3. 生きとし生ける者よ
結なくる。
十八歳。平均的成人男性。
身長百九十センチに届くか届かないか。茶色よりの黒髪。瞳はグリーンの混ざった黒目。
長身巨躯。さしたる運動経験もないが、縦尺が伸びるにつれて壮健な身体付きとなった。
泣く子も黙る悪人面に鋭い三白眼。職務質問歴は脅威の三十四回。近所のお巡りさんとは顔馴染み。まったく嬉しくねえ……。
特技、投擲。
投げれば当たる。大抵、当たる。付いた渾名はブルズアイ。かっこいい。
百発百中、完全無欠。
異世界に召喚されてからは目まぐるしい環境の変化に翻弄されて孤高の道を歩む。
享年、十九歳。
良い人生でした……と、幕を降ろせればどれだけよかったことか。
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後頭部の疼痛に微睡を中断され、まだ寝ていたいと必死の抵抗をする全身に鞭を打って身を起こす。
ピントの合わない両目を擦りながら状況を確認する。
キラキラと宙を舞う埃……いや、精霊だ。微細な精霊は頭上から注ぐ太陽光によって幻想的なまでに綺麗だった。
大渓谷から飛び降りたオレを助けたのは、一面真緑に染め上げる苔だろう。
まるで羽毛布団のような反発性能を誇るおかげで、五体満足で一命を取り留めたらしい。
きっと、オレが一人ならば余計な事しやがってと燃やし尽くしただろう。
しかし、どうやらオレは一人ではないらしい。
「…………ん……っ」
寝返りを打って吐息を漏らす仕草は妖艶だった。
猫のように身体を丸めて寝息を立てる金髪の少女。
茶色のローブの下は純白のワンピースであり、傷一つない膝が、陶器のように滑らかな肌が光を受けて眩しいまでに強調されている。
「おい、あんた…………何してんだ。起きろ」
「……、あ、れ? ヴィリーさん?」
寝ぼけまなこで目を擦ってオレを直視するミカエラ。
本来ならば、この場にいるはずのない人間が、確かに現実のものとして眼前で座っている。
「ここは…………どこですか?」
「大渓谷だろうさ。まあ、それはいい。あんた、どうしてここにいる」
「……? 飛び降りたからじゃないですか?」
こいつ頭でも打って記憶飛んだか? とでも言いたそうな、とかく腹の立つ表情で聞き返してくる。
彼女は質問の意図を推し量ってはくれないのだろう。
いや、作為的にではない。ミカエラは呆れる程に純粋なんだ。
「なんで、あんたが身投げするんだ。オレ一人で十分足りただろうが」
「足りる……? 衝撃で馬車から落ちたんじゃないですか?」
「………………おい、あんたまさか」
「いたた……やっぱり無茶でしたね。わたくし一人ではヴィリーさんを引き上げられませんでした」
あっけらかんと立ち上がり土を払うミカエラ。
彼女は本当に気が付いていなかった。
速度を上げるために重量を減らしたオレを、ただ滑落しただけだと勘違いして。
あまつさえ、助けるために自分まで飛び降りるなど。
正気の沙汰ではない。
狂気の献身、異常な善性。
一種の気狂いだぞ。
「それにしても……困りましたね。地上までどうやって戻りましょうか」
迷いはない。
葛藤も、後悔も。微塵もない。
人の手離れた未知の場所まで、命の保証すらない状況で。己を顧みず直感のままに行動する。
正しいか、正しくないか。
ミカエラの定規は、オレとかけ離れすぎている。
「ヴィリーさん?」
ただの酔狂だと思っていた。
見てくれだけを気にした、善人であろうとするだけの凡人だと。
見え透いた善意を振りまき、見返りに自己満足と感謝を占有する。
オレは、何を見ていたんだ。
