第2話 鎮怒と、背中に宿る誓い
力が消えたあとに残るのは、痛みと、仲間の手だった。
遺跡都市《眠る巨壁》。
その名の意味を、六人は街道の先に姿を現した巨大な城壁を見た瞬間に理解した。
地平を塞ぐように、壁が横たわっている。
一枚ではない。
外側の城壁。その奥に、さらに高い壁。その向こうにも、崩れかけた塔と城壁の上端が幾重にも重なって見える。長い年月に削られ、ところどころが崩落しているにもかかわらず、その規模だけは少しも損なわれていなかった。
近づくにつれ、街道にも変化が現れた。
土の下から古い石畳が覗き始め、やがて道そのものが石へ変わる。だが、敷き詰められた石の半分近くは砂に埋まり、割れ目から伸びた草が風に揺れていた。
六人の足音だけが、その上を進んでいく。
グラードは歩きながら、無意識に左腕を動かした。
鈍い痛みが返ってくる。
《鎮怒》。
《憤怒護界》を使ったあとに訪れる、強い消耗。
先ほどまでの戦闘で負った傷はセラの治療を受けている。それでも、身体の奥へ沈んだ重さまでは消えていなかった。
一歩ごとに、重装金属鎧が普段より重く感じられる。
「……でっか」
ノクスが呟いた。
ヴェルナが杖を肩に預けたまま、城壁を見上げる。
「でかいだけなら、まだいいんだけどね」
「何かある?」
「あるから嫌なのよ」
ヴェルナの紫の瞳が細くなる。
「この、生きてる感じ」
六人は、巨大な外壁の切れ目へ近づいていた。
かつて門だったのだろう。左右には太い石柱が残り、その上に渡されていたはずの構造物は半ば崩れ落ちている。
だが、その表面には無数の線が走っていた。
文字。
そして紋様。
風雨に晒され、石そのものが摩耗しているというのに、その線だけは不自然なほど鮮明だった。
アルマが立ち止まった。
「待って」
全員が止まる。
アルマは壁際へ寄り、刻まれた紋様を指先でなぞった。
「防衛紋」
リオンが剣の柄へ手を置く。
「まだ動くのか?」
「動く」
アルマが指を離した。
その直後。
触れていた場所を中心に、ごく淡い光が走った。
一瞬だけ。
だが、確かに光った。
ノクスの耳がぴくりと動く。
「何百年前の遺跡なんだよ、ここ」
「古代文明はそういうことをするのよ」
ヴェルナが肩をすくめる。
「作った人間がいなくなっても、命令だけは残る。忘れられても、壊れるまで働き続ける」
石壁の隙間を風が抜けた。
低い音がした。
唸り声にも似ていた。
セラがグラードの横へ並ぶ。
「グラード」
「ん?」
「《鎮怒》、さっきより重くなってない?」
グラードは少しだけ左肩を回した。
痛む。
「……まだ残ってる。だが、歩ける」
「歩けるかどうかを聞いてるんじゃないの」
セラは彼を見上げた。
「止まるべきときに、止まれるかって聞いてるの」
「……分かってる」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん?」
声が低くなった。
ノクスが、そっと一歩離れる。
ヴェルナも何も言わず距離を取った。
リオンだけが平然としている。
「怒らせるな。機兵より面倒だ」
「聞こえてるわよ、リオン」
「聞こえるように言った」
グラードは小さく息を吐いた。
身体は重い。
だが、進める。
それなら進む。
アルマが遺跡の奥へ視線を向けた。
「ここから隊形を組む。グラードが前。リオンは半歩後ろ。ノクスは先行して左右の死角を確認。私とヴェルナは後方。セラは中衛」
「了解」
リオンが答え、グラードの横を通り過ぎる際に言った。
「余計な無茶はするな。今日は俺が線を引く」
グラードは眉を上げる。
「お前が言うか」
「言う」
即答だった。
ノクスが笑いを噛み殺し、そのまま先へ走った。
六人は《眠る巨壁》の内側へ入った。
外から見た以上に、そこは巨大だった。
城壁の内側には幅の広い石造りの街路が伸び、その両側には崩れた建物が並んでいる。壁だけを残したもの。屋根が落ち、内部まで砂に埋もれたもの。二階部分が街路へ崩れ、瓦礫の山になっているもの。
都市だった痕跡だけが残っている。
だが、人の気配はない。
聞こえるのは六人の足音と、どこか遠くを抜ける風の音だけだった。
グラードは前を歩く。
左手にはタワーシールド。
右手には特注のメイス。
普段なら、盾の重さなど意識もしない。
今日は違った。
左腕の奥に残る《鎮怒》の鈍痛が、盾の重量を一歩ごとに伝えてくる。
先行していたノクスが、崩れた石柱の陰でしゃがみ込んだ。
片手を上げる。
