面従腹背の国
何の準備もなく、蔿艾猟はいきなり大国楚の執政の長になってしまった。
翌日より朝廷に出仕することになったが、蔿艾猟は楚国の現状と廷臣の顔ぶれを覚えるところから始めなければならなかった。
この年は紀元前六百二年である。楚王の即位から十一年が経っていた。
楚は四方千里という広大な地を領有しているが、それは楚の直轄地の他に、楚に従属する国の国土も含めてのことである。しかもこの従属というのは、決して永久的な忠誠を向ける国のことではない。
乱世において、小国は大国の武威による庇護を求めてその盟下に参じる。楚は軍事大国であり、従う諸国を護る代わりに彼らを従属させているのだ。
それはつまり、楚の武威が翳れば諸国は他の国に庇護を求めて走るということでもある。
楚と武威を競い、盟下の国を取り合う大国が北にあった。晋である。
晋は楚と、盟下の国を取り合って何度も衝突してきた。それ故に今の楚の政策は軍事に傾いている。
「鄭をどうするべきか」
楚王が群臣に問いかけた。
鄭は晋楚の中間にある国であり、特に去来の激しい国である。楚に攻められれば楚に与し、晋に攻められれば晋に与するという面従腹背の外交姿勢を国是としていた。
「攻め、滅ぼすべきです。鄭の君臣には恥というものはなく、信義がおけません。このような国を盟下に置くことが我が国の利になるとは思えません」
重臣の一人が声高に叫んだ。すると、他の者たちも次々と賛同した。
血の気の多い者が多いものだと呆れながら、蔿艾猟はあくびを堪えつつ聞いていた。
「令尹はどう思う?」
「臣ですか?」
いきなり楚王に問われて、蔿艾猟は驚きの声を出した。
群臣の視線が蔿艾猟に集まる。誰もが、この若き令尹の言葉に耳を傾けていた。ただしそれは、決して好意からではない。人の悪い好奇心と、何か失言があればその瑕疵をあげつらって恥をかかせてやろうという敵意からくるものである。
この場に蔿艾猟の味方はいない。それでも、蔿艾猟は堂々としていた。
「今は、鄭のことは気になさらぬがよろしいかと思います」
鄭への強硬策に染まったこの場で、蔿艾猟は追従することなく、むしろ反論した。
「ほう、それは何故だ」
楚王が聞いた。声に怒気はない。そうなると、
――王は、是が非でも鄭を攻めたいというわけではないのか。
と、少し意外な思いであった。楚国のこれまでの軍事偏重は楚王の意向であると考えていたからである。
同時に、思惑が外れたとも思った。
蔿艾猟の父、蔿賈は楚王を軍才で佑けた人である。楚王が蔿艾猟に出仕を求めたのは、父譲りの軍才を求めてのことではないかと考えていた。しかし不肖の子たる蔿艾猟は父のような応変の才はなく、また、その心情も軍事には偏っていない。
それ故に、蔿艾猟が鄭への派兵に難色を示せば楚王は失望すると思っていたのである。しかし楚王は、少なくとも表向きは蔿艾猟の言葉を興味深そうに聞いていた。
「晋は国内に狄族の難を抱えています。当面の間、鄭に目を向けることは出来なくなるでしょう。晋が国内のことに腐心しているうちに、我が国も足元を固めておくほうがよいかと存じます」
「晋の目が北に向いているのであれば、尚のこと我らは鄭を攻めるべきではないのか?」
廷臣の中から声が挙がった。
狄とは中国北方を拠点とする異民族のことであり、折に触れて晋の領内に踏み切って掠奪を行っている。その侵略に苦慮しているというのは楚にとって好機であるという言い分には理があった。
「人の苦難を我が幸いとして兵を挙げるのは不徳です。秦の穆公がどうなったかを思われよ」
秦とは晋の西にある国である。かつてその君主、穆公は晋の君主の死に際して、代替わりの混乱に付け込んで攻めいったことがあった。
しかし秦は大敗し、逆に三人の将を捕虜にされてしまったのである。
「敵に隙があり、弱みがあればこれに付け入るが兵の道である。綺麗事で盟主の地位を保つことは出来ない!!」
尚も蔿艾猟への反言は声高に叫ばれた。同じ声である。その廷臣の氏名は分からぬが、顔と声は覚えた。
「まあ落ち着け、伍大夫よ。ひとまず、令尹の言い分を最後まで聞こうではないか」
楚王が口を挟んだことでその男の言葉は止んだ。そして、蔿艾猟に食って掛かった男の氏が伍であるということも分かった。
主君の仲裁があり、その上で続きを促されたので、蔿艾猟は再び口を開く。
「盟主の地位を保つのであれば尚のこと、国内を疎かにしてはなりません。かつて成王は強勢を誇りながら晋に敗れました。今の楚はかつて文公が諸侯の上に君臨していた時ほど圧倒的ではなく、しかし晋にもかつての威光はない。それが分かっているからこそ、鄭は晋楚の間を往来しているのでしょう」
文公とはかつての晋の君主であり、今に至る晋の国威の基礎を築いた名君である。楚王の曽祖父、成王は文公との戦いを避け、敢えて戦った子玉という臣は晋に大敗を喫した。
その頃の、日の出の勢いともいうべき国力は今の晋楚ともに有していないと蔿艾猟は言う。これは楚王への批判でもあった。
玉座にいる楚王には耳に痛い言葉である。しかし楚王は怒ることなく、
「ならば今、楚はどうすべきか?」
と穏やかな声で聞いた。
「鄭に拘泥しすぎぬところ始めなければなりません」
蔿艾猟はそう言った。
「ならばその具体的な方策を纏めて私に示せ。今日の朝議はこれで終わりとする」
楚王はそう言うと、玉座から立ち上がり去っていった。
群臣たちは頭を下げる。儀礼なので蔿艾猟も頭を下げたが、その顔は苦渋に満ちていた。




