子霊
蔿艾猟は、道中であった子霊という男と旅を共にすることになった。
「ところで子霊どのはどちらへ向かわれるのですか?」
「ひとまずは鄭へ。そこから晋へ行こうと思っています」
この時、鄭は楚の盟下にある。なので、鄭までは安全に行けるだろう。だが、そこから晋へ入るとなると危険を伴う。
それでも、他の国からよりは、鄭を介して入国するほうがまだよい。鄭は常に晋楚の間を着いたり離れたりしているため、南北への往来も盛んであった。
「では、私も晋へ参るとしましょう」
「おや、孫叔どのはそれでよろしいのですか? 私としては、旅の道連れがいると心強いですが」
晋への旅となると、その旅程は長い。そのような決定を平然とした蔿艾猟を、子霊は驚いたように見た。
「元よりあてのない旅です。それに、晋を見ておくのは見識を広めるためにもよいことかと思いまして」
「なるほど、孫叔どのは晋に興味がおありですか」
「私は楚を出たことがありません。大陸に身を置くにあたって、晋というもう一つの大国を知りたいと感じたまでです」
その言葉は本心である。蔿艾猟は晋という国のことを、知識としては知っているが、見たことがない。未知に通じたいと思うのは人の本能である。これはただそれだけのことなのだと、蔿艾猟は胸中で己の言い含めた。
「ところで子霊どのは、何故、晋へ?」
「郤氏に用向きがありまして」
「郤氏というと、今の晋の卿大夫の中では正卿の趙氏に継いで輿望のある氏族ですね」
晋では正卿が一番偉く、正卿の座にあることが執政の地位を示す。今は趙氏の趙盾という人物が正卿であった。
「趙正卿はここのところ、お加減が優れぬとの風聞を耳にしました」
「五十を越えておられるのですから、正卿の激務は体に堪えるのでしょう」
そう返したが、子霊という男がそういうことを知っていることに、蔿艾猟は驚いた。
そして、郤氏に縁故があるというのも、楚人であることを想えば奇妙な話である。郤氏は大家であり、その当主、郤缺は次の正卿と目されているほどの大人物だ。
もっとも、郤氏には分家もあり、子霊はそちらを指して言ったのかもしれない。だがどちらにしても、晋の有力な貴族であることには違いなかった。
二人は晋の都、絳を目指してひと月ほどの旅をした。
その間、蔿艾猟は子霊という男のことを観察していたが、この男が何者であるのか、まったく見当もつかなかったのである。
わかったことはいくつかある。
一つには、晋を含め、諸国の政治情勢に通じていることだ。
そして二つ目は、故事や神話にもまた通暁しているということである。
このため、宿屋などで食事をともにし、酒を交わすと、決まって政治か故事の話になるのだった。
そして三つ目――これが、もっとも、蔿艾猟を奇妙がらせたのだが、どうやら子霊には先を見る力のようなものがあるらしいのだ。
例えば、子霊は賭場の近くを通ると、
「今日は勝てるので、少し」
と言って入り、本当に勝って戻ってくるのである。と思えば、
「今日は勝てません」
と言った日には素通りしてしまう。しかも別に、賭博が好きというわけでもなさそうなのだ。路銀を賊に奪われた子霊は、蔿艾猟に寄食している身である。だからこそ、たまに賭博で稼いだ日は、必ず蔿艾猟に酒を奢るのだった。子霊なりの感謝の意なのだろう。
その時、酔った勢いを借りて蔿艾猟は、子霊の不思議な先読みについて聞いてみた。
すると子霊は笑って、
「私にそのようなことが出来るのであれば、賊に遭わぬ道を進んでおりましたよ」
と返したのである。
笑みを返すのも悪いように思えて、蔿艾猟はそれ以上、聞くことが出来なかった。




