次の令尹
書簡を闘生に託した蔿艾猟は、そのまま荷物を纏めると日が沈む前に郢を出た。
楚王が何かを言ってくるかもしれない。その前に自領に戻るためである。
もっとも、そこまで重く見られているというのも自惚れかもしれない。とにかく、蔿艾猟は少しでも早く権勢と政争の渦巻く魔窟の城から遠ざかりたかったのだ。
数日をかけて自領に戻ると、家宰の孫忌が驚いたように眼を丸くしていた。
「どうされたのですか、孫叔さま? 今頃は郢で令尹の職務に励んでおられるはずでは?」
「楚王に暇を請うてきた。帰って早々で悪いが、暫く旅に出たい。そう大したものでなくてよいので、支度を頼む」
孫忌には何が起きたのか分からない。楚王に嘱目された主人が令尹への大抜擢を受けたと喜んでいたら、辞めてきたと事もなげにいう。
――その上、旅に出たいとは。
支度といっても、どこへ向かうのか、何日ほどの旅程を考えているのか、何も教えてはもらえない。
しかもこの若き主人は、それだけ言うとさっさと寝室に飛んでいって眠ってしまった。
仕方なく孫忌は車と、、二月ほどは困らぬだけの路銀を用意し、家中から目端の利く者を選んで同行を命じたのである。
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少し時は戻り、闘生は蔿艾猟に渡された書簡を楚王の元へ届けた。
これが辞表であることは想像に難くない。といって、頼まれた以上、届けないわけにはいかない。少なくとも自分には蔿艾猟を留めることは出来ず、それが出来るとすれば楚王を置いて他にいないと考えたからだ。
楚王の下へ赴くと、そこには申叔時もいた。
楚王は書簡を読み終えると、嘆息しながら申叔時に渡した。
「なるほど。これはいかにも、蔿氏らしい」
申叔時は朗らかに笑語した。
楚王は眉をひそめている。二人とも同じ感想であった。
「さて、それで王は如何なさいますかな?」
「どういうことだ」
「恐れ多くも王の厚遇を無碍にし、その手から逃げ出した小鳥を呼び戻されるのか。それとも、捕らえて罰せられるのか」
申叔時の言葉には諧謔が含まれており、。とても楽しそうであった。
しかし楚王にはとても、この状況を楽しむ気など起きない。その感情が何であるのかは分からないでいるのだが、心が晴れやかでないことだけは確かだった。
「どうもしない。捨て置くとも。令尹の父には大功がある。その心が我が元になく、不羈を望むのであればそれを叶えてやることこそが遺功に報いることになろう」
楚王は素っ気なく吐き捨てた。その宸襟はどう見ても、言葉の通りに割り切れていないことは明らかだが、申叔時はそれについて何も言わなかった。
代わりに、
「では、次の令尹はどうなさいます?」
と聞いた。
「当面は空位でよい。代わりに虞丘を沈尹に据え、子重と二人で政治を行わせる」
楚王はそれだけ言うと、二人を残して去っていった。
残された申叔時はその背を見送って、やはり朗らかに笑っていた。すべてを見通したような笑貌である。
しかしまだ若い闘生はどのような顔をすればよいのか分からなかった。




