4. 彷徨龍
千七百二十九回。
オレが投擲を試みた回数。実際は途中で数えるのを止めたから遥かに膨らんでいることだろう。
得られた成果。
凡そ三十六時間の遅延。
右眼を潰された恨みか、それとも下等生物に翻弄された怒りか、彷徨龍は飽きもせずオレに追随して攻撃をしかけてきた。
詳しくは、奴にとって攻撃とすら言えないだろうが。
地下空間の中でも十分な広さを誇る場所ではあるが、やはり彷徨龍が飛翔するには不十分だ。
おかげで、奴は龍族最大の利点を活かせず、オレに良いように弄ばれている。
一度でも頭上から火炎吐息を許せばたかが人間の身分であるオレに勝機はない。
とはいえ、念に念を入れて。石橋を叩いて渡るには不安だから新しい橋をかけて第三者に先に渡らせる心配性で臆病なオレは翼を集中攻撃してやった。性悪とも言う。
虹色に輝いていた彷徨龍の翼は哀れ、見るも無残に虫食いのように穴だらけの惨状だ。
ああ、わかってる。
惨めで情けない。
ドラゴン相手に正々堂々勝負しないのは男が廃るとでも言いたいのだろうが。
無理なものは無理だ。
「硬すぎんだよなぁ」
また弾かれた。
オレが彷徨龍に与えられた損害と言えば、右目と両の翼だけだ。
須らく、虹色の鱗に防がれるために。
ナイフも短剣も、岩も、石も。
鉄と鉄の衝突した間抜けな音を残して大地へと刺さる。
「────ッ!」
「危機一髪。そのパターンはもう見た」
オレは何もできない。
残されたのは体内への攻撃だが、流石上位種族。油断してたまるかと言わんばかりに、鱗以外の攻撃を防いでやがる。
だが、彷徨龍もまたオレにダメージを与えられない。
如何に堅牢な鎧も持とうが、如何に破壊力に優れた火炎吐息を吐こうが。
当たらなければ意味がない。
一掻きで人体を文字通り豆腐のように裂く爪や牙を持とうが、捕捉できなければ宝の持ち腐れだ。
狭い空間に、すばしっこい上に隙を見せない敵。
苛立ちどころか辟易したように惰性で、羽虫を払うかのように動く彷徨龍。
正しく泥仕合。
さしものオレとて何十時間も気の抜けない精密作業に没頭すれば疲労も貯まる。
ほんの一瞬の油断でオレは死ぬ。
読み違えて押し潰されるかもしれない。
解釈を違えてかぎ爪の餌食になるかもしれない。
命への執着はないが、最大限時間を稼ぐ必要がある。
……なぜ? オレは文字通りに死にそうな、死ぬ寸前の恐怖を抱いて何をしている?