全員が止まった。
ノクスは地面を指差している。
砂の上に、複数の跡が残っていた。
人の靴跡。
それも新しい。
さらに、その横。
石畳の砂を深く押し潰した、大きな窪みが一定の間隔で続いている。
「足跡……新しい」
ノクスが立ち上がる。
「人間のと――重いのが混じってる」
「重い?」
セラが眉をひそめた。
「金属だと思う。何かでかいのが歩いた跡」
アルマがしゃがみ込み、窪みを調べる。
「古いものじゃない」
「誰か先に入ってるってこと?」
ヴェルナが周囲を見回す。
「それと、何かが動いてる」
アルマが立ち上がった。
直後だった。
壁面の防衛紋が光った。
一つ。
二つ。
三つ。
街路の奥へ向かって、次々と淡い光が灯っていく。
まるで。
眠っていたものが、順番に目を開いていくように。
アルマが弓を取った。
「来る」
地面が震えた。
ゴゴゴ……。
石と石が擦れ合う低い音が、街路の奥から響く。
ヴェルナが杖を構える。
「起動するわ」
石床の一部が割れた。
砂と石片を押し退けながら、巨大な影がせり上がってくる。
最初に見えたのは頭部だった。
人の顔を模したものではない。石と金属を組み合わせただけの無骨な形状。その中央を、細い青白い光帯が横切っている。
続いて肩。
胴。
巨大な腕。
胸部では青白い魔力核が、心臓のように明滅していた。
古代守護機兵。
グラードよりさらに大きい。
ノクスが一言だけ漏らした。
「……でかい」
「さっきも聞いた」
ヴェルナが返す。
「だって、でかいもんはでかいだろ」
アルマは二人の会話を無視して機兵を観察していた。
「典型的な防衛個体。たぶん侵入者排除型」
青白い光帯が動いた。
六人をなぞる。
そして止まる。
グラードの上で。
「来る!」
巨体が動いた。
一歩。
石床が震える。
二歩目で速度が上がった。
見た目に反して速い。
グラードは盾を前へ出した。
「下がれ」
仲間へ告げると同時に、機兵が右腕を振り上げる。
拳というより岩塊だった。
正面からまともに受ければ、いくらグラードでもただでは済まない。
左足を半歩引く。
腰を落とす。
盾を真正面には向けない。
わずかに角度をつけ、衝撃を外へ逃がす。
機兵の拳が迫る。
グラードは呼吸を止めなかった。
衝撃が来る瞬間に息を吐く。
ドンッ!
金属と石がぶつかる音が、街路を走った。
衝撃が左腕を抜け、肩へ突き刺さる。
グラードは腰をひねる。
受け止めるのではなく、流す。
拳が盾の表面を滑った。
だが――。
「……っ!」
殺し切れない。
身体が押された。
左足が石床を削る。
一歩には届かない。
それでも、確かに後退した。
普段ならあり得ない。
《鎮怒》。
身体が、まだ戻っていない。
機兵は止まらなかった。
左脚を踏み込み、体勢を立て直すより早く二撃目を振り下ろしてくる。
「グラード、二撃目!」
アルマの声。
盾を上げる。
角度を変える。
拳が迫る。
その瞬間。
――木が、砕ける音がした。
一瞬。
目の前の遺跡が消えた。
熱い。
炎。
煙。
幼いグラードは、燃える村の中に立っていた。
今よりずっと小さな身体。
角もまだ短い。
手にしているのは、金属のタワーシールドではない。
ひび割れた木盾だった。
背後で子供が泣いている。
小さな手が、グラードの腰布を掴んで離さない。
遠くで誰かが叫んでいた。
逃げろ、と。
だが、その声は炎に飲まれていく。
目の前には剣を持った人間の傭兵。
男は笑っていた。
獲物を見る目だった。
「どけ、化け物」
怖かった。
木盾が震えている。
いや。
震えていたのは、自分の手だった。
膝も震えていた。
逃げたかった。
それでも。
背中には、もっと小さな者たちがいた。
グラードは唇を噛んだ。
「……守る」
剣が振り下ろされた。
木盾が砕けた。
――ドンッ!
現在が戻った。
守護機兵の拳がタワーシールドを叩いている。
グラードの腕に激痛が走った。
今度は流し切れなかった。
膝が沈む。
石床に亀裂が走る。
それでも。
盾は落とさない。
グラードは右足を踏み込み、身体を押し戻した。
「ヴェルナ!」
アルマが叫ぶ。
「分かってる!」
杖の先端に青白い光が集まる。
「《穿雷》!」
雷撃が街路を走った。
機兵の胸部へ直撃する。
魔力核が激しく明滅した。
機兵の動きが止まる。
一瞬。
「ノクス!」
「はいよ!」
ノクスが瓦礫を蹴った。
真正面からは行かない。
機兵の視界から外れるように側面へ回り、膝裏の関節へ双短剣を叩き込む。
キィン!