こいつは、ミカエラは生粋の善人だ。
利害も、論理も、合理も。
何一つとして考慮せず、ただ正しいという一点で行動を選択できた。
「…………大渓谷は北部平原の坑道に繋がってる。北上していけば、いずれは地表で出られるだろう」
「そうなんですね……!」
ころころと表情が変わる。鈴を転がすような声音に、太陽のような笑顔。
透き通るまでの純朴さに、多少の悪意では染められない信念。
気高い魂。
もし、彼女がこの先も折れずに生き永らえるならば。
「……、やめだ」
「へ? どうしました?」
「あんたには無関係だ。行こう。急がねえと帝国が北まで食指を伸ばしやがる」
「は、はい……!」
やめだ。
まだ、命を捨てる時じゃない。
やっと楽になれると思っていたが。
やもすると、面白いものが見れるかもしれないからな。
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歩き出して二日と少し。
大渓谷から北上して分かったことがある。
先ず、渓谷から伸びる地下道だが、独特の生態系があるらしい。
見たことも聞いたこともない魔獣やモンスターがうじゃうじゃ溢れている。
辛うじてオレでも討伐できるレベルだが、もし少しでも巨大で狡猾、若しくは大量にいれば。残念ながら、人類に見捨てられた僻地で死体が二つ増えることとなっただろう。
武器は温存一択。死角から襲撃される可能性も含めて気を抜けない。
そこらに転がっている石を研ぎ、武器とする。
創意工夫のおかげでナイフや短剣は一本たりとも使っていない。
二つ。生物のみならず、鉱物一つとっても未知の塊だった。
日の光が届かない世界であるにも関わらず、地下道は真昼のように明るかった。
要因は岩だ。そこかしこに光源石──オレもミカエラも知らなかったため勝手に名付けた──があり、地下道を照らしている。
おかげで狭苦しい道や、魔獣、モンスターの奇襲にも対応できた。
三つ。地下水の透明度が異次元。
恐らくは北から流れる雪解け水だろうが、それでも汚染なくせせらぐ小川のように流れていては驚きを隠せない。
飲料水にしては優秀で、多量の魔力を含んでいるおかげで腹も膨れる。
正確には、空腹は依然として変わらないが、栄養素としては十分に機能する。おかげで、訳も分からない生物の肉を食べなくて済む。幾ら広大といっても、密閉空間で火を起こすのは危険だ。
四つ。これが目下の大問題なんだが。
「ヴィリーさん! 見てください! 凄い色してますよ!」
「ああ、そうやって身を護ってんだ。頼むから触るなよ? 解毒とかできねえから」
「任せてください。わたくしはこれでも自制心の塊ですから」
「好奇心の間違いじゃねえか?」
オレはどうやら、この少女が嫌いらしい。
いや、語弊があった。好ましくは思えないと言うべきか…………ともかく、今のミカエラは頭痛の種でしかない。
何が起こるか分からない地下空間で、未知を愉しむ研究者のように走り回り目を輝かせる。
挙句の果てには鼻歌ではなく、思わず聞き惚れてしまうような美声で唄い始めるのだ。魔獣やモンスターを引き寄せる恰好の餌になるとは考えずに。
それだけならいい。一喝すればしゅんとして反省するから。
問題はそれ以外だ。見るからに食えない植物を食べようとするわ、見張り番では熟睡するわ、戦えないくせして最前線に出てくるわ。
こいつが依頼人じゃなきゃ三回は殺してる。
憎たらしい上に、腹立たしい。
生まれて初めて濃密な殺意を抱いた。
どういう教育をすれば、こんな怖いもの知らず、世間知らずのお転婆高飛車お嬢様が完成するんだ?
