6. シルベ
濁った空気。
野卑な声に、下卑た口調。見るもの全てが汚らしくて、今にも発狂したくなる息苦しい雰囲気だ。
狭い箱の中に呼吸もままならず放り込まれる。
筆舌に尽くしがたい屈辱と不愉快。
まだ豚箱の方がマシだろう。
普段なら、とっとと回れ右がしたくて吟味する余裕なく依頼を決める。
その足でカウンターまで向かって受諾してもらう。
わたしを舐めまわすように嬲る視線は無視して、気の一つも振りまくことなく足早に去る。
それが日常で、浸食された価値観だった。
けれど、その日は違った。
何の変哲もない一日で、先見の明や過度な予感ではないけれど。だからこそ、異質さは際立って見えるものだ。
併設された酒場の一席で不機嫌を隠そうともせずに眉を顰めて座る男性。
思わず悲鳴を噛み殺してしまう程に凶悪な面持ちに、飢えたモンスターですらたじろぐであろう狂暴な眼光。
魔獣の皮だろうか、とても頑丈そうなデニム生地のジーンズに、登山靴にも見えるゴツゴツとしたブーツのような靴。
真冬の吹雪すら防寒できるだろう、一目で高価だと分かる純白のジャケット。
まったく周囲の空気へ合致していない異様な存在。
怖ろしい人相や、鍛え上げられた肉体、隙のない空気。そのどれでもない。
衆人監査の中に猛獣を放り投げたかのような。
異質で、異形。変異。
端倪すべからざる存在であることだけは、確か。
そんな男性に、耳目を集める彼に。
わたしは、思わず──
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木を隠すなら森へ。
紛れたいのならば人込み、群衆へ。
オレは半ば本能的に人でごった返していた酒場へと非難した。
空席に腰を下ろし、一息。
誤算が二つ。
一つ目は年月だ。
確かに、容易だとは思わなかった。そもそも脱出できるかすら半信半疑だったのだ。
だが、それにしても。
「五年か……早い方だろうな」
統一帝国歴千九百七十六年。オレが彷徨龍とダンスを踊っていた時から、既に五年も経過していた。
最短距離で、最速で地下を踏破したと思った。
いや、これは自負だ。
時には彷徨龍と同程度のモンスターや魔獣──というか、何匹かは地下の主みたいな連中だった。泣きたくなるくらいに強くて、悪態を吐きながら戦ったのはいい思い出だ──を片っ端から殺し、始末し、足蹴にしてきた。
所謂、地下迷宮、ダンジョンとかいう代物なのだろう。地上へ上がるにつれて、魔獣やモンスターの強さは徐々に下がっていった。
道中では【権能】によってモンスターの死骸を装備に変えつつ、やっとの思いで地上に帰ってこれたのだ。
良い経験にはなったと思う。
彷徨龍を嵌め殺しにして命からがら勝利したオレは急激にレベルが上がり、【技能】ではなく聞いたこともない『称号』や【権能】とやらを手に入れた。
試運転に始まり、応用方法や限界値など。億を超える戦闘回数から、生まれた瞬間から持っていたように、まるで呼吸動作と変わらない感覚で扱えるようになった。
かけた時間は五年。
ああ、理想的とも言えよう。
地上に戻れただけで僥倖と言える。
故に、問題は二つ目。
「元ディーリア王国領って……どこだよ」
外界に出られただけで運が良かったと言えよう。
だが、まさか。
ヴァリアス半島から正反対、対極の地へと出るなどとは夢にも思わなかった。
想定すべきだった。都合よくヴァリアス半島の目と鼻の先へと出られる可能性など、天文学的確率だろうに。
とはいえ、まさか南東の地に出るとは。少し歩けば海が一望できる土地。
予想しなかったのではない。考えたくなかった。
地上は障害物が多すぎる。
それに、北方平原を超えてヴァリアス半島へと向かうには、否が応でも帝国領を突っ切る必要がある。
如何に五年の月日が経ったとはいえ、“黒天部隊”を半壊させた国賊を野放しにする程、帝国はぬるくない。
