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憤怒を背負う者  作者: 縁側×野良猫


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1/10

第1話 憤怒の守護者

――振り返らない背中が、戦場を支配する。


砂塵が、まだ止まなかった。


崩れ落ちた城壁の石片が風に舞い、焦げた鉄の匂いが喉の奥を焼く。瓦礫の隙間から立ち上る煙は灰色の幕となり、戦場の輪郭を曖昧にしていた。


城壁は中央から大きく崩れ、その破片が内側へ扇状に散らばっている。


かつて門へ続いていた石畳は、半分以上が瓦礫に埋もれていた。左手には倒壊した見張り塔。右手には屋根を失った石造りの兵舎。その間に残された道幅は広くない。


六人がいるのは、そのさらに奥だった。


退路として使えそうな路地は一本。


そこを抜ければ、負傷者たちが退避した広場へ続く。


だから――


ここを抜かせるわけにはいかなかった。


その中心に、一人の男が立っていた。


角を持つ褐色のオーガ。


グラード・ヴァルグリム。


砕けかけた金属鎧。


無数の傷が刻まれた大盾。


刃こぼれだらけの大型メイス。


どれもが、この場所で繰り広げられた戦いの苛烈さを物語っている。


鎧の亀裂からはまだ血がにじんでいた。


盾の表面には深い切創と、槌で何度も叩かれたような凹みが残っている。


それでも、グラードは倒れなかった。


背後では五人の仲間が息を整えている。


セラフィナは聖印を握りしめ、治癒術を繰り返したことで肩を上下させていた。


アルマの矢筒には、もう数えるほどしか矢が残っていない。


ヴェルナの杖を走っていた魔力光も弱い。


瓦礫の影に身を潜めたノクスだけが、まだ周囲を探る余裕を残している。


そしてリオンは、剣を抜いたままグラードの斜め後ろに立っていた。


誰も声を出さない。


その必要がなかった。


目の前の背中が、すべてを語っていたからだ。


――ここは通さない。


ただそれだけの意志が、敵と仲間の間に一本の境界を作っている。


正面。


黒鉄の兜を被った兵が十数人。


その後方には槍兵。


さらに左手の瓦礫の陰にも、人影が見えた。


敵はただ正面から押しているわけではない。


中央でグラードを固定し、その間に左右から回り込むつもりなのだ。


ノクスの耳がぴくりと動いた。


「左、四」


短い声。


アルマがすぐに弓を向ける。


「見えてる」


右側ではヴェルナが杖を持ち上げた。


崩れかけた壁の根元に魔力が走る。


「右は塞ぐわ」


直後。


兵舎跡の石壁が崩れ、進路へ瓦礫が雪崩れ込んだ。


敵兵の足が止まる。


正面だけが残った。


その瞬間を待っていたように、重装歩兵が前へ出る。


盾を並べた三人。


その後ろに槍兵。


「……冗談だろ……」


敵兵の一人が呟いた。


グラードには、男が唾を飲み込む音まで聞こえた。


恐怖の音だった。


彼はわずかに口角を上げる。


「冗談じゃない」


大盾を地面へ落とした。


ガン、と鈍い音が戦場へ響く。


「――終わりにする」


重装歩兵が走った。


三枚の盾が横に並ぶ。


勢いのまま押し潰すつもりだ。


グラードは正面から受けなかった。


左足を半歩だけ引く。


腰を落とす。


重心を右へ。


大盾の面をわずかに傾ける。


最初の盾がぶつかった。


激しい衝撃。


だが、真正面ではない。


敵兵の勢いは盾の表面を滑り、その身体がグラードの左側へ流れた。


そこへメイスを振る。


大きくは振りかぶらない。


肩を回す。


肘を畳む。


短い軌道。


鉄塊が、敵兵の脇腹へ叩き込まれた。


鈍い音。


一人。


だが、すぐに二人目が来る。


今度は盾ではない。


盾の陰から槍が伸びる。


グラードは大盾の上端を持ち上げ、穂先を下から弾いた。


軌道が逸れる。


そのまま盾の縁を敵兵の肩へ押し当てる。


一歩。


踏み込む。


体重を乗せる。


敵兵が後方へよろめいた。


その隙間へリオンが入る。


剣が一閃。


だが敵を追わない。


すぐにグラードの後ろへ戻る。


役割を分かっている。


「前は任せた」


「最初からそのつもりだ」


短い会話。


右側で魔術音。


左では弦の弾ける音。


六人はそれぞれの場所で戦っている。


だが、敵の数は減らない。


崩れた門の外側から、さらに兵が入ってくる。


アルマが矢を放つ。


一人。


二人。


三本目を番えたところで、指が止まった。


「残り四」


「温存して」


セラが言う。


その声は疲れていた。


敵側も、それを見逃さない。


槍兵が前へ出た。


十本近い穂先が一斉に上がる。


