晋の都
整然とした城市に、燦爛とした華やかさがある。
それが、晋の都、絳をはじめて見た蔿艾猟の素直な感想だった。
大陸の中心ともいうべき晋には、楚にないものが多い。珍しさと目新しさの下には人が集う。その殷賑の明るさを除いても、晋には、楚にない輝きがあることを痛切した。
「孫叔どのは情彩に富んだお人ですね」
子霊が笑った。
蔿艾猟は、己が孺子のような無邪気さを表に出していただろうかと、愧じた。それがおかしかったのか、子霊は、笑いながら詫びた。
「貶意はありません。未知を前にして胸を躍らせることが出来るのは、心に奥行きのあることの証です。そして心の奥行きは、人格を育てるもの。私としては、その素晴らしさを寿いだにすぎません」
「そのようなものでしょうか? 田舎者が都会を前にすれば、誰でもこのようになるかと思いますが……」
「孫叔どのは、感嘆されていても、圧倒されてはいません。それは貴方の中に、此の地の壮大さを受け止めて己の糧とする器量があるということです」
不思議なもので、子霊に言われると、そういうものかという気になってくる。子霊の言葉には、そういう清らかさがあった。
風の息吹きを、あるいは川の流水を受け入れるように、耳朶を通してすんなりと体に染み込んでいくのである。
ただし、褒められると、こそばゆくもあった。
「ところで、子霊どのはどちらに逗留なさるのですか?」
と、その気恥ずかしさを隠すように話題を変えた。
「蒼氏という人のところに世話になることにしております。孫叔どのにも、一室を借りられるよう頼んでみましょう」
「それは、さすがに気後れいたします」
「孫叔どのにはこの旅路で大いに世話になりました。このくらいはさせていただかねば、むしろ、私の立つ瀬がございません」
子霊は強引に言って、蒼氏という人のところへ蔿艾猟を連れて行った。
蒼氏という人は、穏やかな老人であり、孫叔が泊まることも快諾してくれた。それどころか、孫叔のためにわざわざ家臣の一人をつけてくれたのである。
「欑と申します。どうか己の家臣と思い、何なりとお命じください」
そう名乗ったのは、まだ弱冠の青年である。肌は日に焼けていて、体躯は細いが、引き締まっている。
はじめのうちは、蔿艾猟も遠慮していた。他家の臣を我が物顔で使役するほどの図々しさはないからである。しかし、絳の城市を出歩いている間の供を頼むと、欑は適宜、蔿艾猟に色々なことを教えてくれた。
その知見というのが、たんに絳についてのことだけでなく、晋の政情や歴史についてまで通じているのだ。気が付くと蔿艾猟は、この若者のことをすっかり気に入っていた。己の家臣のように、と言ってくれたが、
――欑どのが本当に私の家臣であればな。
と思うことも何度かあった。しかし、これだけ有能ならば蒼氏にも重用されているに違いなく、それは、他家の宝を羨んで欲するのに等しい浅ましい欲であると、蔿艾猟はその感情を呑み込んだ。
蒼氏の好意を受け止め、欑の見識に敬意を示しつつも、数歩退いて関わるように戒めた。
するとやがて、欑について、気づいたことがある。
――どうも欑どのは、晋という国を嫌っている。
それが何故かはわからない。そもそも、そのように感じた根拠さえ、蔿艾猟にはわからなかった。ただただ、そう感じたというだけのことなのだ。
欑が晋の政治を語り、歴史を述べるときは、常に怜悧であり、そこに含みはないように思える。
強いて言うのであればその、漂白されたような無感情が、かえって何か、深い感情を包み隠すためのものに思えてしまうのだ。
だがそれは蔿艾猟の考えすぎかもしれず、また、真実だとしても詮索するようなことではない。
寄宿している家や、その家臣の事情について深入りするのはよいとは言えない。そう考えたあたりで蔿艾猟は、
――どれほど絳にいようか。
と考えた。
旅費にはまだゆとりがあるが、いつまでも続くことはない。
子霊は郤氏のところに用向きがあると言っていたので、それが終わればともに楚に帰ろうときめた。そこで子霊に訊くと、
「ひと月ほどすれば私の用は終わります」
と言ったので、蔿艾猟も逗留の期間をひと月と定めた。
もとより、いつまでも家に帰らぬことなど出来ない。無官の身といえど父から継いだ領邑の経営はしなければならず、それをいつまでも家宰の孫忌に任せているわけにもいかぬのだ。
ところがある時、子霊が、
「今から郤氏の邸へ赴くのですが、孫叔どのも参られませんか?」
と誘ってきた。
興味はあるが、晋の卿の家である。そのように気軽に随行してよいのかと聞いたが、
「郤氏が、孫叔どのにお会いしてみたいと申されましたので、来ていただけると幸いです」
と言われたので、蔿艾猟は眉宇をひそめた。
子霊はあくまで、道中で世話になった人としか言っていないらしいが、迷惑なことこの上ない。
蔿艾猟としては、決して内偵のために晋にきたわけではない。しかし、父が楚王の功臣であり、自身も少し前までは令尹だったことに違いはないのだ。そのことが露見すれば、誰であれ、姦計を秘めて微行してきたと考えるであろう。
痛くもない腹を探られるだけでも堪らぬというのに、偏見で黒く染められて危地に追いやられては敵わない。
「どうにも、今日は体調が優れぬものでして」
と仮病を演じ、丁重に断りをいれた。
そうなると、この日は迂闊に外に出られない。蒼氏が無聊の慰めにと書庫への出入りを許してくれたので、読書をして過ごすことに決めた。
午すぎまで、蔿艾猟は客室と書庫とを何度か往復した。
そろそろ一休みするかと決めたところで、見知らぬ人と会った。壮年で背が高く、兀立とした男性である。身なりからして、貴人のようだった。
「見慣れぬ御方ですな」
そう話しかけられて、蔿艾猟は息を呑んだ。
「蒼氏の好意を受けている旅人で、孫叔と申します」
晋と楚では言葉が違う。蒼氏と欑とは楚語で話しているが、ここでそれを出すわけにはいかない。
声の震えと訛りが消せているかどうか。蔿艾猟は憂いながら、無難な言葉を返した。
男は、蔿艾猟の手元を見た。何冊もの書簡を抱えているのを見て、
「随分と励んでおられるようですね。絳へは、遊学に参られたのですかな?」
と訊いた。
「そのようなところです」
とだけ言って、蔿艾猟は足早にこの場を去ろうとした。言葉を交わすほどに、楚人であることが露見する恐れが高まる。しかし男は蔿艾猟をなかなか逃がしてくれなかった。
するとやがて、蒼氏がやってきた。
「孫叔どのに、范氏。いかがなさいましたか?」
「これは、蒼どの。少し貴家のお客人と話をさせていただいておりました。しかし私は警戒されているようです。どうか貴方からも、楚人だからといって私は何かを邪推したりはせぬと言ってはいただけませんか?」
男は、流暢な楚語でそう言った。
蔿艾猟は手から書簡をこぼし、肩を震わせながら、
「貴方は、すべてわかっておられたのですか……」
と、詰るような目で、范氏と呼ばれた男を睨んだ。
范氏は口元を抑えてわらいながら、
「失礼。貴方の生真面目さが愉快だったもので、つい」
と、返した。壮年らしからぬ幼さを含んだ笑貌である。
この人は誰なのかと、蔿艾猟は蒼氏に訊いた。蒼氏が答えるより先に范氏が、
「私は晋の大夫であり、范氏の季と申すものです」
と言った。




