観相
自領に戻った翌日、夜明けより先に蔿艾猟は一人で旅立った。孫忌の用意した従者も連れず、二頭立ての馬車を駆っての出立である。
といって、蔿艾猟にはこの旅に目的などなかった。
とにかく、
――郢から離れたい。
という、ただその一心しかなかったのである。
半日ほど旅を続けると、ふと道中に人を見つけた。それも、生き倒れである。看過できず、蔿艾猟は車を止めて声を掛けた。
「もし、そこの人。どうされましたか?」
「ああ、実は……恥ずかしながら、賊に遭いまして。車と路銀とを奪われてしまいまして」
どうにか体を起こした男は、か細い声で返した。
線が細く、どこか幽玄としていて生気に欠ける男である。蔿艾猟は車から降りて、瓢箪にはいった水を与えた。
喉を潤すと、男は少し落ち着いたらしい。
見ると、衣服は砂塵にまみれているが、粗衣ではない。それなりの立場の人ではないかと蔿艾猟は感じた。
齢のころは何とも掴み難く、蔿艾猟よりも若いような気もすれば、遥かに年長なのではないかという気もする。
概して、よく分からぬ人、という印象であった。
もっとも、貴族でありながら従者の一人も連れずに一人旅をしている蔿艾猟も、傍目に見れば奇異な人ではあるということに、蔿艾猟は気づいていない。
「感謝いたします。私は子霊と申しまして、遊学のために旅をしていたところなのです」
男はそう名乗った。子霊というのはおそらく字だろう。氏姓については明かしたくないのだと、蔿艾猟は感じた。
「私は孫叔といい、家財を頼み、大志も抱かず気ままな旅をしている放蕩者にございます」
孫叔は蔿艾猟の字である。子霊が氏姓を隠したと思い、蔿艾猟も素直に名乗るのを躊躇った。
「なるほど、孫叔どのですか。しかし、放蕩者とは謙遜でございますな。あるいは、貴方は今のところ、そのように思われているだけやもしれませんが」
子霊は妙なことを言った。蔿艾猟は思わず眉をひそめる。
「水の礼として、観相を一つ差し上げましょう。この旅で貴方は得難い縁を手にし、いずれ高位を得ることになるでしょう」
「貴方は、人の顔を観る人か」
「少しばかり。ですが、よく当たると言われます」
どう受け止めるべきか、蔿艾猟は判然としなかった。
しかしこの、何もかもが分からぬ子霊という男が妙に気になったのである。
「子霊どの。よろしければ、私の車に乗っていかれますか?」
蔿艾猟は、自分でも分からぬままに、子霊を旅の道連れへと誘っていた。