「あ! ヴィリーさん! 美味しそうな木の実がありますよ!」
「走るな触るな食べるな………………おいおいおいモンスターいるじゃねえか離れろ離れ──ー離れろってんだ聞こえねえのか!」
「ひゃいぃっ!?」
初めて人に怒鳴った。
勢いで投擲した岩はモンスターの眉間に刺さるどこか貫通して背後の岩へ突き刺さった。
光源石って割れるんだ。
返り血を浴びて辟易しているミカエラの様子が余計にオレの神経を逆撫でする。
満面の笑顔で「びっくりしました……」とか言って駆け寄ってくるミカエラには悪いが、そろそろ堪忍袋の緒が切れそうだ。
「ヴィリーさん、どうぞ。きっと美味しいですよ」
「…………お前、食べたのか?」
「食べてませんけど? ヴィリーさんでお試ししようかと」
「ふざけろ」
「きゃん……っ!? いたい…………」
初めて女の子を殴った。
いっそのこと置いて行ってやろうか、こいつ。
「お兄さんみたいですね、ヴィリーさん」
「お前の兄なんざ願い下げだ」
「えぇ……わたくしみたいな妹がいたら最高じゃないですか? 美少女だし、美少女だし…………美少女だし!」
何が美少女だし(ドヤッ)だ。
悪寒が奔ったわ。
「自己評価高すぎじゃねえか。自認女神様か」
「家臣の皆さんはわたくしを女神と呼びますよ?」
「そうかい…………頭お花畑でも政治ってできんだな」
それに家臣て。ローズが口走った高等学院だとか、臣下だとか。
いよいよミカエラがやんごとなきお方に思えてきた。
「……、ヴィリーさんにはご家族はいますか?」
「いた」
「それって……?」
話半分に聞き流しながら、警戒しつつ地下道を北上する。
恐らくは中腹は超えたはずだ。
徐々に上り坂になっている道からも、微かに頬を撫でる乾燥した風からも。
眼下を流れる小河にも流氷が混じり始めた。
「………………ヴィリーさん」
気付けば平野とも思えるだだっ広い岩肌まで辿り着いた。
光源石とは異なる光に、視線を上げてみると微かに日の光が見える。
奥にはぽっかりと巨大な穴が開いているが、わざわざ鬼の巣をつつく趣味はない。螺旋を描くように岩肌に沿って辛うじて進めるだけの道もある。
このまま円形に上がっていけば、地下道からも抜けられるはずだ。
三日目に差し掛かろうとしている探索作業だが、ようやく終幕が見えた。
バベルの塔のように天へと続く道を上がれば解放されるはずだ。いや、バベルはだめだな。壊れっちまう。
「ヴィリーさん!」
「なんだ。叫ぶなよ。モンスターがよってくるだろうが」
意を決したようにオレを呼び止め、思わず気圧されるような眼光でオレを射竦める。
これが戦う手段をもたないお嬢様の眼力か。無意識にも身が空く。
「ここまで、ヴィリーさんにはお世話になりました」
「そうか。そう思ってるなら多少はオレの言う通りに動いてほしいものだがな」
「頷けないお話です」
「……何が言いたい」
焦燥が滲んだのだろう、オレの声音には棘が含まれてしまった。
ミカエラには悪いが、こんな所で足止めを喰らっている余裕はない。
今この瞬間にも北部平原は帝国によって包囲網が敷かれる可能性がある。散々引っ掻き回した“黒天部隊”だっていきり立って復讐しようと躍起になっているだろう。
「ヴィリーさんには大きな借りができました」
「報酬をもらってる。お前は相応のカネを払って依頼をした。オレは雇われた。貸し借りなんざない」
「それでもです。わたくしの無鉄砲な行動がなければ、地下道を散策する必要もなかったはずです」
「分かってるならちょっとは抑えてはくれないか。その向こう見ずのせいでオレの寿命は五年は縮んだぞ」
「悪人の残り時間を減らせて嬉しい限りです」
