第1話 憤怒の守護者
――振り返らない背中が、戦場を支配する。
砂塵が、まだ止まなかった。
崩れ落ちた城壁の石片が風に舞い、焦げた鉄の匂いが喉の奥を焼く。瓦礫の隙間から立ち上る煙は灰色の幕となり、戦場の輪郭を曖昧にしていた。
城壁は中央から大きく崩れ、その破片が内側へ扇状に散らばっている。
かつて門へ続いていた石畳は、半分以上が瓦礫に埋もれていた。左手には倒壊した見張り塔。右手には屋根を失った石造りの兵舎。その間に残された道幅は広くない。
六人がいるのは、そのさらに奥だった。
退路として使えそうな路地は一本。
そこを抜ければ、負傷者たちが退避した広場へ続く。
だから――
ここを抜かせるわけにはいかなかった。
その中心に、一人の男が立っていた。
角を持つ褐色のオーガ。
グラード・ヴァルグリム。
砕けかけた金属鎧。
無数の傷が刻まれた大盾。
刃こぼれだらけの大型メイス。
どれもが、この場所で繰り広げられた戦いの苛烈さを物語っている。
鎧の亀裂からはまだ血がにじんでいた。
盾の表面には深い切創と、槌で何度も叩かれたような凹みが残っている。
それでも、グラードは倒れなかった。
背後では五人の仲間が息を整えている。
セラフィナは聖印を握りしめ、治癒術を繰り返したことで肩を上下させていた。
アルマの矢筒には、もう数えるほどしか矢が残っていない。
ヴェルナの杖を走っていた魔力光も弱い。
瓦礫の影に身を潜めたノクスだけが、まだ周囲を探る余裕を残している。
そしてリオンは、剣を抜いたままグラードの斜め後ろに立っていた。
誰も声を出さない。
その必要がなかった。
目の前の背中が、すべてを語っていたからだ。
――ここは通さない。
ただそれだけの意志が、敵と仲間の間に一本の境界を作っている。
正面。
黒鉄の兜を被った兵が十数人。
その後方には槍兵。
さらに左手の瓦礫の陰にも、人影が見えた。
敵はただ正面から押しているわけではない。
中央でグラードを固定し、その間に左右から回り込むつもりなのだ。
ノクスの耳がぴくりと動いた。
「左、四」
短い声。
アルマがすぐに弓を向ける。
「見えてる」
右側ではヴェルナが杖を持ち上げた。
崩れかけた壁の根元に魔力が走る。
「右は塞ぐわ」
直後。
兵舎跡の石壁が崩れ、進路へ瓦礫が雪崩れ込んだ。
敵兵の足が止まる。
正面だけが残った。
その瞬間を待っていたように、重装歩兵が前へ出る。
盾を並べた三人。
その後ろに槍兵。
「……冗談だろ……」
敵兵の一人が呟いた。
グラードには、男が唾を飲み込む音まで聞こえた。
恐怖の音だった。
彼はわずかに口角を上げる。
「冗談じゃない」
大盾を地面へ落とした。
ガン、と鈍い音が戦場へ響く。
「――終わりにする」
重装歩兵が走った。
三枚の盾が横に並ぶ。
勢いのまま押し潰すつもりだ。
グラードは正面から受けなかった。
左足を半歩だけ引く。
腰を落とす。
重心を右へ。
大盾の面をわずかに傾ける。
最初の盾がぶつかった。
激しい衝撃。
だが、真正面ではない。
敵兵の勢いは盾の表面を滑り、その身体がグラードの左側へ流れた。
そこへメイスを振る。
大きくは振りかぶらない。
肩を回す。
肘を畳む。
短い軌道。
鉄塊が、敵兵の脇腹へ叩き込まれた。
鈍い音。
一人。
だが、すぐに二人目が来る。
今度は盾ではない。
盾の陰から槍が伸びる。
グラードは大盾の上端を持ち上げ、穂先を下から弾いた。
軌道が逸れる。
そのまま盾の縁を敵兵の肩へ押し当てる。
一歩。
踏み込む。
体重を乗せる。
敵兵が後方へよろめいた。
その隙間へリオンが入る。
剣が一閃。
だが敵を追わない。
すぐにグラードの後ろへ戻る。
役割を分かっている。
「前は任せた」
「最初からそのつもりだ」
短い会話。
右側で魔術音。
左では弦の弾ける音。
六人はそれぞれの場所で戦っている。
だが、敵の数は減らない。
崩れた門の外側から、さらに兵が入ってくる。
アルマが矢を放つ。
一人。
二人。
三本目を番えたところで、指が止まった。
「残り四」
「温存して」
セラが言う。
その声は疲れていた。
敵側も、それを見逃さない。
槍兵が前へ出た。
十本近い穂先が一斉に上がる。
狙っているのはグラードではない。
