5. アレグロ・ヴィヴァーチェ~速く、強靭に、生き生きと~
旋律が耳朶を打つ。
変ニ長調の柔らかで穏やかな曲調だ。まるで月下の湖で揺蕩っているような。
明るく、されど仄昏いイメージを彷彿とさせる。
奏者は誰であろう? 軽やかだが物憂げなピアノの音が魂を掴んで離さない。
お、転調した。変イ短調か……いや、変ロ長調だ。ずっしりと澱を残すようなタッチは、八十八の鍵盤を抑圧するように、支配下に置くように暴れ狂っている。
聞き覚えのある曲調だ。恐らくはショパンのノクターン第一番だろう。だが、奏者によってオリジナルの解釈が加わっている。
屈強で、晴れやかだ。余程の腕がないと、表現力は出せない。テクニックが、途方もない技巧が観客に情景をイメージさせるのだ。
矢庭に、ピアノの音が薄れた。
皆無ではない。主役が変わったのだ。
腹の奥底まで響くような、鈍重な衝撃を受けたような、強力で無比な音の波が怒涛に押し寄せる。
これは、ベースだ。ダブルベースの明瞭で慎重な音色が、全身を打つ。
スコット=ラファロを彷彿とさせる挑戦的なリズムに、極めつけは独奏だ。クラシック調のピアノを引き継いで一切物怖じしていない。
いつまでも聞いていたくなる微睡を引き寄せる一方、まるで絶えず張り手を浴びているかのような強烈さが残る。
奏者の技術だけでは到底説明のつかない音圧。折れることを知らない。屈服することを良しとしない。
迷いもなく、猜疑心すらない。音という一点において純朴すら感じる。
徐々に揺らいでいくベースの音は、最後まで意識に残った。そして、続くドラムの独奏へとバトンを繋ぐ。
凪のピアノ、嵐の前の静けさをイメージさせるベースと比較して、ドラムの連打は嵐を思わせる。
間歇的に完璧なリズムを刻む最中にあろうと、まるで自分を包む殻を内側から食い破ろうとする気概を覚える。心臓が早鐘を打つように、血流が加速するように、呼吸が早く、眼が開かれるように。
観客の望むタイミングで挟まる心地の良いシンバル、ベースを際立たせる重低音を弾くバスドラム。スティックの先など残像すら見えない速度で振られているのだと、むざむざと思わせる捌き方。
嵐が収まると、静けさだけが残る。
移ろい行く景色をイメージさせるように、嵐の後には虹を引き連れる晴天が広がるように。
反響するテナーサックスの音は、そのまま壁となり全身へと降り注ぐ。
何が決め手か、何が違いか分からない。
されど、サックスのテンポは、曲調は、音色は。荒々しくも情熱を、煮え立つマグマを思わせる。
圧倒されるという実感を、初めて知覚させる。
何と痛烈で、峻烈なのだろうか。
音によって聴こえる。奏者の聲が。
もっと大きく、もっともっと──! 世界を自分の音で支配してやる、自分が、世界を回す音だと。
疑っていない。一切の濁りもなく、信じている。
このオトは、教えてくれる。
不屈を、剛毅を、妥協しない人生というものを。
ああ、成程。
これはジャズだ。独奏が輝く。なんと美しい四重奏なのだろうか。
願わくば、オレも。
オレだけのオトを──
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色のない天井だ。
土色の天蓋は無関心を思わせる眼差しでオレを睥睨している。
悲鳴を上げる全身を動かせば、キリキリと痛みつつ駆動する関節の動きを、再び機能を果たさんと稼働する内臓の再起動が感じられる。
「……死に損なったか」
何日眠っていたか分からない。
寝心地の悪い大地の上でうつ伏せになっていれば、そりゃあ身体も固まる。
ふと存在感に意識を傾けると、眼前には巨大な肉体が転がっていた。
虹色の鱗は見る影もなく、壮健な肢体は死後硬直が解けたせいかたるんで見える。
これが、伝説的な龍の死に様か。
不吉とも、憐憫も感じない。ただ、無常に胸がすく思いだ。
「腐ってないってことは……少なくとも一日は寝ちゃいないか」
ストレッチ代わりに身体を起こし、怪我の具合を確認しようとしたところで。
オレの耳は微かな振動を、蠢動を捉えた。
見渡すと円形の空間。
彷徨龍が羽ばたき、暴れまわるだけの広さがある地下には幾つか小道が続ていていた。
自然の脅威を見せつけられている気分だ。何せ、ここに至るまでの浅瀬ですら広大だったのだ。
更に最深部があるなどとは夢にも思わなかった上に、更に広範だとするなら驚嘆こそすれ、茫然自失など以ての外だ。
問題は、蛇行する地下道の一点。
