第11話 眠れるやつと眠れないやつ
大断層渓谷のベースキャンプに、ひんやりとした朝の空気が満ちていた。
午前七時。消音結界付きのテントで九時間眠った俺は、身体を起こして腕をゆっくり回した。昨日、ロックイーターの突進を受け流し損ねた右腕には、まだ鈍い張りが残っている。だが、思考の濁りはなく、痛む角度も把握できた。無茶が消えたわけではない。今日は同じ受け方をしないために、昨日を使える状態になったのだ。
視界の隅が淡く瞬いた。
《未定着経験:ロックイーターの踏み込み予備動作の把握――定着完了》
右前足が外へ滑る。肩が沈む。そして跳躍。
昨日、泥濘んだ岩場での戦闘中にバラバラに観察していた三つの要素が、今や一続きの予備動作として思い出せた。
テントを出て一階の共有スペースへ向かうと、既にセレナが装備の点検を終えていた。彼女の目元にも昨日一日の疲労の色はなく、剣姫としての鋭い覇気が全身に満ちている。
「おはよう、レン。今日も仕上がりは良さそうね」
「ええ。昨日見たフェイントの予備動作も、順番で思い出せます。すぐにでも出発できます」
「その前に、これを見ておきなさい」
セレナが顎でしゃくった先には、ギルドが設置した情報共有用の大型晶板があった。そこには、俺たちとレグルス班の、現在の踏破距離と討伐数がリアルタイムで表示されている。
《二日目 午前七時現在》
《レグルス班/踏破距離:二八キロ。討伐数:一〇五。負傷率:〇%》
《レン班/踏破距離:五キロ。討伐数:一二。負傷率:〇%》
俺は思わず小さく唸った。
初日の中間集計でつけられていた倍近い差が、一夜明けてさらに絶望的な数字へと開いていた。
「査定官の話によれば、レグルスたちは深夜二時に九十分の休息を取っただけで、そのまま夜明け前から再出発したそうよ。晶板に送られてくる彼らの討伐ペースには、疲労による速度低下が一切見られないわ」
セレナの言葉に、俺は晶板の端で細かく更新され続けるレグルス班の数値を追った。
本当に、ペースが落ちていない。常人ならば徹夜に近い強行軍で足元が狂い、剣筋が鈍るはずの時間帯にもかかわらず、彼らは初日の開始直後と同じ速度で渓谷を制圧し続けている。
「……化物ですね。彼の短眠は、間違いなく本物だ」
悔しさよりも、純粋な感嘆が先に出た。
レグルス・クロウは詐欺師でもなんでもない。あの極端な睡眠時間で実戦に必要な集中を取り戻し、活動時間を最大化できる、この世界の覚醒至上主義を体現した成功者なのだ。
活動量という土俵に真正面から乗れば、絶対に勝てない。俺は改めてその事実を腹に落とし込み、剣帯を締め直した。
「行きましょう。俺たちは俺たちのペースで、明日のための素材を集めるだけです」
二日目の探索ルートも、俺たちはあえて険しい東側の岩場を選んだ。
出発して一時間ほどで、昨日と同じロックイーターの群れと遭遇した。岩肌に擬態していた三匹が、泥濘んだ地面を蹴って一斉に飛びかかってくる。
先頭の一匹が、右前足を滑らせる、あの不自然なタメを作った。
(来る――)
九時間眠った今の俺には、その挙動がコマ送りのように見えていた。
敵のタメに合わせて半歩だけ右へズレる。突進のベクトルが俺の横へ流れた瞬間、その無防備になった側面へ剣を振り下ろした。
硬い外殻の継ぎ目を的確に捉え、一撃で絶命させる。そのままの勢いで身を翻し、二匹目も流れるような足運びで難なく処理した。三匹目はセレナが瞬く間に両断している。
「ふぅ……」
残心を取り、剣の血糊を払う。昨日の観察経験が見事に実戦で機能した。
しかし、背後で様子を見ていたセレナの表情は、決して芳しいものではなかった。
「レン。確かに対応はできているけれど、今のあなたの動きは『受け身』すぎるわ」
「受け身、ですか」
「ええ。あなたは魔獣がフェイントの予備動作を起こすのを待ってから、それに対処している。観察結果の出力としては正しいけれど、それじゃあ経験の素材が薄いわ。相手がもっと速く、賢くなれば、待っている間に致命傷をもらう」
セレナは鞘に納めたままの剣を抜き放ち、切り株を魔獣に見立ててスッと間合いを詰めた。
圧倒的な踏み込みの圧力。切り株の周囲の空気がビリッと震える感覚があった。