その後ろ。
セラ。
ヴェルナ。
アルマ。
「伏せろ!」
グラードが叫んだ。
槍が放たれる。
空気を裂く金属の雨。
彼は一歩前へ出た。
盾を上げる。
腕を捻る。
面で止めるのではなく、わずかに角度をつけて受ける。
一本。
二本。
三本。
穂先が火花を散らしながら外へ流れる。
だが、すべては流せない。
一本が盾へ突き刺さった。
衝撃が左肩まで抜ける。
二本目。
三本目。
金属音が重なる。
「……くっ」
膝が沈んだ。
左腕の感覚が薄い。
鎧の亀裂から流れた血が、腹のあたりまで伝っている。
それでも。
退かない。
一歩も。
「こいつ……まだ……!」
敵兵の声。
当然だ。
これだけの傷を負えば、立っていること自体がおかしい。
異常でいい。
グラードは思った。
守ると決めた。
それだけでいい。
「グラード! もう――!」
セラの声。
止めたい。
助けたい。
これ以上傷ついてほしくない。
全部が混ざっている。
だが、グラードは振り返らない。
「……黙って、背中を預けろ」
一言。
それだけで背後の空気が変わった。
セラが息を止める。
リオンが剣を握り直す。
ノクスの耳が再び左右へ動く。
アルマが最後の矢を数える。
ヴェルナが杖を立て直す。
誰も下がらない。
敵の重装歩兵が再び前へ出た。
今度は五人。
盾を重ねる。
後ろには槍。
左右の迂回路も、再び敵兵が瓦礫を越え始めている。
グラードは周囲を見る。
正面。
左。
右。
味方。
残りの距離。
背後の路地。
もう、一つずつ潰している時間はない。
メイスを握り直した。
手のひらが滑る。
血か。
汗か。
分からない。
深く息を吸う。
肺が焼ける。
足が震える。
視界の端が暗くなる。
限界だった。
ならば。
限界の、その向こうへ。
「……《憤怒護界》」
呟いた瞬間。
世界が一拍、静止した。
心臓の音だけが響く。
ドン。
ドン。
胸の奥から熱が湧き上がる。
それは敵への憎しみではない。
失いたくない。
ただ、それだけだった。
背後にいる五人が。
この先に逃げた人々が。
明日も生きていられるように。
奪わせない。
青白い光が、身体の奥から噴き上がった。
盾に光の筋が走る。
メイスへ闘気が集束する。
二本の角の先端が淡く輝き、周囲の砂塵が震えた。
敵兵たちが止まる。
「……なんだ……?」
誰かが武器を落とした。
「魔術じゃない……」
「身体強化でも……」
そうだ。
どれでもない。
グラード自身にも、これが何なのかを正確には説明できない。
ただ一つ。
分かっている。
守るための力だ。
「――行くぞ」
踏み込む。
今度は流さない。
大盾を真正面へ。
敵の盾とぶつかる。
地面が沈む。
一歩。
押す。
重装歩兵の足が滑る。
さらに一歩。
隊列が崩れる。
その瞬間。
グラードは上半身を捻った。
メイスを後方へ引く。
腰。
肩。
肘。
全身の力を一本の軌道へ乗せる。
振り抜いた。
衝撃が爆ぜた。
空気が震える。
瓦礫が跳ね上がる。
黒鉄の隊列が横から押し潰されたように崩れた。
正面が開く。
「今!」
グラードが叫ぶ。
アルマの矢。
ヴェルナの術式。
ノクスが影から飛び出す。
リオンの剣。
五人の攻撃が一斉に走る。
敵の残存兵が崩れた。
静寂。
遅れて、金属片が地面へ落ちる。
一つ。
また一つ。
戦いは終わった。
グラードは息を吐こうとした。
吐けなかった。
青白い光が消える。
身体の奥に押し込めていた痛みが一気に戻ってきた。
指から力が抜ける。
メイスが石畳へ落ちる。
膝が崩れた。
《鎮怒》。
《憤怒護界》の反動。
「グラード!」
今度は五人全員が動いた。
セラが真っ先に駆け寄る。
リオンが倒れる身体を肩で受ける。
「……バカ!」
セラの声が震えていた。
聖印から治癒の光が広がる。
「なんでいつも、限界まで――!」
「……悪い」
「謝らないで」
即答だった。
「謝るくらいなら、次は止まって」
グラードは返事をしなかった。
できなかった。
仲間たちは、崩れた石壁の陰へ彼を運んだ。
簡易の陣。
セラが治療。
ノクスは瓦礫の高所へ。
アルマは折れた槍を拾い、残留魔力を調べる。
ヴェルナは地面に残る光の痕跡を指でなぞった。
リオンだけが、グラードの前に立っていた。
