第15話 昨日を越える朝
宿場町の訓練場に、朝一番の冷たい空気が残っていた。
昨夜、移動中の荷車で一時間休んだセレナは、護送を終えたあとも俺に警戒表を預け、宿でさらに七時間眠った。合計時間だけなら、彼女にとっては久しぶりのまとまった休息だったはずだ。
そのセレナが今、訓練場の中央で白銀の剣を構えている。
「三か月、最後だけ届かなかった技よ」
上段から踏み込み、斜めに斬り下ろす。そこから手首を返し、落ちた剣先を身体の軸へ引き戻す。
見覚えがあった。王都の公開訓練で、十二人を倒したあとに彼女が柄を握り直した理由。終端の一瞬だけ、右手がわずかに遅れていたのだ。
セレナが地を蹴った。
一歩目は鋭い。二歩目で速度を殺さず、木製の標的へ斬撃を落とす。乾いた破砕音。ここまでは以前にも通している。
問題は、その先だった。
刃が標的を抜けた直後、彼女の右肘がわずかに沈む。
だが、今日は柄を握り直さなかった。
左足が半歩だけ開き、腰の回転を受け止める。剣先はぶれずに円を描き、背後に置かれた二本目の標的の喉元で、音もなく止まった。
一拍遅れて、最初の標的が斜めに崩れ落ちた。
「……通った」
セレナは剣先を見たまま、ほとんど息だけで呟いた。
三か月間、筋力を増やしても、反復を重ねても、最後だけ崩れていた動作。昨夜は新しい稽古をしていない。荷車の中で一時間、宿で七時間、他人へ判断を預けて休んだだけだ。
「もう一度やるわ」
二度目も通った。
三度目は、最初より速かった。それでも終端の剣先は同じ位置で止まる。
セレナはようやく剣を下ろした。笑ったというより、長く噛み締めていたものを吐き出すような表情だった。
「休んだから強くなった、ではないわね」
「ええ。三か月分の稽古が、ようやく最後までつながったんだと思います」
「そう。私が積んだものは、消えていなかった」
彼女は一度目を閉じ、それから俺へ剣を向けた。
「次はあなたよ、レン。昨日の間合い操作。私が攻撃を出したくなる位置まで入って、剣が届く前に抜けなさい」
「朝から容赦がないですね」
「あなたが昨日、私に休む課題を出したでしょう。今度は私が返す番よ」
俺は剣を抜き、彼女の正面へ立った。
昨日の俺は、敵を誘おうとして踏み込みが深くなり、何度も軸を崩した。眠ったからといって、セレナの速さが遅く見えるわけではない。未知の斬撃を勝手に読めるようにもならない。
ただ、失敗した時に右肩が先に入った感覚と、退く足へ体重を移すのが遅れた瞬間は、はっきり思い出せた。
半歩、入る。
セレナの視線が俺の喉元へ落ちた。
(ここだ)
白銀の刃が走る直前、俺は右肩を残したまま左足へ重心を逃がした。
剣先が胸元の布をかすめる。俺は転ばず、二歩目で彼女の側面へ回り込んだ。
「一本」
俺の木剣が、セレナの脇腹へ触れる寸前で止まる。
「昨日より三寸近いわ」
「まだ届いてはいませんけどね」
「ええ。でも、同じ失敗はしていない」
次は読まれて肩を打たれた。その次は、退く方向を塞がれて尻餅をついた。
それでも、昨日のように毎回同じ場所で軸を崩すことはなかった。セレナが課題を上げるたび、俺は新しく失敗できた。
「朝から随分、面白いものを見せてくれるわね」
訓練場の入口から声がした。
振り返ると、測定用の晶石と羊皮紙を抱えたフィアが立っていた。昨夜の護送後、俺たちの生体反応を測りたいと宿まで追ってきた研究者だ。
「セレナは三か月停滞していた動作を、まとまって休んだ翌朝に三回連続で再現。レンは昨日崩した足運びだけ、成功率が階段みたいに上がっている」
フィアは俺たちの返事を待たず、訓練場の測定柱へ晶石をはめ込んだ。淡い光が俺とセレナの身体を順に走る。
「日中の訓練量だけでは説明できないわ。二人とも、寝る前と寝た後で経験反応の残り方が違う」
「違うというのは?」
「まだ断定しない。だから測るのよ」
フィアはセレナへ合図し、さっきまで一度も見せていなかった逆袈裟のフェイントを俺へ出させた。
俺は見事に釣られ、木剣の先で額を小突かれる。昨日までに失敗していない動きは、寝ても分からない。
「未知の答えが増えたわけじゃない。残った経験の使い方が変わっている。そこを混同しないで」
「身をもって分かりました」
フィアは新しい羊皮紙を一枚広げ、俺たちの名を書いた。
「比較遠征の残り期間、正式に記録係として同行させて。睡眠時間、休息環境、訓練内容、翌朝の再現率。全部並べれば、あなたの《休養》が何をしているのか輪郭が出るはずよ」
研究対象として囲われるのは好みではない。だが、能力の限界を知らないまま実戦で試す方が危険だ。
「分かりました。ただし、午後十時以降の測定はなしで」
「そこは最優先で守るわ。測定対象に寝不足になられたら、記録が台無しだもの」
セレナが小さく笑い、今度は俺へ手を差し出した。
「改めて、よろしく。休む場所はあなたが作る。昼の課題は私が作る」
「ええ。昨日より先へ進める失敗をお願いします」
一方的に教わるだけでも、守るだけでもない。
俺たちは互いの昼と夜を使って、同じ朝に昨日を越えた。
測定柱の晶石を覗き込んでいたフィアが、そこで不意に黙った。
「……何、この波形」
彼女は寝る前の記録と今朝の記録を重ね、丸眼鏡の奥で目を細めた。
「寝た後だけ、経験反応が別の形で残っている」




