第12話 短眠は本物だった
大断層渓谷の比較遠征、三日目の昼下がり。
岩場に腰を下ろし、短い昼食を取っていた俺たちの通信用晶板に、王都のフィア・エルデンから定期報告が入った。
『レグルス・クロウの所持スキルが特定できたわ。希少スキル《瞬眠》よ』
ノイズ混じりの音声が、昨日からの疑問に一つの明確な答えを提示した。
『彼はわずか九十分の睡眠で、通常人が一晩かけて得る休息と同等の深い安息状態に入り、経験の定着を強制的に引き起こすことができる。魔力波形と過去の記録を照合した結果、間違いないわ』
「なるほど。つまり、気合や根性で身体を騙しているわけじゃないと」
『ええ。彼は九十分で高い安息状態に入り、少なくとも遠征中の判断精度を落としていない。あの短眠は、嘘偽りのない本物よ』
俺は小さく息を吐き、通信を切った。
レグルスは詐欺師でもなんでもない。起きている時間を限界まで伸ばし、休養の質も担保できるという、この世界の覚醒至上主義を体現した究極の存在だった。
彼には彼の正解がある。それを否定するつもりはないし、勝てない土俵で張り合う気もなかった。俺には俺の正解――九時間睡眠があるのだから。
午後の探索を再開し、渓谷のさらに深部へと向かう。
道中、底が見えないほど深い谷間に架かる、古い吊り橋に差し掛かった。
そこには、俺たちと同じように遠征系の依頼を受けているらしい、若手の四人組パーティーがいた。だが、彼らの様子は明らかにおかしい。足取りは千鳥足のようにふらつき、顔色は土気色。何より、眼差しから一切の生気が失われている。
「おい、早く渡るぞ。レグルスさんみたいに、俺たちも九十分睡眠で回せば、もっと討伐数を稼げるんだ。休んでる暇はねえ」
リーダー格の剣士が、虚勢を張るような声で仲間を急かしている。
レグルスの圧倒的な活動量に触発され、自分たちも睡眠時間を削って無理やり稼働し続けているのだ。自身の適性を無視して「時間だけ」を真似た結果、疲労で完全に判断力が麻痺している。
若手たちが、軋む吊り橋の中央へと歩みを進める。
その時、俺の視界の端で、橋を支える太い魔力ワイヤーの一本が不自然な振動を起こしたのが見えた。長年の風雨で劣化し、人が一度に渡れば崩落する危険な兆候。
(まずい、渡るな――)
俺が声を上げようとした瞬間、隣にいたセレナが「待ちなさい!」と叫ぼうと息を吸った。
だが、その声は俺の感覚よりも明確に『一拍』遅かった。彼女の警告が響く前に、若手たちの体重が橋の許容量を超えた。
パァン! という破裂音と共に、ワイヤーが弾け飛んだ。
足場が大きく傾き、腐りかけた木板が次々と谷底へ向かって崩れ落ちていく。
「うわぁぁぁっ!?」
悲鳴が上がり、若手たちが傾いた橋の上で滑り落ちそうになる。
セレナの反応の遅れに疑問を抱く余裕はなかった。俺は地を蹴り、崩壊していく橋の上へと躍り出た。
新人認定試験から反復して定着させた『跳躍軌道の重心補正』が、俺の身体を落下する木板から次の木板へと正確に導く。さらに、昨日泥臭く繰り返して手に入れた『能動的な間合いの操作』の感覚が、予測不可能な足場の中でも俺に絶対的なバランスをもたらした。
「手を伸ばせ!」
状況を瞬時に俯瞰し、誰から引き戻すべきかを即断する。
一番奥でワイヤーにしがみついている一人を後回しにし、まずは手前で滑り落ちかけている二人の襟首を掴んだ。そのまま反転し、岸壁の安全な場所へと強引に放り投げる。
足元の木板が崩れ去る寸前、再び跳躍。奥の二人へと距離を詰める。
「俺に捕まれ!」
差し出した手に彼らがしがみついた瞬間、残りのワイヤーがすべてちぎれた。
足場が完全に消滅する。俺は彼らを抱え込んだまま、空中で身体を捻り、岸の固い岩盤へと向かって渾身の力で跳んだ。
ゴロゴロと斜面を転がり、なんとか安全地帯へと這い上がる。直後、背後で吊り橋の残骸が谷底へと吸い込まれていった。
「はぁ……はぁっ……」
「無事か、お前ら」
顔面蒼白になっている若手たちに声をかけると、彼らは何度も頷きながら咽び泣いた。
そこに、騒ぎを聞きつけたのか、赤い髪を揺らしてレグルスが駆けつけてきた。
「何があった! 怪我人はいるか!?」
「いえ、全員無事です。ただ、無理に睡眠を削ったせいで、橋の劣化に気づけなかったみたいですね」
俺がそう言うと、レグルスはへたり込む若手たちの顔――極度の睡眠不足で死人のようになった顔――をハッと息を呑んで見下ろした。
彼自身の九十分睡眠は本物だ。だが、それは彼だからこそ成し得る業。それを「誰にでもできる努力の基準」として社会に発信し続ければ、適性のない者はこうして自らを破滅に追い込む。
レグルスは初めて、自分の成功法則が他人に及ぼす負の側面を、具体的な惨状として直視したようだった。
「……すまない。俺が、彼らを無謀に駆り立ててしまったのかもしれないな」
レグルスが珍しく顔を曇らせる。だが、俺は彼を詐欺師呼ばわりして責める気はなかった。
「レグルスさんは、自分の適性を証明しているだけです。ただ、俺には俺のやり方があり、九時間の睡眠が必要だという、それだけのことですよ」
レグルスは若手たちを優しく助け起こし、彼らをベースキャンプへと送る手配を始めた。
若手の命を救ったことで、俺たちには大きな救助点が加算された。しかし、三日目終了時の総合成績を確認すると、依然としてレグルス組が圧倒的な活動量でトップを独走しており、優位は全く揺らいでいなかった。
* * *
その夜。
夕食後も、セレナは共有テーブルに吊り橋周辺の地図を広げたまま動かなかった。指先は同じ印を何度もなぞり、視線だけが明日の西ルートと今日の崩落地点を往復している。
「セレナ。そろそろ休みませんか」
「ええ。分かっているわ」
返事は早かったが、地図を畳む手は止まったままだった。
「今日、私の警告は遅れた」
やがて彼女は、地図から目を上げずに言った。
「ほんの一拍。でも、あなたが先に動かなければ、あの四人は落ちていた。時間は確保したつもりだったのに、頭の中でずっと明日の訓練を続けていたのよ」
「なら、今夜のルート判断は俺に預けてください。明日の朝、必要な時に返します」
俺は地図を半分まで巻き取った。セレナは抵抗しかけた指を止め、ようやく手を離した。
「……分かったわ。七時間は横になる」
彼女が隣のテントへ入ってからも、しばらくは寝返りの音が途切れなかった。灯りは消えている。それでも、張り詰めた気配だけが薄い布越しに残っている。
時間を空けるだけでは、人は休めない。
その夜、俺は初めて、眠ろうとしても眠れない人間の存在を具体的に知った。