「なあ。お前、オレに感謝するのか鬱憤を晴らすのかどっちかにしろよ」
「いえ、その……ですから…………」
もじもじと快活で溌剌とした様子からは想像もできない神妙さ、緊張を隠さない声音。
刹那に外された視線が、伏せられた碧眼が。言葉を紡ぐか逡巡する、一瞬の躊躇いが。
オレを酷く苛立たせて、同時に、続く言葉を心待ちにするオレを浮き彫りにした。
「…………ヴィリーさんに嘘を吐き続けたくないと。多分、わたくしは、そう思っているみたいです」
「あ? 何言ってん──」
もし過去に戻れるならば、オレは反駁を遮ったミカエラの口を閉ざすだろう。
「ミカエラ=オルハン・ヴォルテ=ヴィルトゥオーゾ。それが、わたくしの名前です」
「………………それを聞かせて、オレにどうしろってんだ」
爆弾発言ってレベルじゃない。
薄々、予想はしていた。
高等学院に、臣下、帝国が侵略戦争を始めた情報に加えて、神聖国が劣勢に陥っていることも。
だが、だからといって。
ヴィルトゥオーゾは神聖国の国王系譜にある由緒正しき家名であり、ミドルネームに至っては王位継承権第一位の人間ではないと名乗るだけで大罪となる。
騙りではない。
臆することなく、衒いもなく名乗ったミカエラから虚偽は見受けられない。
それどころか、これ以上嘘を吐き続けなくて良いと安堵している色が強い。ホッと胸を撫でおろし、やっと言えたと。
有形無形の危険が孕むを承知で、彼女は本名を澱みなく語ったのだ。
「わたくしは、落ち目の神聖国を見限って逃亡政権を樹立するためにヴァリアス王国へと向かう予定でした。既に神聖国の貴族や王族は帝国の息のかかる者に挿げ替えられていることでしょう」
「待て、待て待て待て。聞かせるな、黙れ」
それは……特級秘匿事項だろうが。帝国の行っている裏工作の全貌。政治の、命とカネが混淆する超危険領域。
神聖国と王国の同盟が敗れたのは知っていたが、まさかその結果が、帝国への隷属など。
傀儡政権どころの騒ぎじゃない。
帝国にとって都合の悪い前政権の連中が、どう消されたのか。そして、万が一、生存者がいたと知れば。
その生き残りが他国と連携して帝国に一矢報いると知られれば。
「いえ黙りません。ヴィリーさん。きっと、貴方の名前も本当の名ではないのでしょう。ですが、わたくしは構いません」
「オレが構うんだ。お前、てめえが何を口走ってるのか理解してんのか?」
慌てて無遠慮に言葉を重ねようとするミカエラを黙らせようとするが、一歩遅かった。
「ヴィリーさん。どうか、わたくしと共に来てください。貴方の力は、わたくしに必要なんです……!」
こいつはどんなスケルツォだ? 夢か? 悪夢なのか?
陰鬱なぞ軽い。鬱屈とした気分が、澱となってオレの心中へと蜷局を巻いている。
既に、オレは知ってしまった。
神聖国の次期国王、いや王女か? 何にせよ、帝国が血眼になって捜索を続けるだろう相手と逃避行を共にして、あまつさえ契約更新を迫られるとは。
オレに選択権があるように思えるが、その実、これは脅迫に他ならない。
帝国の版図拡大に伴う一連の作戦に加えて、反乱の火種となる存在を、戦乱の萌芽を見届けてしまっているから。
オレはこの娘を護るために“黒天部隊”に喧嘩を売った。精々が国内で手配される程度にしか思わなかったが。どうせ厄介種なのはわかりきっていた。だから向こう数年は帝国にはいられねえなと。
地の果てまで追われるなんて生温い。死したとしても、遺骨を晒さなければ帝国は満足しないだろう。
「………………お前、厚顔無恥にも程があるだろが。後なんざ、選択肢なんざ更々ねえじゃねえか……!」
「ごめんなさい。再び地上に出られる確証が得られるまで言い出せずにいました。きっと、わたくしの弱さです」
