第4話 改変された守護
守護は汚され、敵はまだ見えない。
地鳴りは、波のように押し寄せては引いていった。
崩れた石床の隙間から、冷たい風が吹き上がる。
遺跡の壁面に刻まれた古代文字が、かすかに明滅していた。
一つが灯る。
少し先でもう一つ。
こちらの進路を追うように。
あるいは、先回りするように。
気づけば、《眠る巨壁》の空気は変わっていた。
いつからだったのか。
誰にも分からない。
崩れた街路を抜け、石造りの回廊へ入った頃か。
それとも、最初の守護機兵が目を覚ましたときか。
外から入ったばかりの頃。
ここは、ただ静かな遺跡だった。
砂に埋もれた石畳。
崩れた建物。
風雨に削られた城壁。
人のいなくなった都市を、風だけが通り抜けていた。
だが。
奥へ進むにつれて、街の形は少しずつ変わっていった。
建物の跡は減り、代わりに厚い石壁が増えた。
広かった街路は幅を狭め、左右を高い壁に挟まれた回廊へ変わっている。
壁面には古代文字と防衛紋。
天井の一部は崩れ、その向こうに見える空も細い。
ここはもう、人が暮らしていた場所ではない。
都市の内側。
何かを守るために造られた区画。
そう感じさせる場所へ変わっていた。
ゴゴゴゴ……。
再び地鳴りが来る。
足元へ届き。
石壁を震わせ。
やがて、引いていく。
静かになる。
そしてまた。
ゴゴゴゴ……。
波のように。
押し寄せては、引いていく。
まだ敵の姿は見えない。
それなのに、《眠る巨壁》の奥では何かが動いている。
入ったときとは違う。
そう感じたのは、グラードだけではなかった。
どこかで。
一つの境を越えた。
そんな感覚がある。
だが。
その境界がどこにあったのか。
誰にも分からない。
目印になる門があったわけではない。
扉を開いたわけでもない。
ただ進んでいた。
そして気づいたときには。
《眠る巨壁》は、六人を見ていた。
そんな錯覚さえ覚える場所になっていた。
「……待って」
先頭を進んでいたノクスが止まった。
耳が立っている。
先ほど見えた三つの青白い光。
それは今も、回廊の奥にある。
消えてはいない。
むしろ。
近づいている。
一定の間隔を保ったまま。
「……来る。だけど、動きが変わった」
ノクスが低く言った。
アルマが弓を構える。
三つの光を見つめる。
「同時に突っ込んでこない」
左右の二つが前。
中央が少し後ろ。
距離を崩さない。
足並みまで揃っている。
アルマの表情が険しくなった。
「連携してる……みたい」
グラードは盾へ手をかけた。
左腕が重い。
《鎮怒》はまだ身体の奥に残っている。
だが。
その横で、リオンがすでに剣の柄へ手を添えていた。
グラードは一度だけ、その横顔を見る。
リオンも気づいた。
「無理はするな」
「分かってる」
「本当か?」
「お前までセラみたいなことを言うのか」
後ろから声が飛んできた。
「どういう意味?」
グラードは黙った。
ノクスが小さく笑う。
だが。
すぐに表情を戻した。
三体が、薄暗い回廊へ姿を現した。
古代守護機兵。
形そのものは、これまでの個体と大きく変わらない。
石と金属を組み合わせた巨体。
頭部を横切る青白い光帯。
胸部で脈打つ魔力核。
だが。
動きが違う。
左右の二体が半歩前。
中央の一体が後方。
三体の間隔はほぼ等しい。
グラードは盾を構えながら目を細めた。
敵が複数いれば、自然に位置がずれることはある。
だが。
これは違う。
互いの動きを邪魔しない距離。
前の二体が壁となり。
後ろの一体が、その隙間から全体を見ている。
人間の戦列に近い。
「……なんだ、あれ」
ノクスが低く呟く。
アルマの顔が険しくなる。
「指揮されてる。間違いない」
ヴェルナは三体ではなく、壁を見ていた。
杖の先端を古代文字へ近づける。
淡い魔力光が生まれた。
その瞬間。
壁の防衛紋が反応する。
ヴェルナの杖から逃げるように光が走り、三体の守護機兵へ繋がっていった。
彼女の表情が変わった。
「……これ」
「何か分かった?」
セラが尋ねる。
ヴェルナは壁面へ指を触れた。
「古い術式の上に、別の流れが重なってる」
アルマが振り向く。
「さっき調べた核と同じ?」
「たぶん」
ヴェルナが杖を軽く地面へ突き立て、もう一度魔力の流れを探る。
そして。
低く言った。
「この遺跡、完全に書き換えられてる」
声から軽さが消えた。
「ただの自動防衛じゃない」
その瞬間。
左右の二体が動いた。
同時。
だが。
同じ場所へは来ない。
右の機兵がグラードへ向かう。
左は壁際へ。
「分かれた!」
ノクスが叫ぶ。
違う。
グラードはすぐに気づいた。
左の機兵は自分を避けている。
狙いは。
「セラ!」
機兵が踏み込む。
巨腕が横へ振られた。
グラードが動こうとする。
だが。
その前に。
リオンが入った。
一歩ではない。
半歩。
機兵の腕が動き始める、その起こりへ身体を置く。
剣は抜かない。
左手を鞘へ添えたまま、身体をわずかに沈める。
巨腕が迫る。
リオンは斜め前へ入った。
拳が身体のすぐ横を抜ける。
風圧で衣服が鳴った。
そのまま。
肩。
腰。
脚。
機兵の重心を見る。
「下がれ」
セラへ短く告げる。
セラが後退する。
リオンも追わない。
必要なのは、機兵を倒すことではない。
セラとの間に一本の線を作ること。
それだけだった。
一方。
右の機兵がグラードへ突進する。
グラードは盾を真正面には向けなかった。
左足を引く。
腰を落とす。
盾を傾ける。
衝突。
ドンッ!