狙っているのはグラードではない。


その後ろ。


セラ。


ヴェルナ。


アルマ。


「伏せろ!」


グラードが叫んだ。


槍が放たれる。


空気を裂く金属の雨。


彼は一歩前へ出た。


盾を上げる。


腕を捻る。


面で止めるのではなく、わずかに角度をつけて受ける。


一本。


二本。


三本。


穂先が火花を散らしながら外へ流れる。


だが、すべては流せない。


一本が盾へ突き刺さった。


衝撃が左肩まで抜ける。


二本目。


三本目。


金属音が重なる。


「……くっ」


膝が沈んだ。


左腕の感覚が薄い。


鎧の亀裂から流れた血が、腹のあたりまで伝っている。


それでも。


退かない。


一歩も。


「こいつ……まだ……!」


敵兵の声。


当然だ。


これだけの傷を負えば、立っていること自体がおかしい。


異常でいい。


グラードは思った。


守ると決めた。


それだけでいい。


「グラード! もう――!」


セラの声。


止めたい。


助けたい。


これ以上傷ついてほしくない。


全部が混ざっている。


だが、グラードは振り返らない。


「……黙って、背中を預けろ」


一言。


それだけで背後の空気が変わった。


セラが息を止める。


リオンが剣を握り直す。


ノクスの耳が再び左右へ動く。


アルマが最後の矢を数える。


ヴェルナが杖を立て直す。


誰も下がらない。


敵の重装歩兵が再び前へ出た。


今度は五人。


盾を重ねる。


後ろには槍。


左右の迂回路も、再び敵兵が瓦礫を越え始めている。


グラードは周囲を見る。


正面。


左。


右。


味方。


残りの距離。


背後の路地。


もう、一つずつ潰している時間はない。


メイスを握り直した。


手のひらが滑る。


血か。


汗か。


分からない。


深く息を吸う。


肺が焼ける。


足が震える。


視界の端が暗くなる。


限界だった。


ならば。


限界の、その向こうへ。


「……《憤怒護界》」


呟いた瞬間。


世界が一拍、静止した。


心臓の音だけが響く。


ドン。


ドン。


胸の奥から熱が湧き上がる。


それは敵への憎しみではない。


失いたくない。


ただ、それだけだった。


背後にいる五人が。


この先に逃げた人々が。


明日も生きていられるように。


奪わせない。


青白い光が、身体の奥から噴き上がった。


盾に光の筋が走る。


メイスへ闘気が集束する。


二本の角の先端が淡く輝き、周囲の砂塵が震えた。


敵兵たちが止まる。


「……なんだ……?」


誰かが武器を落とした。


「魔術じゃない……」


「身体強化でも……」


そうだ。


どれでもない。


グラード自身にも、これが何なのかを正確には説明できない。


ただ一つ。


分かっている。


守るための力だ。


「――行くぞ」


踏み込む。


今度は流さない。


大盾を真正面へ。


敵の盾とぶつかる。


地面が沈む。


一歩。


押す。


重装歩兵の足が滑る。


さらに一歩。


隊列が崩れる。


その瞬間。


グラードは上半身を捻った。


メイスを後方へ引く。


腰。


肩。


肘。


全身の力を一本の軌道へ乗せる。


振り抜いた。


衝撃が爆ぜた。


空気が震える。


瓦礫が跳ね上がる。


黒鉄の隊列が横から押し潰されたように崩れた。


正面が開く。


「今!」


グラードが叫ぶ。


アルマの矢。


ヴェルナの術式。


ノクスが影から飛び出す。


リオンの剣。


五人の攻撃が一斉に走る。


敵の残存兵が崩れた。


静寂。


遅れて、金属片が地面へ落ちる。


一つ。


また一つ。


戦いは終わった。


グラードは息を吐こうとした。


吐けなかった。


青白い光が消える。


身体の奥に押し込めていた痛みが一気に戻ってきた。


指から力が抜ける。


メイスが石畳へ落ちる。


膝が崩れた。


《鎮怒》。


《憤怒護界》の反動。


「グラード!」


今度は五人全員が動いた。


セラが真っ先に駆け寄る。


リオンが倒れる身体を肩で受ける。


「……バカ!」


セラの声が震えていた。


聖印から治癒の光が広がる。


「なんでいつも、限界まで――!」


「……悪い」


「謝らないで」


即答だった。


「謝るくらいなら、次は止まって」


グラードは返事をしなかった。


できなかった。


仲間たちは、崩れた石壁の陰へ彼を運んだ。


簡易の陣。


セラが治療。


ノクスは瓦礫の高所へ。


アルマは折れた槍を拾い、残留魔力を調べる。


ヴェルナは地面に残る光の痕跡を指でなぞった。


リオンだけが、グラードの前に立っていた。


