楚の宿老
退廷した蔿艾猟は、疲弊しきっていた。
蔿艾猟の理想は、いち早く令尹を辞して所領に戻り、学問三昧の隠遁生活を過ごすことなのだ。
楚王の不興を買うことなど恐れておらず、むしろ望んでさえいるのに、何故か課題を出されてしまった。
この上は、用意された郢城内の邸宅に少しでも早く戻りたい。王城の前に待たせてある車に乗り込もうとした時に、背後から声を書けられた。
「御高説、拝聴させていただきました。流石は蔿賈どのの御子息ですな」
嗄れた声である。振り向くとそこには、口元とあごとに白髪髭を蓄えた老人がいた。
見た目は穏やかで、好々爺のようである。しかしこういう人こそ恐ろしいのだということは、虞丘子から嫌というほど教えられた。
といって、無視するわけにはいかない。心は、少しでも早く帰宅して牀(ベッド)に倒れ伏したいと思っている。それでも断れぬのは、蔿艾猟の生真面目さ故であった。
「……貴殿はどなたでしょうか? 私は新参者であり、楚の廷臣の方々をよく知らぬものでして」
「これは失礼を致しました。私は王の微臣であり、老齢にして功無きままに楚の廷臣の末席を恐れ多くも汚している申叔時という者にございます」
申叔時。その名には覚えがあった。この老人は、一応は自身より高位にある蔿艾猟に謙譲の意を示すためにこのようなことを言ったらしいが、楚の宿老と言うべき人である。
その名は、隠者のような暮らしをしていた蔿艾猟でも知っていた。それ故に、蔿艾猟には分からない。
――このような人がいるのに、楚王は何故、私を令尹に据えたのだ?
蔿艾猟からすれば、若輩にして経歴の無い自分などよりも、申叔時のほうがよほど楚の令尹に相応しい人だと感じている。父の遺功を含めても、蔿艾猟が申叔時に勝っているところなどないとさえ思った。
「初の登廷でお疲れでしょう。よろしければ、我が邸宅で休んではいかれませんか?」
蔿艾猟は逡巡した。しかし、この人とは縁故を持ちたい。いいや、持つべきであると強く感じたのである。
何を腹蔵しているかは分からぬ人だが、どうも蔿艾猟はすぐに辞めることは叶いそうにない。ならば、楚の朝廷にあって重きを成しているこの人との交わりがあって損にはならぬだろうと、そう思い、招きに応じることにした。
申叔時の邸宅に招かれた蔿艾猟は、客間に通されると早速に酒を勧められた。
朝議の場で喋り過ぎたとの自覚がある蔿艾猟は、好意に甘えて喉を潤すことにした。酔いの助けもあったほうが、忌憚なく語り合えるだろうとも思ってのことである。
「良い飲まれ方ですな。蔿氏は酒を好まれますか?」
「好みはしませんが、嫌いでもありません」
「では、私も飲ませていただきましょう。この場は無礼講ということにしていただき、多少の非礼はご寛恕いただければと思います」
申叔時はそう言って盃をあおった。蔿艾猟はそれを、申叔時の好意と受け取った。
「ならば、いくつかお聞きしてよろしいでしょうか? 」
「私に答えられることであれば、何なりと」
「楚王は、申氏から見てどういう人でしょうか?」
蔿艾猟は直截に聞いた。
「商の受王か、あるいは周の武王のような王です」
商の受王は紂王と呼ばれることもある。酒色に耽り暴虐を行い、やがて国を滅ぼした暴君だ。
そして、諸侯を率いて受王の無道を正し、今日にまで続く周王朝の基礎を築いた名君が周の武王であった。
稀代の暴君か稀代の名君。楚王はそのどちらかであると申叔時は言ったのである。
「そういえば父も、楚王はいずれ周の武王を凌駕する王になるだろうと申しておりました」
「ほう、蔿賈どのがですか」
蔿賈は楚王に、英邁なる覇気を以て天下を席巻する王の素質を見たのだろう。しかし、そういう王には、その素質が独善と暴虐に転じかなねいという危うさがある。
申叔時にはそれが見えているが、蔿賈には見えていなかったらしい。
「もう一つ、お聞きしてよろしいでしょうか?」
「私に答えられることであれば、何なりと」
「王は何故、私を令尹に任じられたのでしょうか?」
蔿艾猟にとっての最大の謎はそこである。この老人ならば、その答えを教えてくれるような気がした。
「蔿賈どののことで負い目を感じておられるのでしょう。それに、いずれ蔿賈どのを令尹とするのは王の願いでもあられました」
「そうですか……」
蔿賈の死について少し語ると、蔿賈は闘椒という男に殺された。闘椒は虞丘子の前の令尹であり、権勢を誇っていた人である。
闘氏は元は楚の王室から分かれた家であり、その威勢は時に王を凌ぐほどであった。思うままに政治をしたい楚王はそれが面白くなく、闘氏の力を削ごうとした。
その時に楚王の手足となって暗躍したのが蔿賈であり、その最中に蔿賈は命を落としたのである。
「父のことならば、私は別に楚王を恨んではおりません」
その言葉そのものは本心である。しかし蔿艾猟の胸中は複雑であった。
結果として闘氏は排斥され、楚王は籠から放たれた鳥のように国政を行うようになった。蔿賈が楚王に心からの忠誠を以て仕えていたのか、あるいは闘氏排斥のために利用されただけなのかはもはや分からない。
しかし、権勢の渦に巻き込まれて命を落としたことだけは確かである。蔿艾猟は、自分は父と同じ道を辿りたくはなかった。
――権力など、人を不自由にする枷のような物なのに、どうして誰も彼もそのようなものを欲するのか。
そう考えるからこそ、蔿艾猟は権柄から遠いところに身を置いていたのである。それが今では、楚で二番目の権力者となってしまった。
「申氏よ。はっきりと申して、私に令尹が務まるとは思いません。私は、父のようにはなれそうにありません」
「それでよいではありませんか」
気弱なことを言ったが、申叔時は朗らかに笑って流した。
「貴方はご尊父のことは気になさらず、貴方の思うようにされればよい」
申叔時はそう言うが、それが一番、蔿艾猟の悩みの種なのだ。何せ蔿艾猟には、政治に対する志というものがまるでないのである。