重い衝撃が左腕を抜ける。
《鎮怒》の残る肩が軋んだ。
それでも。
受け止めない。
流す。
機兵の巨体が半歩ずれる。
「ノクス!」
「待ってました!」
瓦礫の陰からノクスが飛び出す。
機兵の背後へ。
狙うのは膝。
前に弾かれた場所ではない。
アルマが先に示していた装甲の継ぎ目。
短剣を差し込む。
捻る。
関節部から火花が散った。
「アルマ!」
ノクスが離れる。
矢が飛んだ。
同じ場所へ突き刺さる。
機兵の片膝が沈んだ。
グラードは追撃しない。
盾を戻す。
前を見る。
中央。
後ろにいた一体が、まだ動いていない。
いや。
動いている。
両腕を広げていた。
胸部の魔力核が強く輝く。
「何か来る!」
ヴェルナが叫んだ。
中央の機兵が両腕を石床へ叩きつけた。
衝撃。
床が波打った。
亀裂が回廊全体へ走る。
石片が跳ね上がる。
「散れ!」
グラードの声。
六人が動く。
アルマは壁際へ。
ヴェルナは反対側。
セラが後退する。
ノクスは瓦礫へ飛び乗った。
だが。
足元が崩れた。
「うおっ!」
体勢が傾く。
その瞬間。
片膝を損傷した右の機兵が動いた。
壊れた脚を引きずりながら。
ノクスへ腕を伸ばす。
「ノクス!」
グラードが踏み出す。
一歩。
身体が重い。
二歩目。
その前を。
リオンが抜けた。
ノクスへ伸びる巨腕。
肩が動く。
肘が伸びる。
指が開く。
その起こりを、リオンは見ている。
半歩。
呼吸が消える。
剣光。
「――零に帰す」
音は遅れて聞こえた。
機兵の脚関節が落ちる。
支えを失った巨体が傾いた。
伸ばされた腕はノクスへ届かない。
「助かった!」
ノクスが地面へ転がり、そのまま距離を取る。
だが。
中央の機兵の魔力核が、さらに強く光った。
空気が歪む。
ヴェルナが目を見開く。
「防御術式……?」
青白い膜が広がった。
三体を包むのではない。
中央の一体を中心に。
前方へ。
壁のように展開する。
アルマが矢を放つ。
弾かれた。
乾いた音。
矢が石床へ落ちる。
「……バリア」
アルマが呟く。
ヴェルナが杖を向ける。
「それまで追加されてるわけ?」
雷光。
《穿雷》が走る。
だが。
青白い壁が揺れるだけ。
抜けない。
そして。
防御術式の向こうで。
左右の機兵が位置を変えた。
片脚を損傷した個体が後退する。
無傷の一体が前へ。
中央を守るように。
アルマが息を呑んだ。
「交代した」
グラードにも見えた。
壊れた個体を下げた。
戦える個体を前へ。
これは。
壊れるまで同じ命令を繰り返す機械の動きではない。
状況を見ている。
選んでいる。
「……ヴェルナ」
グラードが呼ぶ。
「分かってる」
彼女は防衛紋を睨んでいた。
「こいつらだけじゃない」
杖の先を壁へ向ける。
「遺跡全体が繋がってる」
そのときだった。
回廊の奥。
さらに深い場所から。
声が響いた。
低く、歪んだ、人とも機械ともつかない声。
『侵入者……排除……優先度、更新』
六人の動きが止まった。
アルマの顔から血の気が引く。
「……声? 遺跡が、喋った……?」
ヴェルナは答えなかった。
耳を澄ます。
壁。
床。
防衛紋。
声が消えたあとに残る魔力の流れ。
やがて。
「違う」
低く言った。
「遺跡が喋ってるんじゃない」
杖を握る手に力が入る。
「誰かが、向こうで喋らせてる」
沈黙。
その言葉だけが残った。
グラードの胸の奥に、熱が生まれた。
仲間を狙う機兵。
守るために作られたものを、別の目的へ変えた何者か。
怒り。
《憤怒護界》へ繋がる熱。
盾を握る手に力が入る。
「グラード」
セラの声だった。
「まだ駄目」
グラードは答えない。
青白い防御壁を見る。
その向こうに三体。
さらに奥からも。
重い足音。
ゴン。
ゴン。
増えている。
《憤怒護界》を使えば。
突破できるかもしれない。
だが。
その後は。
グラードは自分の左腕を見た。
まだ震えている。
《鎮怒》は消えていない。
「……グラード」
今度はリオンだった。
剣を納めたまま、隣に立つ。
「預けたんじゃなかったのか」
グラードが見る。