「……ッ!? あっぶねぇえ!」
頬の横を鋭いかぎ爪が通過した。
余波で蹈鞴を踏んでしまう暴風に耐えながら、オレは戦慄する。
目的を忘れていた。
あのまま正気に戻らなかったら重機に潰されたトマトになっていた。
遅ればせながら冷や汗が噴き出す。
魔獣の牙だって貫けない触れ込みのジャケットだが、彷徨龍の前には紙切れ同然。
装備も援軍もない状況で、死を待つだけの時間に改めて恐怖を覚える。
あと何秒、何時間、何日。
オレは来るべき死を待たなければならない。
いっそのこと。
このまま一息に潰されてしまえば。
「やばいやばいやばい…………とうとう折れてきたぜ?」
弱きが首をもたげる。
逃げ回ってきた両脚には疲れが、乳酸がたまっている。
ナイフを、短剣を投擲し続けた腕は、指先はポロネーズ六番を滑走した後のように震えている。
途方もない地獄を目的地も分からず走り続けてきたオレの意識は、しかして、三十六時間で初めての異変に現実へと引き戻された。
大地が、傾いているのだ。
幻覚ではない。
願望でもない。
怪我もしていない。
彷徨龍の絶叫に隠れて、微かに聞こえる。
パラパラと、土が落ちる音を。
「なん──ッ?」
原因を追究する間もなく。
突然の浮遊感に思わず身が竦む。
すわ天災かと。災厄を引き起こせるであろう同居人に目を向けると。
彷徨龍もまた動きを止めて重力のされるがままに身を任せている。
「まさか、抜けたのか?」
床ではあるまいに。
だが、現実は小説よりも奇なり。
確かに、オレは真っ逆さまに落ちている。
人生で二度目。大橋から大渓谷への落下を経験したおかげで、何とか意識は保てている。
重力に従っているのはオレや彷徨龍のみならず、バラバラになった岩々もだ。
景色がパノラマ写真のように移ろい行く間にも、全身は前後左右に激しく揺れる。
空中でまともに態勢を固定できないオレが無事なのは、彷徨龍もまた空中では無力が故だ。
どこの誰か知らないが、彷徨龍の翼は翼としての機能を果たしていなかった。
オレのせいか。
「このまま落下死できればまだマシだが……そうは問屋が降ろしやしねえだろうな」
落下の到達点にはスモークグリーンの絨毯が待っていた。
大渓谷まで飛び下りたとしても外傷がない安全性を誇る苔だ。まさか、この程度の距離で楽に死ねるはずもないだろう。
僅か三秒後。
オレと彷徨龍は揃って苔むした大地へと降り立った。
❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐
「第二ラウンドってか……?」
対峙すると改めて生命体としての格差に気圧される。
まさか、この眼光と威圧にうん十時間も耐えていた事実が末恐ろしい。
オレってば、そんな根気ある子だったのね。
「ふざけていられるのも、ここまでか」
落下の衝撃だろうか、ここら一帯に夥しいまでの埃が舞っている。
オレがアレルギー持ちだったら咳が止まらなかったことだろう。
いや、違うな。
埃じゃない。砂埃でもない。
こいつらは精霊だ。海洋におけるプランクントンと変わらない。魔力濃度の高い場所では空気と同じように生息する微生物。
その証拠に、太陽光を欲するように天高く舞っている。
ここで驚くべきことが一つ。
精霊に導かれるように視線を上げたオレは、密閉されていることに気が付いた。
先刻まで彷徨龍が暴れまわっていた空間、オレが逃げ回っていた床が再生を始めていたのだ。
本来ならばあり得ない光景だが、頷けない状況でもない。
そもそも大渓谷や地下坑道の存在自体が自然の神秘、不可思議の塊なのだ。
オレやミカエラが無事に生き残れたのは、偏に浅瀬にいたからだ。
いま、彷徨龍と共に落下してきた場所は密閉空間となった。
最深部とは思えない。
しかし、翼を失った彷徨龍は最早浅瀬には戻れず、そも空を飛べるはずのないオレも深部を探索しなければ戻れなくなった。
互いの動きは把握できる。
光源石が壁面に群生しているために。
「…………まさか。いや、できるな」
どうしてオレはこうも無茶苦茶で馬鹿げた作戦ばかり思い浮かんでしまうのだろうか。