一歩。
ほんの一歩。
だが。
これまでずっと仲間に背中を見せてきたグラードにとって、その位置は妙に遠く見えた。
「……妙ね」
ヴェルナが呟く。
アルマが顔を上げる。
「何が?」
「さっきの力。魔力じゃない」
アルマは槍の破片へ視線を落とす。
「鑑定でも測れない。……現象に近い」
グラードは自分の手を見る。
まだ震えている。
《憤怒護界》。
名前だけは知っている。
だが。
何なのかは分からない。
そのとき。
瓦礫の向こうで石が転がった。
カラン。
ノクスの耳が立つ。
「三人」
アルマが弓を上げる。
ヴェルナが杖を構える。
崩れた城壁の影から、三人の敵兵が現れた。
傷ついている。
ふらついている。
それでも武器は持っている。
グラードが盾へ手を伸ばす。
「動くな」
リオンだった。
「まだ――」
「前は俺が預かる」
一歩。
リオンが進む。
グラードの視界へ、その背中が入る。
妙な感覚だった。
いつも。
自分が見せていたもの。
今は。
自分が見ている。
敵兵が走る。
リオンは大きく構えない。
腰を落とす。
剣を鞘から半分だけ抜く。
呼吸を止める。
半歩。
踏み込む。
剣光。
次の瞬間。
三人の敵兵が、その場へ膝をついた。
鎧だけが静かに割れる。
リオンは剣を納めた。
「――零に帰す」
ヴェルナが目を細める。
アルマも短く息を吐いた。
「……ただの剣じゃない」
グラードは笑った。
「……やるじゃないか」
「お前が休む間、前は俺が預かると言っただろう」
リオンは振り返らなかった。
グラードはしばらく、その背中を見ていた。
悪くない。
誰かの背中を見るというのも。
やがて。
空が白み始めた。
朝の光が崩れた城壁から差し込み、灰色だった瓦礫へ少しずつ色を戻していく。
焦げた鉄。
血。
砂埃。
その匂いの中に、朝の冷たい風が混じった。
セラがグラードの脈を取る。
「峠は越えた。無理しなければ動ける」
「そうか」
グラードが盾へ手を伸ばす。
その手をセラが叩いた。
「無理しなければって言った」
「まだ何もしてない」
「しようとした」
「……よく見てるな」
「ずっと見てきたから」
返す言葉がなかった。
そのとき。
ノクスが顔を上げる。
「誰か来る」
今度の足音は一つ。
軽い鎧。
敵ではない。
崩れた城壁の向こうから、紋章入りのマントを纏った男が現れた。
冒険者ギルドの使者だった。
男は周囲を見渡した。
倒れた敵兵。
崩れた城壁。
傷だらけの六人。
一瞬。
言葉を失う。
やがてグラードを見つけると、深く頭を下げた。
「生存者を確認しました。……《憤怒の守護者》のパーティですね?」
グラードの眉が動いた。
誰が付けた呼び名か。
どうでもいい。
「救援に感謝します。そして――」
使者が顔を上げる。
「新たな依頼があります」
リオンが振り返った。
「今、この状態を見て言っているのか?」
「緊急案件です」
空気が変わる。
ヴェルナが杖を下ろした。
アルマも弓から手を離す。
グラードが問う。
「場所は?」
使者は一瞬だけ言葉を選んだ。
「南の遺跡都市――《眠る巨壁》」
ヴェルナの目が細くなる。
「古代防衛機構が残る場所ね」
「調査隊の護衛をお願いしたい」
「危険度は?」
「高いです」
「報酬は?」
「それに見合う額を」
ノクスが小さく笑う。
「怪しい依頼」
「いつものことだろ」
リオンが返す。
セラだけはグラードを見ていた。
五人の視線が集まる。
グラードは息を吐いた。
身体は重い。
傷も残っている。
それでも。
「その調査隊には、守る必要があるんだな?」
使者が頷く。
「はい」
グラードは大盾へ手を置いた。
「なら、行く」
「グラード」
セラの声。
「今すぐとは言ってない」
「……ならいい」
「怖いな」
「誰のせい?」
小さな笑いが起きた。
ほんの一瞬。
戦場だった場所に、六人のいつもの空気が戻る。
朝焼けが、グラードの角と傷だらけの鎧を照らしていた。
彼は立ち上がる。
今度は、一人ではない。
六つの影が朝日に長く伸びていく。
グラードは前を向く。
その少し前を、リオンが歩いていた。
振り返らない背中を、グラードはしばらく眺めた。
それから。
小さく笑って歩き出した。