火花。
刃が弾かれた。
「硬っ!」
光帯が動く。
ノクスを捉えた。
巨腕が横へ振られる。
「ノクス!」
リオンの声。
だが、ノクスはすでに動いていた。
身を低くして腕の下へ潜り込み、そのまま瓦礫の陰へ転がる。
巨腕が崩れかけた石壁へ叩きつけられた。
石片が弾ける。
「生きてる!」
「ならいい」
リオンの声は変わらない。
アルマが矢をつがえる。
「核の反応、雷撃の直後だけ鈍る!」
矢が飛ぶ。
青白い核の縁へ命中。
火花が散った。
アルマの目が細くなる。
「でも復帰が速すぎる。古代型の反応じゃない」
「どういうこと?」
セラが聞く。
「誰かが手を入れてる可能性がある」
「誰が?」
「あと!」
ヴェルナが再び杖を構えた。
「今考えてる暇ない!」
守護機兵が身体の向きを変えた。
今度はグラードではない。
後衛。
ヴェルナとアルマ。
その間にいるセラ。
「行かせるか」
グラードが踏み込む。
だが。
身体が重い。
一瞬だけ遅れた。
その横を、リオンが抜けた。
大げさな構えはない。
剣の柄に触れたまま、機兵との間合いへ入る。
一歩。
いや。
半歩。
呼吸が消える。
抜刀は最小。
振りも最小。
刃が走った。
音はなかった。
機兵の右腕が、一拍遅れてずれた。
落ちる。
ガラン――!
石と金属の腕が街路へ転がった。
ノクスが目を見開いた。
「……音、しなかったぞ」
アルマが小さく息を吐く。
「《無音一閃流》」
リオンは刃についた微かな粉塵を払い、静かに納めた。
「――零に帰す」
だが。
機兵は止まらなかった。
片腕を失ったまま、後衛へ向かう。
「まだ動く!」
セラの声が響いた。
グラードは盾を握り直す。
左腕が痛む。
呼吸も重い。
《鎮怒》が、身体の奥に沈んでいる。
リオンが振り返らずに言った。
「今日は俺が線を引くと言った」
「分かってる」
「なら休め」
「だが、あいつはお前を抜ける」
「抜かせない」
「万一がある」
リオンが、ほんの少しだけ声を低くした。
「お前な」
グラードは答えなかった。
機兵を見る。
その向こうに、仲間がいる。
胸の奥で熱が生まれた。
怒り。
だが、目の前の機兵を憎んでいるわけではない。
壊したいわけでもない。
ただ。
失いたくない。
それだけだった。
盾を持ち上げる。
セラが気づいた。
「グラード、駄目!」
「……まだいける」
「いけるかどうかじゃない!」
グラードは答えなかった。
機兵が踏み込む。
グラードも出る。
今度は盾を傾けない。
真正面。
受ける。
――木盾が砕けた。
また、あの日の音がした。
燃える村。
幼い自分。
腕から血を流し、それでも立っている。
背中には、泣いている子供たち。
そして。
そっと、背中へ手が触れた。
粗い布を巻いた手だった。
村で一番年老いた、物静かなオーガの女。
「お前は、守る子だね」
穏やかな声だった。
だが、その言葉は鋼のように胸へ残った。
幼いグラードは振り返らない。
前だけを見た。
再び傭兵が剣を上げる。
盾はもう、半分しか残っていない。
怖い。
痛い。
逃げたい。
それでも。
背中には、守るものがいる。
幼いグラードは盾の残骸を握り締めた。
「ここは――」
現在。
守護機兵の拳が迫る。
グラードはタワーシールドを石床へ食い込ませた。
左足を引かない。
腰を落とす。
背中から脚までを一本の支柱にする。
光が走った。
盾。
鎧。
そしてメイスへ。
胸の奥に沈んでいた熱が、爆発するのではなく、身体の中心へ集まっていく。
敵を壊すためではない。
背後へ届かせないために。
「――《憤怒護界》」
光が爆ぜた。
守護機兵の拳が盾へ激突する。
轟音。
砂塵が舞う。
石床が砕ける。
だが。
今度は退かない。
一歩も。
グラードの奥で、幼い声と現在の声が重なった。
「ここは――通さない!」
盾を押し出す。
機兵の上体がわずかに浮いた。
それだけでいい。
右足を踏み込む。
腰を回す。
メイスを大きく振りかぶらない。
近すぎる。
ここでは、それでは遅い。
肘を畳み、肩を引く。
機兵の胸部が開いた瞬間。
足から生まれた力を腰へ通し、背中から肩、腕へ。
全身の重量を短い軌道へ乗せる。
特注メイスが胸部へ叩き込まれた。
轟音。
青白い魔力核に亀裂が走る。