更に。
どうしてオレは、そんな博打にノッてしまうのだろうか。
「逆転なんて大層なもんじゃないが……彷徨龍とやら。あんたも膠着状態は嫌いだろ?」
正々堂々かは分からないが。
まともな戦いってやつはできるかもしれないな。
「──~~~~ッ!」
オレの殺意を感じ取ってか、彷徨龍は風圧を伴う咆哮をもって応えた。
左目に宿す怨恨の焔がゆらりとオレを見据える。
ここで、必ず息の根を止めると殺害予告された気分だ。
依然として絶望的な差は横たわっている。
しかし、今までのように逃げ回る訳にはいかない。
「真剣勝負だ、全力の悪足掻きってやつを見せやるよ──ッ!」
短剣を彷徨龍の左目をめがけて投擲する。
嫌に人間らしいが、わざわざ前足で短剣を弾きやがった。
勢いそのままに鱗に弾かれた短剣はそのまま壁へと突き刺さる。
だが、僥倖。おかげで、彷徨龍はオレの姿を見失った。
持てる最後の力を振り絞って駆ける。
同時に、ナイフを投擲し続ける。
温存はなしだ。
ここで躊躇していては勝てるものも勝てない。
彷徨龍の身体の下を這いずるように駆け巡り、その間にも投擲を続ける。
「──ッ!」
突然の暴風に耐えきれず浮遊感と共にオレはごろごろと地を転がった。
まさかとも思うが。
彷徨龍は、破れた翼を駆動させて。必死に羽ばたいて、刹那であれ宙を跳んだのだ。
読み切れなかったオレのミス。
痺れを切らした彷徨龍が、無様だろうと飛翔する選択肢を予想だにしなかったオレの失敗。
代償は、高くつく。
縦に裂けた猫を彷彿とさせる瞳に、見据えられて思わず足を止めてしまった。
捕食者と被食者の違い。
狩る者と狩られる者の相違。むざむざと
「ぐ…………ッ!」
存在を示すかのように投げ続けたオレは、無様にも捕捉された。
彷徨龍もまたオレを学んだ。
オレが彷徨龍を学ぶと同様に。
ザクリ──! と、左足首に激痛が走った。
彷徨龍にとって物を摘まむ行為は初めての経験だったのだろう。
物珍しそうに己の脚をまじまじと見つめている。
だが、摘ままれる者にとっては他人事ではない。
「おい、いつまで掴んでるんだぁ……?」
悪態を吐こうと開いた口は、彷徨龍に浮かんだ邪悪な微笑みに必然、閉ざさざるを得なかった。
龍は嗤うのか。
論文にすればきっと業界を席巻するであろう論題。もし研究者がいるなら朗報だ。
経験者が断言してやろう。
ドラゴンは悪役も見習う程に、邪悪に嗤うぞ。
「……嘘だろ?」
「────ウソ、ダ……ト、オモウ……カ?」
たどたどしく、されど明確に意思を宿して。
彷徨龍は言葉を紡いだ。
「くそったれ」
オレの悪罵は最後まで届いていただろうか。
フルスイングされるバットの気持ちというべきだろうか。
眼から、鼻から、耳から、血液があふれる。
視界が真っ赤に染まり、耳鳴りが収まらない。
空気抵抗なんざ嘲笑うように。
オレの身体は吹き飛ばされた。
「がッ……ハハははハ………………これは、効くなァ……」
痛いなんてもんじゃない。
体内で骨が砕ける音を初めて聞いた。
どこが、何本イッたのか。指折り数えるには途方もない数だろう。
辛うじて受け身は取ったが。
壁面にめり込んだオレを覗き込むように、虹色に光る瞳が見据えている。
わかってるくせに。
人間の身体はこれっぽっちで再起不能だ。
砕かれた左足も、ひしゃげた内蔵も、臓腑のまろび落ちる傷跡も。
朦朧とする意識の中で、やっとオレは嗤えた。
何て身の程知らずの思い上がりだったのだろうか。
選ばれもせず、特筆すべき実力もなく。
英雄を待ち受けるべき生物の眼前へと立ったことは。
「……間違い、かって──?」
そりゃあそうだろう。
たった一人のために、分不相応の立場を欲した。
「ははッ…………これが報いって……?」
当然だ。
何も成し遂げずに朽ち果てる。
伝承の、伝説に生きる龍に引導を渡してもらえるのだ。光栄じゃないか。
「オレはさ………………性格、悪いからさ────」
なあ、彷徨龍。
折角ならさ。
一緒に死んでみねえか?
もはや、彷徨龍の瞳は見えない。
必死こいて羽ばたいたよな? オレをフッ飛ばすために沢山動いたよな?