偽名は必須、人目にはつかないように裏を通るべきだろうな。
「はい、兄ちゃん。バナナミルクセーキお待ち」
嘆息交じりに息を吐いたオレの前には、先刻注文したクリームたっぷりのバナナミルクセーキがジャンボサイズで到着した。
「ありがたい。代金は」
「五百エールだよ」
「足りるな」
これで全財産を叩いた計算になるが、仕方ない。
緊急事態を想定してブーツに仕込んでいたなけなしのカネ。一エールは日本円にして一円。五百円相当の貯金を、ありったけミルクセーキに投資した。
「毎度あり、兄ちゃん」
酷くガタイのいい店主へと支払を終え、ストローを指して喉を潤す。
地上に戻って初めての飲食がミルクセーキでいいのかという疑問にはこう答えよう。
いま、オレが最も欲しているのは糖分だ。
割高だろうと、富裕趣味だと詰られようとも構わない。
ましてや、雀の涙すら可愛く見える全財産を叩いてまでもだ。
まだオレが真っ当な学生をしていた頃はMAXコーヒーという練乳入りのドリンクを常飲していたものだ。
つまるところ、オレは根っからの甘党なんだ。
追放の憂き目に遭って、放浪していた頃でさえ蟻のように角砂糖を頬張ってものだ。
それが、息も詰まるような漆黒の世界に閉じ込められて、口にする食事は毎日、魔獣やモンスターの死肉か骨だ。
味気のない生肉を感情を殺しながら食み、ただ生き残るために嚥下してきた。
「…………こいつはいいな。マジで生き残った甲斐がある」
ズズッ──と虚しい音と共に、せり上がってきた中身がなくなった。
口腔を占めるまろやかな口触り。鼻孔まで香る耽美な甘さ。
耽溺のあまりワルツでも弾きかねない昂りだ。
昂揚の極み、至上の喜び、鼓吹の頂点。
今までの苦労が報われた気分だ。
幾許か興奮していた感情が沈静化しているのが分かる。
「とにかく、返ってはこれたんだ。目指すべき場所は変わらない。気落ちしてる暇なんざねえな。一秒でも早くヴァリアス半島へ──」
冷静になったのか、はたまた焦燥が残っていたのか。
されど、目的だけは明確に。椅子から腰を上げかけたオレは、ようやく多方面から敵意を向けられていることに気が付いた。
動揺はなかった。
所詮は人間、それも一般人に毛が生えた程度の脅迫と殺気に怯える程、オレは神経質ではない。
常に命を握られているような、本能を怯懦させるに足る本物の殺気を受け続けた五年間。
想像を超えてオレの神経は図太くなったらしい。
「兄ちゃん、いいもん着てんじゃねえか」
声の主は青年だった。
まるで退路を断つように、オレの背後から接近して左側に腰を下ろした。
黒髪にあどけなさの残る顔立ち。年不相応に高価な装備が嫌に目を引くが。
暴威の纏い方は素人同然だった。
彼を除いて四人。
背後に二人と、右側に二人。
まるで囲い漁でもするような恰好で、にやにやと不快を感じさせる笑みを張り付けて害意を隠そうとしていない。
「なあ、聞いてんのか?」
聞くに堪えないとはこのことだ。
やすりで金属を削るような、不協和音が神経を逆撫でにする。
「悪いがオレは先を急ぐ。カツアゲなら他を当たってくれ」
「そうはいかねえ。ここは俺たちのシマでな…………騒ぎの慰謝料くらい払ってもらわねえと」
「騒々しいのはあんたらだろう」
「いや、てめえだよ。んな良い装備見せびらかしちまってよ」
好奇、興奮、興味。
まるで囃し立てるように野次が飛ぶ。
成程、縄張りを主張する狗程度の実績はあるようだ。
ここの酒場全体を仕切っているのは目の前の青年で、嘲笑を浮かべているのは彼を崇拝する連中だろう。
ミルクセーキの店主や、一部の客層からは顰蹙を買っているようにも思える。
だが、静止はしない。
不満は抱くが、声には出さない。
「黙っちゃってよ。兄ちゃん、何なら一発殴ってみるか?」
単純に、邪魔だな。