リオンは前を向いている。
「……ああ」
「なら、預けろ」
短い。
それだけだった。
グラードは息を吐いた。
盾を下ろさない。
だが。
胸の奥の熱を、無理に解放もしない。
「ヴェルナ」
「何?」
「あの壁。壊せるか」
「一人じゃ無理」
「アルマ」
「核と連動してる。中央の機兵が維持してる可能性が高い」
「ノクス」
「近づければ何とかする」
グラードは最後にリオンを見る。
「聞いたな」
「ああ」
グラードは盾を構え直した。
「なら、俺が開ける」
リオンの口元が、ほんの少し動いた。
「それでいい」
防御壁の向こう。
前へ出た機兵が突進する。
グラードも出た。
ただし。
力は解放しない。
左足。
腰。
盾の角度。
衝突。
流す。
機兵の巨体が横へずれる。
そこへヴェルナの雷。
「《穿雷》!」
胸部へ直撃。
防御壁が一瞬だけ揺らぐ。
「今!」
アルマの矢。
青白い壁の一点へ集中する。
一本。
二本。
同じ場所。
光が歪む。
ノクスが走った。
壁ではない。
崩れた側壁へ。
石柱を蹴る。
高く跳ぶ。
防御壁の上端。
そこへ短剣を突き立てた。
魔力光が弾ける。
「リオン!」
グラードが叫ぶ。
だが。
リオンはすでに動いていた。
一歩。
そして。
半歩。
青白い壁の揺らぎを見る。
ヴェルナの雷。
アルマの矢。
ノクスの刃。
三つの攻撃が作った、ほんのわずかな歪み。
そこへ。
剣を置く。
抜刀。
「――零に帰す」
一閃。
青白い壁に線が走った。
パキン。
小さな音。
亀裂。
リオンは剣を返さない。
「グラード!」
「ああ!」
グラードが踏み込んだ。
大盾。
今度は流さない。
亀裂へ盾の縁を叩き込む。
腰を落とす。
右足で石床を踏む。
押す。
青白い壁が軋んだ。
さらに押す。
亀裂が広がる。
そして。
砕けた。
光の破片が回廊へ散る。
中央の守護機兵が大きく揺れた。
「ヴェルナ!」
「任せて!」
《穿雷》。
今度は遮るものがない。
雷撃が魔力核へ突き刺さった。
アルマの矢が続く。
核に亀裂。
ノクスが側面へ回る。
リオンが正面。
グラードは前へ出ない。
盾を構え。
後衛と二人の間を守る。
中央の機兵が腕を振り上げた。
リオンへ。
だが。
その腕は最後まで振られなかった。
半歩。
剣光。
肩関節が落ちる。
ノクスの刃が核の亀裂へ入る。
ヴェルナの雷が内部へ走った。
青白い光が爆ぜる。
中央の機兵が崩れた。
残る二体の動きが止まる。
ほんの一瞬。
まるで。
命令を失ったように。
「今!」
アルマが叫ぶ。
六人が動いた。
長くはかからなかった。
最後の一体が倒れる。
轟音。
そして。
静寂。
グラードは盾を下ろした。
身体は重い。
だが。
立っている。
《憤怒護界》は使っていない。
セラが隣へ来た。
何も言わず、グラードを見る。
「……何だ」
「別に」
「何か言いたそうだが」
「少しは学習したのね」
「俺を何だと思ってる」
「限界まで立ち続ける人」
否定できなかった。
ノクスが倒れた機兵を調べている。
「こっち、さっきのより術式が多いぞ」
アルマもしゃがみ込む。
「戦闘中に判断していたように見えた。でも、この個体そのものが考えていたとは限らない」
ヴェルナは奥を見る。
「でしょうね」
回廊のさらに先。
暗闇。
その壁面で。
また一つ。
防衛紋が灯った。
そして。
その先でも。
一つ。
また一つ。
奥へ向かって。
道を示すように。
六人は誰も動かなかった。
最初に見た《眠る巨壁》は。
眠っていた。
今は違う。
何かが変わった。
いや。
変えられた。
そして。
その何かは。
六人がここにいることを知っている。
グラードは盾を握り直した。
リオンが剣の柄へ手を添える。
ノクスの耳が、暗闇の奥へ向いた。
アルマは灯っていく紋様を目で追う。
ヴェルナの表情から笑みが消えている。
セラは聖印を握った。
誰も口にはしなかった。
だが。
同じ感覚があった。
どこかで越えた境界の向こう側。
そこから先はもう。
ただの遺跡ではない。
《眠る巨壁》は。
何者かの意思によって、目を覚ましていた。