一歩。


ほんの一歩。


だが。


これまでずっと仲間に背中を見せてきたグラードにとって、その位置は妙に遠く見えた。


「……妙ね」


ヴェルナが呟く。


アルマが顔を上げる。


「何が?」


「さっきの力。魔力じゃない」


アルマは槍の破片へ視線を落とす。


「鑑定でも測れない。……現象に近い」


グラードは自分の手を見る。


まだ震えている。


《憤怒護界》。


名前だけは知っている。


だが。


何なのかは分からない。


そのとき。


瓦礫の向こうで石が転がった。


カラン。


ノクスの耳が立つ。


「三人」


アルマが弓を上げる。


ヴェルナが杖を構える。


崩れた城壁の影から、三人の敵兵が現れた。


傷ついている。


ふらついている。


それでも武器は持っている。


グラードが盾へ手を伸ばす。


「動くな」


リオンだった。


「まだ――」


「前は俺が預かる」


一歩。


リオンが進む。


グラードの視界へ、その背中が入る。


妙な感覚だった。


いつも。


自分が見せていたもの。


今は。


自分が見ている。


敵兵が走る。


リオンは大きく構えない。


腰を落とす。


剣を鞘から半分だけ抜く。


呼吸を止める。


半歩。


踏み込む。


剣光。


次の瞬間。


三人の敵兵が、その場へ膝をついた。


鎧だけが静かに割れる。


リオンは剣を納めた。


「――零に帰す」


ヴェルナが目を細める。


アルマも短く息を吐いた。


「……ただの剣じゃない」


グラードは笑った。


「……やるじゃないか」


「お前が休む間、前は俺が預かると言っただろう」


リオンは振り返らなかった。


グラードはしばらく、その背中を見ていた。


悪くない。


誰かの背中を見るというのも。


やがて。


空が白み始めた。


朝の光が崩れた城壁から差し込み、灰色だった瓦礫へ少しずつ色を戻していく。


焦げた鉄。


血。


砂埃。


その匂いの中に、朝の冷たい風が混じった。


セラがグラードの脈を取る。


「峠は越えた。無理しなければ動ける」


「そうか」


グラードが盾へ手を伸ばす。


その手をセラが叩いた。


「無理しなければって言った」


「まだ何もしてない」


「しようとした」


「……よく見てるな」


「ずっと見てきたから」


返す言葉がなかった。


そのとき。


ノクスが顔を上げる。


「誰か来る」


今度の足音は一つ。


軽い鎧。


敵ではない。


崩れた城壁の向こうから、紋章入りのマントを纏った男が現れた。


冒険者ギルドの使者だった。


男は周囲を見渡した。


倒れた敵兵。


崩れた城壁。


傷だらけの六人。


一瞬。


言葉を失う。


やがてグラードを見つけると、深く頭を下げた。


「生存者を確認しました。……《憤怒の守護者》のパーティですね?」


グラードの眉が動いた。


誰が付けた呼び名か。


どうでもいい。


「救援に感謝します。そして――」


使者が顔を上げる。


「新たな依頼があります」


リオンが振り返った。


「今、この状態を見て言っているのか?」


「緊急案件です」


空気が変わる。


ヴェルナが杖を下ろした。


アルマも弓から手を離す。


グラードが問う。


「場所は?」


使者は一瞬だけ言葉を選んだ。


「南の遺跡都市――《眠る巨壁》」


ヴェルナの目が細くなる。


「古代防衛機構が残る場所ね」


「調査隊の護衛をお願いしたい」


「危険度は?」


「高いです」


「報酬は?」


「それに見合う額を」


ノクスが小さく笑う。


「怪しい依頼」


「いつものことだろ」


リオンが返す。


セラだけはグラードを見ていた。


五人の視線が集まる。


グラードは息を吐いた。


身体は重い。


傷も残っている。


それでも。


「その調査隊には、守る必要があるんだな?」


使者が頷く。


「はい」


グラードは大盾へ手を置いた。


「なら、行く」


「グラード」


セラの声。


「今すぐとは言ってない」


「……ならいい」


「怖いな」


「誰のせい?」


小さな笑いが起きた。


ほんの一瞬。


戦場だった場所に、六人のいつもの空気が戻る。


朝焼けが、グラードの角と傷だらけの鎧を照らしていた。


彼は立ち上がる。


今度は、一人ではない。


六つの影が朝日に長く伸びていく。


グラードは前を向く。


その少し前を、リオンが歩いていた。


振り返らない背中を、グラードはしばらく眺めた。


それから。


小さく笑って歩き出した。


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