どうせ“黒天部隊”を謀殺してるんだ。ここで五人分の死体を増やしたところで悪評の足しにもならないだろう。
五人分の命と、ここで無為な足止めを喰らう必要性。
天秤にかけるまでもない。
さっさと殺してヴァリアス半島へ向かおう。
半ば諦観を交えて、されど手の内を明かす危険性だけは考慮して。
ジャケットで隠しつつ【模倣複製】をもってナイフを生成したところで──
「そこまでにしなさい!」
快活で、空間全体へと通る声音が反響した。
人の波を割って表れたのは、少女だった。
流れるような黒髪を長髪で流し、ワンピースタイプのバトルドレスに身を包んでいる。
陶器のように滑らかな白い肩からは華奢な身体のラインがよく分かる。
不愛想に表情を歪めてはいるが、端正な顔立ちであることは確かだ。
迷いなくカツカツと足音を鳴らし、まるでオレを護るように立ちはだかった少女。
「難癖付けるだけつけて、騒ぎを起こしているのはあなたたちの方よ!」
歯に衣着せぬ物言いとは、彼女の声音を指すのだろう。
翻って、悠然としていた五人組は、鳴りを潜めるように沈黙した。
両者の関係性から、オレは何事もなかったかのように。
ナイフを仕舞った。
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迷惑をかけた謝罪よ、と吐き捨てて黒髪の彼女はバナナミルクセーキを追加注文してくれた。
精悍な眼差しに、瞳の奥に光る思慮深い底知れない闇。利発で賢明。
十把ひとからげとは言えない、美貌は触れる者全てを傷つけるような切れ味を思わせる。
ひりつく空気は彼女の纏う毅然とした態度が感じさせるのだろう。
「気を悪くしたのならごめんなさい。増長しているだけなの」
嫌気がさしたように嘆息する少女。
申し訳なさを額面へと押し出した彼女の様子は、身内の恥を晒したような感覚を受ける。
闊達に叫んで彼女によって、五人組は蜘蛛の子を散らすようにすごすごと退散した。
めいめいに悪態を吐いて捨て台詞と共に姿を消したが、誰一人として彼女に手をあげる者はいなかった。
「彼らとは旧知の仲なのか」
甘くとろけるような口触りのバナナミルクセーキを呑み終えたオレは、逡巡の果てに当たり障りのない話題を引き出した。
「パーティメンバーよ。今はね」
「今は、と言ったな。以前は別だったのか」
含みのある言い方に違和感を抱いた。
きっと、人間味のある人物ならば追及を避けるのだろうが、生憎とオレは疎い方の人間だ。
それに、違和感を無視すれば腫れ物と認めてしまうようで気に入らない。
「……あなた、ディーリア地区に来るのは初めて?」
「ああ。訳があってな。流浪の身だ」
「そう。なら教えてあげるわ。帝国は五年に一度、勇者を異世界から召喚しているの」
「勇者……成程な。あんた、異世界人か」
五年に一度のペースならば、オレの後輩にあたる。
帝都からは相当離れた土地であるにも関わらず、どうして元ディーリア王国領まで足を運んでいるのだろうか。
「…………、貴方、賢いのね」
「賞賛と素直に受け取っておこう」
疑問が解消された。
訳知り顔で救いようのない悪ガキを庇うのには、元の世界からのよしみもあるのだろう。
「だが、解せんな。勇者なら不和になるはずもない。あんたも、反則級の【技能】をもらってるんだろ?」
「え、ええ。強力な【技能】をもらったことは幸運だと思うわ」
「天の気まぐれだと?」
「そうでしょう? 後天的に授けられる【技能】には良し悪しがある。わたしのは…………直接戦闘に関する【技能】じゃなかったけど。却って都合が良かったわね」
再び疑問と興味が首をもたげた。
一見すると高校生、いや中学生にすら見える少女は謙虚そのものだ。
同郷の五人とは違い、自らの境遇を俯瞰して機運の一つだと捉えている。
達観とは違う。
大人びている、超然している訳でもない。