ぺこりと頭を下げるミカエラ。
しかし、悪びれる様子は微塵も感じられない。つまるところ、ふざけたような要求をしてくる彼女の豪胆さが成せる技なのだろう。
「知ったことか。あのなあ、お前がオレを天元突破に過大評価しようが関係ねえ。現実ってのは非情だ。オレ一人で戦況は変えられねえよ」
「嘘ですね。ヴィリーさんは“黒天部隊”の包囲陣を半壊させたじゃないですか。帝国最強の部隊を、倒したじゃないですか」
まったく、疑問に思える。
オレは足掻いただけだ。ただの悪足搔きだ。
結果として、瀬戸際で生き永らえただけ。
「運が良かっただけだ。魔獣が何匹来るのか、指揮系統を瓦解させられるのか、全て運頼りで。オレの実力はこれっぽちもねえ」
「幸運を掴んだのはヴィリーさんの実力じゃないですか?」
あっけらかんと、平然と、まるで事実をそのまま口にしたように。
疑問を表情一杯に張り付けた、透き通る彼女の瞳に見据えられて。
オレは呼吸すら忘れた。
ミカエラは正しくオレを認識していない。
バイアスが、偏見が、色眼鏡が、彼女の歪めている。
結果だけ見れば重畳の成果だろう。しかし、道程は確実とは程遠い。
「教えてください。ヴィリーさん。貴方は、どちらで在りたいですか。臆病で停滞を良しとする自分か、それとも博打だろうと勇気ある一歩を踏み出せる自分か」
「……ッ」
面食らうとは……成程。痛快だな。
ようやくミカエラが一国の王族だと分かった。
人を動かすことのできる激情。本人は預かり知らない魂の奥底。燻る本心を、獰猛なまでに、急峻にも思える功名心を刺激する。
夾雑物はない。
混じり気のない純朴さだけを、彼女はオレへぶつける。
嫌だと、断ると。二度とお前の顔なんざ見たくもねえと吐き捨てろ。
そう嘯く本心に蓋をして。見て見ぬふりをして。
いっそ激動に身を委ねて。
価値観も常識も隔絶する少女の生き様を。
自分本位で、清々しいまでの理想主義者の躍進を。如何に彼女が世界を変えていくのか。
途方もない命を背負い、戦う隣で。
オレも立ちたいと。
「……、オレは──」
決意を口にしようとした刹那。
脊椎へ奔る恐怖と怯懦に弾かれて。
何事かと驚嘆に溢れるミカエラの手を引いて全力で走っていた。
❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐❒❐
どうやら、彼女の褒め称えてくれたオレの本能は、存外見捨てたものじゃないらしい。
肌を焼く熱が、瞬きの間に熱源へと様変わりした大地を眺めて。
思わず息を呑んでしまった。
ミカエラの憔悴ぶりは目も当てられなかった。
突如として腕を掴まれたかと思えば、全速力で走らされて。されど、大地を震わす轟音と業火の後には。
生物のように熱が、炎が鼻孔を灼く、真っ黒に焦げた大地が悲鳴を上げていたのだから。
「な……、何が…………?」
瞬きだけで彼女の当惑が伝わる。
オレだって理解できちゃいない。だが、冷静さを欠いちゃならない。
不安と恐怖はいとも容易く伝播する。
二人しかいない状況で、どちらかが平静を崩せば後に待っているのは破滅だけだから。
精査しろ。
観察しろ。
火の手が上がったのはぽっかりと空いた深淵の向こう側だ。
焦げた地面から深すぎて光も届かない空間から一直線に焔が向かってきたのだと理解できる。
途中で拡散せずに、まるでレーザーを思わせる速度と正確さで襲撃した炎。
相応の射出力と精度が成せる業だ。
それに、ビリビリと岩肌を伝って感じる振動。
規則的に、徐々に振動が巨大になるにつれて、オレは最悪の想像をしてしまう。
そして、本能が警鐘を鳴らす様が、荒唐無稽で突拍子のないオレの空想を真実だと証明してくれている。
