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九時間寝る俺は怠け者扱いでしたが、ハズレスキル《休養》で昨日の失敗を定着させ、眠らない迷宮を生き残る  作者: 他力本願寺


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第13話 休めない天才

大断層渓谷の夜は、文字通り一寸先も見えない深い闇に包まれる。


 岩壁を背にした俺たちのベースキャンプでは、焚き火の光だけがわずかな安全圏を主張していた。


 チリリン、と。


 外縁部に張り巡らせた魔導糸の警戒鈴が、微かな、だが明確な異常を知らせた。


「敵襲! 岩陰から三体、速いぞ!」


 見張りに立っていた班員の叫び声と同時に、俺はテントを蹴り開けて外へ飛び出した。


 闇の中から現れたのは、岩肌に溶け込むような灰色の外殻を持った中型魔獣、ロックイーターの夜行変異種だ。昼間の個体よりも一回り大きく、何より動きの殺気が段違いだった。


 隣のテントから、白銀の髪を揺らしてセレナが飛び出してくる。


 その抜刀の速度は凄まじかった。彼女は先頭の魔獣へ向かって迷わず踏み込み、鋭い袈裟斬りを放とうとする。


(――速いが、危ない!)


 俺の目に定着した経験が、警鐘を鳴らした。


 突進してくる魔獣の右前足が、不自然に外側へ滑ったのだ。昨日、嫌というほど観察し、今朝の反復で完璧に身体へ落ちたあのフェイントの予備動作。


 だが、セレナの剣はその予備動作を完全に無視し、囮である沈み込んだ頭部へ向かっていた。


「セレナ、横だ!」


 俺の声が響くより早く、魔獣はバネのように左へ跳躍し、空振りで体勢の浮いたセレナの脇腹を狙って牙を剥いた。


 本来の彼女なら、絶対に引っかからない単純なフェイント。それが、今の彼女は完全に一拍、反応が遅れていたのだ。


「っ!」


 俺は定着した足運びで即座に二人の間に滑り込み、魔獣の顎を下から剣の柄で強く打ち上げた。


 ガキンという硬い音と共に魔獣の牙が空を噛む。その一瞬の隙を突き、体勢を立て直したセレナの剣が魔獣の急所を的確に貫いた。


「すまない、助かったわ」


 セレナが短く礼を言いながら、残りの二匹へと向き直る。


 だが、彼女の動きにはまだ危うさがあった。剣の速度や筋力そのものは、B級トップの『眠らぬ剣姫』のままだ。しかし、敵の重心のブレや複数体の連携といった「状況の機微」を処理する能力が、極端に落ちている。


 彼女の目が、敵の表面的な動きしか追えていないのだ。


「俺が前を抑えます。あなたは合わせてください」


「……分かったわ」


 俺は前に出て、自分の間合いで魔獣の攻撃を誘発させた。


 能動的に敵を動かす。昨日、泥にまみれながら何度も失敗して身体に刻み込んだ戦術だ。魔獣が俺の誘いに乗って無防備な突進を見せたところへ、俺の合図でセレナが確殺の剣を叩き込む。


 彼女の純粋な武力と、俺の判断力をつなぎ合わせることで、なんとか荷列に被害を出さずに三体の変異種を処理しきった。


「はぁ……はぁっ……」


 剣を鞘に納めたセレナの肩が、不自然に大きく上下している。


 体力的な疲労ではない。それは、自分の身体が自分の思い通りに反応しなかったことに対する、強い焦りと精神的な消耗の表れだった。


「……目は閉じていたのよ」


 焚き火のそばの丸太に腰を下ろし、セレナがぽつりとこぼした。


 彼女の目元の隈は、昨日よりも少しだけ濃くなっているように見えた。


「昨夜、あなたに言われた通り、テントに入って横になった。七時間は絶対に動かないと決めて、目を閉じていたわ。でも……ダメだった」


 彼女は自分の両手を強く組み合わせ、じっと見つめた。


「レグルスの圧倒的な数字が頭から離れなかった。明日のルートの足場、岩場での間合いの取り方、どうすればあの活動量に追いつけるか……そんなことばかりが頭の中を猛烈なスピードで駆け巡って、朝まで一度も意識が途切れなかったの」