大空間たるこの地より数キロ離れた場所で、魔獣が向かってきている。
数は数匹。されど、地表とは比べ物にならない強さだ。
やはり、深海と同じだな。生態系は領域によって変化する。
深層になればなるほど独特のピラミッドを構築し、上位層は王者の如く闊歩する。
「武器は……ないな」
シャツをまさぐっても短剣はおろか、ナイフ一本だろうと出てこない。
須らく彷徨龍を相手に使用して、精霊爆発によって灰すら残らず焼失したようだ。
「これ、武器になるかな」
重さはナイフ程度。所々黒く焦げた後が付いているが、鋭く尖った切っ先は健在のようだ。
光源石の光を反射して色とりどりに輝く彷徨龍の鱗。
そこかしこに点在するゴミだが、オレにとってみれば十分武器になり得る。
河原の石を水切りの要領で投げるように。
薄い瓦のような鱗を、地下道の入り口へと投擲する。
計算では、三度。側面へと当たり跳弾するはずだ。
目的となる魔獣までは数秒で……刺さった。
残りは、五匹か。
迷わず突撃してくる。逆上しているようだな。冷静さの欠片もない。
「仕方ないか。殲滅だ」
鱗を追加で二枚。
二枚あれば十分だ。
交差するように投擲すれば、ゴツゴツと起伏の激しい岩肌へと激突しつつ軌道を変えて。
一匹、二匹、三匹と。
なべて六匹。
掃討完了だ。
それにしても、魔獣で良かった。モンスター相手なら、鱗だけでは心許なかった。
両者の違いは一点。
魔力を喰らう獣か否かだ。
魔獣は異形で気性の荒い肉食獣だが、基本的に主食は肉だ。
しかし、モンスターは別。
あいつらは魔力を喰う。空気中の魔力は勿論、人間の体内で循環している魔力すら、喰らう。
専門家曰く、人の身体で熟成した魔力の方が各段に美味いらしい。
おかげで、モンスターの基礎身体能力は魔獣の比ではない。
いまオレが討伐したのはダンゴムシを牛大に大きくした魔獣で…………。
「待てよ。なんで、わかんだ?」
そもそも、どうしてオレは数キロ先の獲物を、目的までの道程を、跳弾すべき箇所まで、余すことなく分かるんだ?
僅かな害意、殺意に反応して。
まるで、3Dグラフィックのように、脳内で模型を作成できた。
「カード……! ステータスは……?」
この世界に来た時。
異世界からの住民はいつの間にか保有しているとされる免許証サイズのカード。
召喚、転移してきた者はステータスカードがあるか否かで判断される。
勿論、オレも持ってる。
愛用のアイポッドや太陽光発電モバイルバッテリーとか諸々。数少ない所持品は荷台に置いてきたが。
武器とカードだけは手放さなかった。
「なんだぁ……? こいつぁ?」
ステータス──レベル281
・筋力210
・体力301
・速力196
・知力261
『称号』『龍殺し』『不老不死』
【権能】【創造生成】【模倣複製】【万象記憶】
【技能】なし
「彷徨龍討伐の経験値だろうが……上がりすぎだろ」
というか、オレの伸びしろ有りすぎだろ。スロースターターかよ。世知辛い異世界での五ターンは長すぎるって。
「…………………………、分かった。ああ、理解した」
レベルが急激に上がったのは頷ける。オレのステータスと彷徨龍相手の死闘ならば順当とも思える。
それに伴って各種能力値が爆発的に上昇したのも、分かる。
だが、『称号』と【権能】については意味が分からない。
古今東西、存命だろうが偉人だろうが、あらゆる英雄譚を参照しても聞き馴染みのない単語。
ステータスカードは一目で能力値を可視化できる代わりに、詳細までは表示してくれない。
故に、『称号』と【権能】が何を表しているのかは不明瞭だ。
とはいえ、本能で、理性で理解できる。
【技能】は先天的後天的に得られる才能だ。魔法の才であったり、剣術であったり。
人によって保有数は異なる。天は二物を与えずとは言うが、神様ってのはどこの世界も意地悪らしく。持ってるやつは持ってる。
例えば、ミカエラならカリスマ、ローズならば剣術、ギメルなら御者といった具合に。
転移してきた者も、世界から相応の【技能】が与えられる。
現に、オレ以外の転移者は垂涎の【技能】を保有していた。もしかすると、本来オレに分配される分まで持ってったんじゃねえか? とも疑っていた時期もあったさ。
故に、【技能】についてはオレは門外漢だ。
だが、ギメルのように【技能】持ちから話は聞く。
人間、持たざる者は持つ者を羨望と嫉妬で眺めるからな。
曰く、【技能】は感覚らしい。