「走るぞ! 一秒でも速く、地上へ……ッ!」
「は、はい……!」
こういう時だけ聴き分けがいい。
尋常ではないオレの動揺を、焦慮を感じ取ったのか、一も二もなく従って螺旋を描く急傾斜の岩場を地表への出口まで追随してくれる。
しかし、絶望の足音は、まるでオレたちの歩みが緩やかだと、無為だと嘲笑うかのように存在を示した。
「……くっそ、マジかよッ」
今ばかりは、己の悲運を渾身の恨みつらみを込めて罵倒したかった。
ゆらりと姿を見せたのは巨躯だった。
光を反射して色彩豊かに変わる鱗に、地の底から響いているような唸り声。
厳俊さ、峻烈さ。恐れ多くも畏敬を抱かざるを得ない荘厳な立ち姿。
双眸に睨み据えられてしまえば、如何なる偉丈夫だろうと生存を諦観して流れに身を任せるだろう。
生命体としての格が違う。
どれだけ人間として強かろうと、それには勝てない。
矮小さを、吹けば飛ぶような存在だと教えられる。
全長は凡そ三十メートル、三階建てはあるだろう縦尺。
巨大をならす龍が、ドラゴンが、現れたのだ。
「まさか…………彷徨龍……?」
「知ってるのか?」
「伝承の類ですよ……? 個体数の少ない龍族ですが、その中でも一際強大なドラゴン……超抜個体の一種です」
戦慄するミカエラは未だかつてない恐怖を抱いているのか、しかして、膝を震わせながらも確実に歩を進めている。
眼下には虹色に輝く鱗を持つ彷徨龍とやら。
オレたちは中腹に到達しているが。
二対の翼がはためけば、簡単に縮められる距離だ。
頭上へと視線を向けると、下から眺めては分からなかった光景が広がっていた。
なんと鋭利な岩が檻のように出口を封じていたのだ。
しかし、問題はない。人間一人程度ならば間を通って外に出られるだろう。
彷徨龍が外界へと出るには苦戦しそうな自然の要塞だ。
不意に、奴を閉じ込めるための仕掛けのように思えたのは、どうやらオレだけではないらしい。
一挙手一投足に注視していれば分かる。彷徨龍は寝起きだ。寝覚めたら寝床に不審者がいた。
だから起き抜けに一発かましてやった。
奴にはそれで充分なのだろう。加えて、己ですら突破のできない要塞を、まさか下等種族がどうにかできるはずもないと。高を括っているようだ。
だからこそ、そこに突破口がある。
認めたくはないが、たった一つだけ。
彷徨龍に睨まれながらも、いつ襲ってくるか分からない危険生物から逃れられる方法が。
一つだけ。
「……っ!? ちょっと、ヴィリーさん! 止まらないでください!」
躊躇はなかった。
そもそも、大橋から身を投じた時点で見限っていたのだ。
今更、葛藤が、相克がある訳もない。
「動くなよ」
「ひゃっ……!? どこ触ってるんですか!?」
抗議しつつも律儀に動くなと忠告は護るミカエラ。
想像を絶する腰の細さに、やはり性別の異なる相手の肌の感触に衝撃を受けながらも。
ミカエラの腰に縄を巻けた。そう簡単にはほどけない、所謂カウボーイ巻きってやつだ。
そのまま、彼女に結んだ縄の反対側を全力で投擲し、可能な限り太い岩へと通して戻ってきた縄を引いて強度を確認する。
幾度か引いて強度を確かめられたオレは、ミカエラの両頬を抑えて視線を限定する。
「いいか、君がすべきことは一刻も早くヴァリアス半島へと向かうことだ」
「は、はい……!」
訳も分からぬままに頷いているのだろう。
こいつ藪から棒に何言ってんだ? と表情に書いてある。思わず叩きたくなるような顔だ。
ローズもそうだったが、こいつも腹芸が不得意に過ぎる。
これでよく政治家が務まるな。
「こんな意味も、得体も知れない辺土で命を散らすことじゃない」
「はい……!」