「見ているだけじゃダメ。自分から間合いを操作して、相手に攻撃を出さざるを得ない状況を強制しなさい。もっと能動的に失敗して、質の高い経験を身体に放り込むのよ」
「なるほど。自分の動きで敵をコントロールするわけですね」
「そういうこと。ここからは、私があなたの間合いと足運びの連動を徹底的にチェックするわ。レグルスの活動量に勝てないなら、私たちは『今日一日の経験の密度』で勝つしかない」
彼女はただ俺に休息環境を作ってもらうだけの庇護対象ではない。俺の《休養》へ放り込む経験素材の質を、彼女自身の卓越した戦闘技能によって極限まで高めてくれる、現場の指揮官でもあった。
それからの数時間は、泥臭い反復の連続だった。
遭遇する魔獣に対し、俺はあえて自分から不用意に見える踏み込みを行い、相手の攻撃を誘発した。ギリギリの距離で退き、敵の姿勢を崩そうと試みる。
当然、初見の能動的な間合い操作がすぐに上手くいくはずがない。踏み込みが深すぎて剣を弾き飛ばされそうになったり、ステップが遅れて魔獣の爪が革鎧を掠めたりと、俺は何度も体勢を崩した。
その度にセレナから「踏み込みの軸がブレている」「引く時の魔力配分が遅い」と容赦のない駄目出しが飛んでくる。
「っ……くそ、今のは完全に読み違えた」
中型の毒蛇魔獣の噛みつきを、背中から泥に飛び込んで間一髪で回避する。
息を切らし、泥だらけになりながら立ち上がる俺を見て、別のルートを探索していた冒険者たちが遠巻きにヒソヒソと囁き合っていた。彼らの目の下には濃い隈があり、レグルスのペースに触発されて無理な夜間行軍を続けているのは明らかだった。
「おい見ろよ、昨日ランキングに入ってたレンって奴だろ?」
「無駄な動きばっかりで、討伐に時間かかりすぎだ。やっぱり九時間も寝てるから動きが鈍いんだよ」
「覚醒王のレグルスさんは、あんな連中とっくに置き去りにしてるぜ」
彼らの言う通り、俺の現在の討伐効率は最悪に近い。
だが、焦りはなかった。
レグルスとの大差を埋めようと、今ここで無謀な討伐数稼ぎに走ったところで、結局は付け焼き刃だ。俺の本当の武器は、今日のこの『質の高い失敗』を、明日の朝に再現できる技術へ近づけられることなのだから。
そして、二日目の夕刻。
空が茜色に染まり、午後十時の就寝に向けた撤収時刻が迫る中。
「シィィィッ!」
木の上から急降下してきた大蜘蛛の魔獣に対し、俺は前傾姿勢で自ら間合いを詰めた。
敵が俺の顔面を狙って前肢を振り下ろした瞬間、俺の身体は弾かれたように後方へ半歩だけ下がる。
空を切った前肢。前のめりに体勢を崩した大蜘蛛の頭部へ、俺は一切の力みなく、一直線に剣を突き入れた。
一撃。
魔獣は声も上げずに絶命し、地面に崩れ落ちた。
「……今のは、悪くなかったわね」
セレナが満足げに頷く。
俺自身の手応えも確かだった。朝一番の受け身の対処とは違い、明確に自分の意志で敵の攻撃を誘発し、最短の軌道で仕留めた一撃。反復による失敗の感覚が、確実に俺の動きを研ぎ澄ませ始めていた。
成長の質という面では、これ以上ない成果を上げている。
だが、ベースキャンプへ帰還し、ギルドの二日目終了時の集計を確認した時、俺たちは改めて現実の重さを思い知ることになった。
《二日目 午後六時現在》
《レグルス班/踏破距離:四五キロ。討伐数:一八〇》
《レン班/踏破距離:一〇キロ。討伐数:二八》
総討伐数と踏破距離。
その差は、初日よりもさらに絶望的なまでに広がっていた。
俺の剣がどれだけ鋭くなろうと、セレナの指導がどれほど的確であろうと、彼らが常人の限界を超えて働き続ける『活動量』の暴力には、数字の上では到底敵わない。
「……圧倒的、ね」
「ええ。短期的な出力なら、向こうが完全に上です」
俺は晶板の数字を見つめながら、静かに呟いた。
だが、勝負は十日間だ。レグルスが途中で崩れることを当てにしても意味はない。速度で勝てないなら、俺たちは負傷率と再現精度で、自分たちの方式が何に強いのかを示すしかない。
そのためにも、俺は俺の最適解を崩さない。
「さあ、夕食にして風呂に入りましょう。午後十時には寝ないと」
「……ええ。私も、今日のあなたの成長を頭の中で整理させてもらうわ」
埋まらない大差を前にしても、俺たちの歩みは止まらない。
ただ、消灯後も隣の寝台から、セレナが指先で剣の軌道をなぞる微かな音だけは止まらなかった。