空間全体に充満した精霊。
ようやく、条件がそろった。
「────なァ、彷徨龍。粉塵爆発って、知ってるか?」
五臓六腑の損壊よりも優先した腕の死守。
右腕を全力で振るう。
今までに見たことのない速度で、余力の全てを注いで投擲した。
オレが唯一誇れる特技。愚直なまでに素直な騎士に褒められ、眩しいまでに純粋な彼女に使い道を諭された。
オレだけの技。
最期の一投。
目的は彷徨龍…………の背後。
あいつが左目を庇うために弾いた短剣。
オレの浅慮を嘲笑うかのように、彷徨龍が防ぎ、壁面へと突き刺さった短剣。
僅か数センチ。
刃と刃をかき鳴らして。
オレの視界は。
深紅に染め上げられた。
❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐
肉の焦げた香り。
長時間嗅いでいたくはない、眉を顰めたくなる匂いだ。
のそりと、自分でも情けないくらいにゆっくりと。痛む全身を労わりながら、されど休息は許さずに。
静謐の支配する空間をひた歩く。
そこかしこに散乱している虹色の鱗。
ただの爆発ではない。
精霊を素材として活用した大爆発なのだ。
如何に硬質な鱗だろうと、精霊が絡んだ時点で致命傷になり得る。
ただのナイフなら、ただの火炎なら無傷もあり得ただろう。
しかし、魔力濃度の高い場所にしか生息しない精霊は、存在そのものが薬にも毒ともなる。
彷徨龍の無敵の鱗を剥がし、生身の肉体に回復しきれないダメージを与えることだって可能なのだ。
「まだ息があるって……どんな身体してやがんだ」
それはお前もだろと、弱々しいながらも確固とした意志の下で睨み返される。
横たわった彷徨龍には立ち上がる余力すら残されていないらしい。
目障りにも思えた精霊は欠片も残さず散り、痛々しい火傷に苛まれた彷徨龍の肉体は粉塵爆発ならぬ精霊爆発の威力を物語っている。
結局、オレは騎士道精神に反した戦い方しかできなかった。
散々逃げ回り、致命傷を受けて油断させた挙句、だまし討ち同然の化学反応で爆殺を目論んだ。
末代まで呪われる所業だろうな。
「一張羅を捧げた甲斐があったって訳だ」
痛む内蔵、悲鳴を上げる肉体、足首から先のない左足。
蟻のように遅々とした速度だが十分だ。
彷徨龍は身動きの取れない虫の息なのだから。
魔獣の牙からも身を護れるお気に入りのジャケットはオレを爆発から守るために天寿を全うした。
おかげで、軽度の火傷で済んだ。
それでもチリチリと皮膚を食い破るように痛む火傷の痕はオレに高い代償を教えてくれた。
「最期は見届けてやる。オレの手で、逝け」
樹齢百年を生きた大木の幹に似た首に、柄の焼け落ちた短剣をあてがう。
刃を素手で持ったおかげで掌から血が滴り落ちる。
全身が激痛に苛まれる中で、されど熱を帯びた白刃に裂けた痛みだけはくっきりと分かった。
火に焼かれた彷徨龍の肉は大した力を入れずとも裁断できる。
神話に残る超抜個体の最期とは思えない静寂。
送別は一人。参列者も一人。
己を殺さんと刃を振るい、命を脅かした者の手で葬られる。
憐憫はない。
オレは選んだ。
生き残るために、眼前の命を屠るのだと。
全体重をかけて、刃を通す。
一度では切断できないために、幾度も、引き、斬る。
迸る赤の奔流を一身に受けて、それでも手は止めない。
完全に胴と首を両断させて。
ようやく、生命体が死体へと変わった。
閉ざされた瞳の、命を失った骸を眺めて。
オレの意識は微睡に誘われて。
溶けるように失われた。
ステータス──レベル40
・筋力95
・体力142
・速力80
・知力113
【技能】なし