「分からんな。普通は平凡な自分から脱却できて喜ぶものじゃないか」
「そうね。わたしも、最初はそうだった。選ばれた、特別だ、そう言われて小躍りしない人はいないわ」
「だが、あんたは違う。射幸心のままにぬか喜びしない」
「隠しているだけかもよ?」
挑戦的、挑発的な視線に敢えて応じる。
いつまでも聞いていたいと願う耳心地の良い声音に、硬いながらもころころと変わる表情、官能的な瞳。
自分の武器を理解している者の動きだ。
だが、詰めが甘い。
ぴっしりと伸びた背筋、時折逸れる視線に、額に浮かぶ冷や汗。
早鐘を打つ脈拍に、じとりと背に流れる脂汗。緊張、緊迫、切迫。
感覚値の上昇のおかげで体温や鼓動、血流から相手の感情が手に取るように分かる。
彼女はいま、焦っている。張り詰めている。
平静を装っているようだが。オレは真意までは読み取れない。
「演技が下手だな。本当に身の程を弁えない愚か者ってのは、弱者を助けたりしない」
「身の程を弁えた愚か者なら、目の前で殺されろうになっている昔馴染みを助けるのかしら?」
「…………、オレから遠ざけたつもりか?」
「貴方、すっごく強いでしょう?」
嘘はない。虚偽のない、偽らざる瞳が目の前にある。
聡明さを思わせる眼差しに、余裕を感じさせる微笑み。
確信があった訳だ。
オレが無闇に、徒に他者へ当たり散らす無頼漢ではないと。
自分の確信に命すらかけられる。
もし、彼女が本当にオレを危険視していたとすれば、猛獣を目前に平静を保っていたこととなる。
「【技能】か」
「それもあるけど。半分は勘よ」
ならば洞察力に優れている上に、論理的に物事を考えられる。
どうして彼女が疎まれて軽んじられているか一層疑問に思う。
勇者の赴く地は総じて危険戦闘域だ。紛争地帯のど真ん中。血と死の最前線。
理知的な彼女ならば引く手あまただろうに。
「その顔、どうして仲間外れかって聞きたいみたいね」
「よく分かったな」
「貴方、分かりやすいわよ。久しぶりに人と喋ったみたい」
「…………強ち間違いじゃないな」
思わず頬を緩めてしまった。
五年もヒト型からかけ離れた連中を相手にしていると腹芸も不得手になるらしい。
これではローズやミカエラを笑えない。
「わたしの【技能】は支援系統なのよ。バフや回復しかできないの」
「生命線だな。何を差し置いても必要な人材だ」
「ぇ……」
「何だ、その腑抜けた面は。兵站と支援は前線を維持するのに必要不可欠だ。あんた勇者何だろう? なら【技能】も優秀だろうに。それに、あんたは利口だ。指揮系統に組み込んでも問題は生じない。喉から手が出る、垂涎の戦士だ」
「え、ぇと…………その、ありがとう…………」
頬を朱に染めて俯いた彼女は、消え入りそうなか細い声音で感謝を口にした。
褒められ慣れていないのだろうか。
ならば、彼女を取り巻く環境は劣悪と言わざるを得ない。尽力を、貢献を当然だと受け取って素知らぬ顔で享受する連中ほど悪辣なものはない。
死に物狂いで、必死に叩き上げた功績を「成して当然だ」と更なる水準の成果を求めるなど愚の骨頂だ。
「事情は分かった。目的は何であれ、あんたは尊い命を救ったんだ」
余人は立ち入れない。
当人を取り成す人間関係は、第三者がずけずけと踏み入っていいものじゃない。
勇者の任から追放されたオレは猶更だ。
立ち上がり、ミルクセーキの礼を言う。
それで終わりだ。
彼女との邂逅は実に魅力的で愉快だった。
一言二言別れの言葉を交わしてさよならだろうと思っていたオレは。
続く彼女の言葉で考えを改める必要があった。
「あ、あの……! わたし、ヨルミヤ・サクラって言うの……その、貴方さえよければなんだけど──」
たどたどしく。
先刻まで自信に満ちた表情から一変して、焦点の合わないままに。
彼女は、サクラは驚くべき提案をしたのだった。