「今!」
アルマの声。
矢が飛ぶ。
亀裂へ突き刺さる。
ノクスが死角から滑り込み、先ほど弾かれた関節ではなく、破損した装甲の隙間へ刃を差し込んだ。
ヴェルナの杖が輝く。
「もう一発――《穿雷》!」
雷撃。
核の光が大きく揺らぐ。
最後にリオンが入った。
半歩。
一閃。
亀裂が走った。
そして。
青白い光が砕けた。
守護機兵の巨体が傾く。
「右へ!」
アルマが叫ぶ。
グラードは盾を引き、倒れてくる機兵と仲間の間へ入った。
巨体の進路を盾の縁でずらす。
機兵は六人から外れた場所へ倒れ込んだ。
轟音が遺跡を揺らす。
砂埃が噴き上がった。
それきり。
動かない。
静寂が戻った。
グラードの盾に浮かんでいた光が、ゆっくり薄れていく。
胸の奥にあった熱も沈んだ。
代わりに。
重い。
身体そのものが地面へ引かれるような感覚が襲ってきた。
「……っ」
膝が揺れた。
《鎮怒》。
今度は、先ほどより深い。
セラがすぐに駆け寄る。
「だから言ったでしょう!」
グラードは盾を杖代わりにして、どうにか立ったまま息を整えた。
「……倒れてない」
「そういう問題じゃない!」
「問題だろ」
「違う!」
怒られた。
グラードは黙った。
ノクスが背後へ回り、さりげなく身体を支えられる位置へ入る。
「背中、任せろ」
「……すまん」
「そういう時くらい、素直でいいって」
その間に、アルマは倒れた守護機兵の胸部へ近づいていた。
砕けた魔力核の欠片を拾い上げる。
淡い青白い光が、内部でまだ弱く明滅している。
ヴェルナも横から覗き込んだ。
「どう?」
アルマは答えない。
欠片を裏返す。
表面に刻まれた細かな術式を追う。
やがて、その表情が変わった。
「……おかしい」
リオンが振り向く。
「何がだ」
「起動条件が書き換えられてる」
ヴェルナの表情から、先ほどまでの軽さが消えた。
アルマが欠片を示す。
「元の防衛命令の上に、別の命令が重ねられてる。自然に壊れたんじゃない」
「つまり」
ヴェルナが低く言う。
「誰かがここを、現役の罠に戻してる」
風が通り抜けた。
古代文字の刻まれた壁面から、また低い唸りが響く。
リオンの手が剣の柄へ戻った。
「敵がいる」
「いる」
アルマが頷く。
「しかも、ここへ来た痕跡が新しい」
グラードは息を整えながら、先ほどノクスが見つけた人間の足跡を見た。
あれは過去のものではない。
誰かが。
この遺跡にいる。
そのとき。
遺跡の奥で、地面が鳴った。
ゴゴ……。
一度。
間を置いて。
ゴゴゴゴ……。
今度は複数の音が重なっていた。
ノクスの耳が立つ。
笑みが消える。
「……一体じゃない」
全員が奥を見る。
「三」
ノクスが耳を澄ませる。
「いや。もっといる」
セラが青ざめた。
「さっきので終わりじゃないの……?」
ヴェルナが乾いた笑いを漏らす。
「古代遺跡って、そういうところよね」
「嬉しそうに言うなよ」
「嬉しくないわよ」
街路の奥。
崩れた建物の向こうで、青白い光が一つ灯った。
さらに一つ。
その奥にも。
魔力核。
守護機兵が、次々と起動している。
グラードは盾を持ち上げようとした。
腕が動かない。
いや。
動く。
だが、遅い。
《鎮怒》が深すぎる。
それでも、前へ出ようとする。
一歩。
その前を。
誰かが横切った。
リオンだった。
剣士はグラードより半歩。
そして、もう半歩前へ出た。
完全に。
グラードの前へ。
「お前は息を整えろ」
グラードは何も言わない。
リオンは振り返らない。
ただ、剣へ手を添えている。
「線は俺が引く」
奥から重い足音が近づく。
一つではない。
石床を踏むたび、遺跡全体が低く震える。
リオンの背中を、グラードは見ていた。
いつも。
自分が仲間へ向けてきた背中。
燃える村で。
幼い自分が、子供たちへ向けていた背中。
あの日。
老婆の手が置かれた場所に、遠い熱が残っている気がした。
守るために、立つ。
守るために、退かない。
それだけだと思っていた。
だが。
今、自分の前には別の背中がある。
リオンが静かに言った。
「――次は守る番だ」
グラードはしばらく、その背中を見ていた。
盾を握る手から、ゆっくり力を抜く。
そして。
「……頼む」
短い言葉だった。
それで十分だった。




