伍氏への予言
楚王の部屋を出ると箴尹の男が控えていた。どうやら蔿艾猟を待っていたらしい。
「王とは何を話されたのですか?」
「そう大した話はしておりませんよ」
楚王は一応は蔿艾猟の質問に答えてくれたが、疑念はほとんど氷解しなかった。むしろ新たな謎が増えたくらいである。
――まったく、分からないことだらけだ。
蔿艾猟は心の中で溜息をついた。
分からないといえば、この男もそうである。箴尹というと王を諌めるための官職である。しかしその役職に反して年若いのが気になった。
「箴尹どのは、何故にまだここに?」
「それは……少し、令尹どのと話をしたく思いまして」
「私と、ですか?」
「はい。ああ、決して贔屓にしてくれというようなことではありません」
蔿艾猟は何も言って箴尹は弁明のようなことを口にした。その言葉を聞いてなお、それが本心の発露だろうと蔿艾猟は感じたのである。
――この人からは、悪辣なものを感じない。
蔿艾猟はそう感じた。といって、今まで所領に籠りきりだった観察眼がどの程度あてになるかは分からないが、それでも蔿艾猟は己の直観を信じることにした。
齢の近い廷臣の知己がいればやりやすくはあり、また、敵意を肌で感じ、他者に懐疑と警戒とを向け続ける日々に倦んでいたのである。
「なら一つ、お聞きしたいことがあります」
「なんでしょうか?」
「連日、私を目の敵にしている伍という大夫はいかなる人なのでしょうか?」
「伍参どのですか」
そこで初めて蔿艾猟は、あの大夫の氏名を知った。
「伍参どのはかつて、直言を以て王を諌めた人でございます」
「ああ、王が後宮に籠もっておられた時のことですか?」
楚王は父王の死後三年間、喪にも服さず酒色に耽っていた時があった。しかも、それを諌める者は死罪との触れまで出していたのである。
その時、楚王にある謎掛けをしたのが伍参であった。
『三年の間、鳴くことも飛ぶこともしない鳥がいます。この鳥はなんでしょうか?』
暗に楚王のことを言ったのである。それに対し楚王は、
『その鳥は一たび鳴けば人を驚かせ、飛べば天を破るまで飛翔するだろう』
と答えたのである。やがて楚王は後宮から出て、悪臣を排し、隠れた忠臣を抜擢して国体を改めたのである。後宮に籠もっていたのは、臣を見極めるための演技だったのだ。
この時に命懸けで楚王の下へ赴いた伍参も、その一事によって絶大な信頼を得た。
その話は、蔿艾猟も知っていた。故に楚王には、少なくとも人を見る目はあると思っている。それだけに、若く実績もない自分を令尹として据えたことが謎として今も残っているのだ。
「ならば、伍参どのが私を憎むのは何故でしょうか? もしやあの御仁は、次の令尹となるのは自分だと思っておられたのでしょうか?」
「そういう野心はないかと思います。伍参どのは楚王室への忠信厚く、それでいて個人的な野心などはない人ですので……。おそらく、令尹どのが鄭に対して積極的ではないからではないかと」
「ならば伍参どのは何故、それほどまでに鄭に拘っておられるのでしょうか?」
「それは……」
箴尹はどうやら何かを知っているらしい。そしてそれは、話すのが憚られるような事情のようだ。しかし蔿艾猟が不当に憎まれているのを不憫に思う気持ちも分かるらしく、やがて箴尹は、
「あくまで噂ではありますが……」
と前置きした上で言った。
「かつて伍参どのは易者に、“伍氏が続けば楚は衰える”と言われたらしいのです。それを不名誉に思った伍参どのは、鄭を併呑し、晋を破ることでその予言を覆そうと躍起になっているのではないかと思います」
なるほど、と蔿艾猟は思った。
伍参は楚を今以上の強大国にしたいのだ。そのためには武威を盛んにすべきと考えており、まずは内実を図るべきと唱えた蔿艾猟を惰弱と思ったのだろう。
「ならば私は、どうやら伍参どのと親しくはなれそうにありませんな」
軍事に傾き内政を疎かにする国を待ち受けるものは破滅である、と蔿艾猟は思っている。外にばかり目を向ける伍参の姿勢は、予言が当たっているのではないかと思わざるを得なかった。
「令尹どのは辛辣ですね。ですが伍参どのの王への忠義は本物です。せめて、そこだけは汲んでいただけないでしょうか?」
忠義という言葉に、蔿艾猟は眉をひそめた。
蔿艾猟は忠義などというものは持ち合わせていない。それなのに、今の楚国を俯瞰して見ると、その視線をまずは内に向けるべきだと考えている。
それ故に、伍参のことを好意的に思えない。しかしこれは相反する思いである。
――私は楚国と楚王のことをどう思っているのだろうか? どうなってほしいと思っているのだろうか?
それが分からないでいる。
令尹など辞めてしまいたい。それが本心のはずなのだが、楚国にとって危ういと思える伍参を嫌う感情が湧きあがってくる。
「箴尹どのは伍参どのと親しいのですか?」
続く言葉が出てこずに、蔿艾猟はとりあえずそう聞いた。
「特に親しくはありません。ですが、仕える君主を同じくする者同士ですので」
「箴尹どのは善き人ですね。と――そういえばまだ、箴尹どのの氏名を聞いておりませんでしたな」
朗らかに笑ってから、不意に蔿艾猟はそう言った。
官職で呼び続けていたが、蔿艾猟はこの箴尹のことを好きになってきた。だからこそ、せめて氏で呼びたいと思ったのである。
しかしそう聞かれた箴尹は露骨に狼狽えた。そして、やがて腹を括ったような真剣な面持ちで、
「私は……闘氏の者で、字を生と申します」
と言った。




