蔿艾猟の辞表
伍参に激しく苛立ちはしたが、蔿艾猟にも一つ、得られた知見はあった。
――楚には名将と呼べる人がいない。
議論を交わしながら気付いたことである。それは蔿艾猟が語ったように、楚は将兵ともに強く、その武威で圧倒することで大体の戦に勝つことが出来るからだ。
勝ててきてしまった、と言うべきだろう。それ故に楚は、国土と国力に反して戦術に展延がない。
一方、晋の兵は弱く、しかも文公が即位した時は内紛が起きた直後であり、兵の強さを頼むことが出来なかった。それ故に晋の将は勝つために試行錯誤し、多くの名将が現れたのである。
しかし、楚に名将がいないことを嘆いてもどうにもならない。
――楚の進むべき道はどこにある?
軍事に傾きすぎてはいけない。しかし、軍事を軽んじてもならない。
はじめ、蔿艾猟は内に目を向け、足元を固めるべきだと廷臣の前で述べた。その時の蔿艾猟の頭にあったのは内地の充足と外交だったが、戦を厭うあまり、そこに軍事を組み込むという発想が欠けていたのである。
楚という国は、何に置いても軍の存在が大きい。諸事に軍と武人の存在が密接に関わっている。
やがて幽鬼のように立ち上がった蔿艾猟は、そのまま官衙の書庫の一室に足を向けた。これまで蔿艾猟が読み漁っていたのはすべて政務や外交、租税などに関するものであったが、ここに納められているのは楚のこれまでの軍事行動についての記録である。
これを調べると決めると、蔿艾猟はわき目もふらず書簡と向き合った。
官衙に勤める者たちはその様を見て、
「書に憑かれているようだ」
と噂しあったが、そういう囁きさえも蔿艾猟の頭の中には入ってこない。ひたすらに書簡に記された文字だけを吸収し続け、気が付くと夜が明けていた。
やがて蔿艾猟は、あることを思いついた。
すると卓に向かい合い、筆を取り始めたのである。
傍目には蔿艾猟の振る舞いは狂気に映ったことだろう。真意がどこにあるか分からず、食事もほとんど取らずにひたすら何かを書き連ねているのだ。
そうしてその日も夕刻になった。
闘生が慌ただしく官衙を訪ねてきたのである。
「どうなされた、闘氏よ」
蔿艾猟は卓に向き合い筆を離さず聞いた。
「蔿氏よ、貴方はこのままでは令尹を辞めさせられるかもしれません!!」
その言葉に、蔿艾猟の手が止まった。
「……それは、王の思し召しですか?」
闘生に向き合った蔿艾猟は、実に奇妙な顔をしていた。当惑に怒りと哀しみを混ぜたような顔である。
「王はまだその宸襟を明かされてはおりません。ですが、伍氏が盛んに蔿氏を中傷しているのです」
「伍氏が……。あの人は、なんと言っておられるのですか?」
「新参の若者でありながら参内もせず、楚に人なしと大言壮語を吐く惰弱の令尹など楚には不要である、と申されています」
「……左様ですか」
蔿艾猟は黙り込んだ。
闘生は敢えて中傷と言ったが、伍参の言葉はすべて事実である。そういうやり方は好まぬが、伍参の立場であればそう喧伝するだろうということも納得は出来た。
「伍氏に賛同されておられる方は?」
「公子の子重どのを筆頭に、潘氏、屈氏、養氏などです」
「ならば、もはや王でもどうにもならないでしょう」
楚という国は領邑を持つ貴族たちの連合という側面がある。とりわけ兵を挙げるとなると、楚王直参の兵だけでは成り立たず、貴族たちの私兵を頼みとしなければならない。
それはつまり、貴族たちを敵に回せば王は王たり得ず、まともな政治や軍事行動も出来ないということを意味していた。
蔿艾猟が嘆息したのはそういうわけである。
闘生が挙げた者たちはいずれも楚の有力な貴族たちであり、彼らが蔿艾猟に反感を抱いているのであれば、王の強権を以てしても蔿艾猟を令尹に置き続けることは出来ないだろう。
蔿艾猟は書きかけの書簡を置き、新たに書簡を用意して筆を取った。
“臣艾猟、不才にして王の厚遇に報いること能わず。令尹を去らんことを請わんと欲す。
楚には勇将数多あり。また虞氏、申氏、闘氏らの賢才あれば、此の若輩に身を置く座は無し。
不肖にして氏と父祖の名を汚すこと心苦しくとも、王一度、我が父の遺徳を顕彰し臣を令尹に擢登されたこと万感の至りなれば、ただ我が蒙昧を愧ず。
我は終生、不蜚不鳴の燕雀なり”
書き終えた蔿艾猟は、書簡を闘生に託した。
「お手数をおかけ致しますが、こちらを王に渡していただきたい」
「……わかりました」
闘生は何かを言おうとしたが、言葉が出てこず、渡された書簡を受け取ることしか出来なかった。
いよいよ書簡が完全に己の手を離れた時、蔿艾猟の胸中は自分でも分からぬ乱れに支配されていたのである。
――これでよかったのだ。はじめから、望んでいたことではないか。
騒ぐ心を鎮めようと、蔿艾猟は何度も自身にそう言い聞かせた。