「『称号』は持続能動的、【権能】は限定受動的といった感じか」
『龍殺し』は感覚の強化だろうか。ドラゴン並に感覚を強化するのならば、地下道の先にいた魔獣を認識できた理由にも頷ける。
瞳を閉じて感覚神経に意識を集中させると、幾層にも積み重なった地下空間の輪郭を捉えられる。
空気の流れ、地下水の方向、生物の息遣い。
視覚以外の情報ですら得られるものが多い。
こんな芸当は少なくとも、以前のオレにはできなかった。
「なら、【権能】ってのは発動させなきゃいけないのか」
これも、分かる。何となくだが、本能的で、曖昧な話だが。
分かるのだ。
生物は呼吸の仕方を覚えるものではない。気づいたら、出来ている。
相違はない。
変わらない。
瞳は閉じ、凄惨たる姿で横たわる彷徨龍へと本能に従うように右手をかざす。
「──【創造生成】」
イメージは剣だ。
生前の彷徨龍のように、堅牢で幻想的。
見る者を魅了し、寄せ付けず、灰燼を化す。
絶対的な、圧倒的な隔絶。
眩い光の後には、目の前から彷徨龍の死体はなくなっていた。
代わりに、オレの右手にはずっしりとした重みがあった。
「想像通り。素体をイメージした物体へと精錬する【権能】ってとこか」
拵えは無骨で、刃波は直線。
片刃のロングソードで、柄は光を反射して控えめに虹色を強調している。
鍔はなく、刃と柄の間には金色の小鉄で接合されている。
切れ味は……好奇心のままに投擲してみると、サクリ──ッ! と小さな音と共に壁面へと刃の大部分が埋まってしまった。
精霊爆発ですら煤程度の頑強さを誇る地下の岩へ、抵抗もなく刺さる。
抜群な殺傷能力だな。
「【万象記録】に──【模倣複製】」
掲げた右手に、再び剣が生成される。
岩場に突き刺さった剣はそのままに、オレの手には同様の剣が。
自己矛盾を引き起こした様子もない。
前者の【権能】は一度生成した物や、一度触れた記憶のある物を記憶する代物で。
後者は記録した情報から念じた物体を無条件で再生成する【権能】と。
「相性がいいな」
オレの攻撃手段は突き詰める必要すらなく、投擲しかない。
魔法の腕はからっきし、剣術もおざなり、【技能】は壊滅的。
唯一頼れる特技を応用しただけの技術だが、装備に限界があることだけがネックだった。
故に、弱点が解消された気分だ。
天は気まぐれというが。
随分と待たされた心持だが、最後の最後に微笑んでくれたと受け取るべきか。
一度記憶した物なら何でも良いという広汎な条件ならば、例えば昔一目見ただけの名剣だって生成できるだろう。
「やってみるか? 素材は……鱗でいいだろ」
【創造生成】で一振りの刃に相当する分量の鱗を鋳造、変化させる。
イメージは黒塗りの剣だ。
かつて追放される前に宮殿で飾られているのを横目で見た、伝説的な英雄の武器らしいが。
刃渡りは薄く、日本刀を彷彿とさせる静的な切れ味があった。
光が収束して現れた一振りの刃。
オレ用に途中で変更してみたが、上手く反映されているらしい。
「さて、これを。【模倣複製】っと」
左手にも、寸分違わない名剣が生成される。
投げてみても想像通りの速度と軌道を描いて飛んでくれる。
都合が良いことに、偶然にもひょこりと顔を出した魔獣の脳天へと突き刺さる。
固い殻に守られたはずの魔獣を貫通して大地まで刺さる切れ味には圧倒される。
いや、想像以上だな。
空気抵抗を可能な限り減らした構造にしてみたが、功を奏した。
数秒も速く標的まで到達するのなら、機を先んじるのにもってこいだ。
「思わぬ成果もあったことだしな。そろそろ現実と向き合おうじゃないか」
オレの現在地は地下空間の最深部に近い。
幾ら並外れた感覚を保有しているからと言って、途中でエンカウントする魔獣との戦闘を考慮に入れても。
数日、数週間の規模ではない。
前人未到の大空間を、モンスターや魔獣がうじゃうじゃと蔓延る中を地上を目指して疾走する。
想像しただけで辟易する。
だが、寿命が続く限り地下で息絶えるつもりはない。
「目指すはヴァリアス半島だな。誓ったんだ。履行しなくちゃな」
一人ごち、気合を入れ直す。
一瞬の油断が命取りとなる、文字通りの常在戦場。
高が学生上がりの戦士擬きが完遂できる可能性は絶望的だ。
彷徨龍と相対した時とは別種の恐怖と不安が僅かに首をもたげる。
しかし、気を止めてはいけない。
必要なのは根気と信念だ。
目的は決めた。
オレは、今一度。
ミカエラと、言葉を交わすのだと。




