れ、俺とセレナの両脇をすり抜けて地面へ激突した。
リーダーを失った囮の群れが、蜘蛛の子を散らすように闇の中へ逃げ去っていく。
「見事な誘導だったわ、レン」
剣の血を払いながら、セレナが俺を振り返って微笑んだ。
俺が休息環境を作り、彼女が明晰な指揮で俺の経験素材の質を上げる。それは単なる助言や指導の枠を超えた、実務的で対等な分業の成立だった。
「あなたがぐっすり休んでくれたおかげですよ。頭の冴えは戻りましたか?」
「ええ。嘘みたいにクリアよ」
セレナは自分の右手を持ち上げ、何度かゆっくりと握り込んだり開いたりした。
「誰かが起きていてくれるから、安心して目を閉じられる。……そんな当たり前のことに、私は三か月間も気づけなかった」
彼女は夜明けの光が差し始めた東の空を見つめ、静かに、だが強い決意を込めて言った。
「私の剣が三か月間停滞していた理由……今なら分かる気がする。明日の朝、もう一度、あの上位剣技に挑むわ。今度は絶対に越えられる」
護送任務を終えた俺たちは、朝の宿場町で宿を確保した。
セレナは休息時間を先に押さえ、その横へ翌朝の再挑戦を書き込んだ。