 横になっていただけで、彼女の脳は一秒たりとも休んでいなかったのだ。


『止まると価値がなくなる』。この王都で叩き込まれた覚醒至上主義の呪いが、彼女から休息を奪い、結果として実戦での判断力という最も致命的な部分を削り落としていた。


「剣を振るう筋力は戻っているはずなのに、頭に靄がかかったように敵の予備動作が見えなかったわ。……私、このままじゃ足を引っ張るだけね」


 自嘲気味に笑う彼女の姿は、以前の自信に満ちた剣姫のものとは別人のようだった。


 だが、ここで「俺が徹夜で見張るから、あなたは奥で休め」と言うのは、最も愚かな選択だ。俺が睡眠を削れば、明日の俺の経験定着率が死ぬ。二人揃って判断力を失えば、この遠征はそこで終わる。


「セレナ。あなたの頭が休まらないのは、気合や根性が足りないからじゃありません。ただ、『判断を他人に任せる準備』が足りていなかっただけです」


 俺はそう言うと、テントからベースキャンプの警戒シフト表を書き出した羊皮紙を持ってきた。


 俺とセレナの他に、ギルドから同行している三人の班員がいる。彼らの活動記録を思い出しながら、俺は羽ペンで即座に名前を入れ替えた。


「ダグ、お前は昔、行商の護衛をしていて細切れの睡眠に慣れていると言っていたな」


「え? ああ、三時間の仮眠を二回に分けるくらいなら、十分頭は回るぜ」


「よし。なら今夜の後半の見張りを頼む。その代わり、明日の昼の移動中は荷車の荷台でお前を二時間寝かせる。俺が護衛に入るから、一切の警戒を放棄して寝てくれ」


「……マジか。そりゃありがてえが」


 俺はシフト表を書き換え、班員全員に見せた。


「俺は夜襲までに四時間眠れている。これから残り五時間を取って、合計九時間を崩さない。ダグと他の二人で警戒を回してくれ。もし手に負えない夜襲が来たら、俺を起こす前に、まず結界石を起動して遅滞戦術をとれ。その『ルール』を守る限り、俺は外の音を一切無視して眠る」


 俺の言葉に、セレナが驚いたように顔を上げた。


 俺が徹夜するのではなく、班員それぞれの適性と仮眠のサイクルを組み合わせ、システムとして全体の警戒網を維持する。誰か一人の英雄的な自己犠牲(徹夜)に頼らない、実務的な解決策だ。


「セレナ。あなたは明日、俺の訓練の質を上げる指揮官です。あなたが休んでくれないと、俺が困る」


「レン……」


「明日は、俺があなたの『判断の肩代わり』をします。だから今は、剣のこともルートのことも忘れて、頭を空っぽにしてください」


 彼女はシフト表と俺の顔を交互に見つめ、やがて小さく息を吐いた。


「……分かったわ。あなたのシステムを、少しだけ信じてみる」


 彼女が再びテントへ戻ろうとした、その時だった。


 ギルドから支給された通信用の晶板が、けたたましい警告音と共に明滅を始めた。


 俺は嫌な予感を覚えながら、晶板の通信ボタンを押し込む。


『緊急通信! レン班、応答しろ!』


 査定官の焦った声が、夜のベースキャンプに響き渡った。


『大断層渓谷の西ルートで大規模な崖崩れが発生した! 後続の物資輸送隊がルートを変更してそちらの東ルートへ向かっているが、崩落の音に誘発されて、別働の魔獣群が輸送隊を追跡している!』


「距離と到達時間は!?」


『ここから一時間後には、そちらの夜営地と接触する! ベースキャンプを畳み、輸送隊と合流して護衛にあたってくれ!』


 通信が切れ、重い沈黙が落ちた。


 一時間後に輸送隊と合流し、そのまま移動しながらの夜間護衛戦になる。


 つまり、セレナが安全なテントの中で朝まで眠れる時間は、完全に消滅したということだ。


「……私が出るわ。移動の準備を」


 セレナが剣を手に取り直そうとする。


 だが、今の判断力が低下した彼女を暗闇の実戦へ放り込めば、取り返しのつかない事故が起きる。彼女の頭を休ませ、本来の『剣姫』としての冴えを取り戻させるには、最低でも一時間の深い休息が必要だった。


「いいえ。移動の準備はしますが、あなたは休みます」


「馬鹿なことを言わないで! 馬車に揺られながら、魔獣の気配がする中で休めるわけがないでしょう!」


「休ませます。実戦のド真ん中だろうと、俺が条件を作りますから」


 荷をまとめる班員たちの怒号が飛び交う中、俺は自分の背負い袋から厚手の防音布と毛布を引きずり出した。


 揺れる荷車の上。迫り来る魔獣。


 その極限状態の中で、彼女の脳に一切の判断をさせない『何もしない一時間』をどう構築するか。俺の頭の中で、昨日までの経験が猛烈な勢いで組み上がり始めていた。

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