碧く輝く瞳に力が戻った。
既に彷徨龍の存在は意識の片隅にもないのだろう。
あるのは使命と責務だけ。
ミカエラの純朴さを逆手にとってようで心苦しいが。されど、もし作戦──いや、作戦とも呼べねえ苦肉の選択だが──が露見してしまえば、彷徨龍のみならず、真っ先にミカエラに止められる。
こいつは、そういう人間だ。
だから、言葉を、お茶を濁す。
曖昧に、口八丁手八丁嘘八百で誤魔化す。
オレは、ミカエラ程に気高くはないから。
彼女に選択を強いたくはないから。
「…………先の返答だが。再会できたら、君と共に戦いたい」
「ぇ……?」
オレの言葉に滲む不穏に、オレですら無意識に含意してしまった悔悟を。
ミカエラは目聡く悟ってしまった。
しかし、追及はなかった。
何故なら。
「ひ……っきゃぁぁああっ!?」
岩肌から飛び降りたオレの重量に従って、ミカエラの身体は宙へ浮き、オレとは正反対に地上へ向けて急上昇したために。
突然大地が消えてしまえば納得の驚愕だろう。
ゴウッ! と周囲の景色を一足跳びに彼女は天高く舞う。
簡単な話だ。梃子の原理を利用した即席の人間エレベーター。
ネックなのはどちらか一人しか助からないこと。
「そっちに気を取られてる場合か?」
オレたちの動きに勘付いたのだろう、顔を上げた彷徨龍。奴の視線の先には今まさに地上へ達したミカエラが映っていた。
余裕ぶっこいて様子見してたあんたの落ち度だぜ、彷徨龍。
「────ッ!??」
通り抜けざまに。羽虫程度の注意すら払っていなかったであろう、彷徨龍は全力で投擲した短剣が右眼に刺さり悶絶した。
バタンバタンと地震を彷彿とさせる地団駄だが、硬質な鎧に包まれた身体よりは視界を奪えて防御のない眼を狙うのは被食者としては当然の抵抗だ。
甘んじて受け入れてもらいたい。
再び地下へと降り立ったオレは、飛び出た岩に捕まったミカエラを確認して素早く縄を切断する。
これで、彼女は三日ぶりに地上へと舞い戻ったわけだ。
「ヴィリーさん! どうして! 早く上に!」
まあ、そうだよな。
底なしのお人よしで、無尽蔵の善意を誇るミカエラが、はいそうですかと騙し討ち同然の作戦に満足する訳がない。
今にも岩肌を伝って降りてきそうな勢いだ。
だから、オレは。
拒絶するしかない。
「ミカエラッ! まだ分からねえのかッ!」
声が、喉が、張り裂けんばかりに大音声を絞り出す。
アルマゲドンですら真っ青な暴れ様の彷徨龍がいようと、オレの声は確かに届いたのだろう。
愕然とした表情のまま、ミカエラは崖下を覗き込んでいる。
「……っ」
ミカエラは怒られ慣れてない。
次期王女に激怒できる人物などそう多くはない。
「君は戦うべき理由がある! オレは必ず君の下まで戻るッ! だから……振り返らず進めッ!」
まさか、自分がここまで変化するとは思わなかった。
事なかれ主義の日和見主義。
積極的に、主体的に物事を成す気力があるとも思えなかったが。
どうやら違ったらしい。
どこぞの純情主義者に、理想主義の片鱗に触れて。自分でも気づかぬ間に変わっていたらしい。
己が命を投げうってでも、護りたい命があった。
壊れものに触れるように。
決して届かない宝物を、慈しむように。
「約束ですッ! ヴィリーさん! 絶対に、何があっても、生きて帰って来てください!」
最後の表情を、オレは見なかった。
正しくは直視できなかったか。
自然の悲鳴が木霊する空間にあっても彼女の足音だけは聞き逃さなかったさ。
ミカエラは、離脱した。
迷いを断ち切って、目的地まで向かった。
だから、独りよがりながらもオレは、彼女の行動に背中を押された気がした。
きっと、あの紺碧の瞳に一度捉えられたら、揺らいでしまうから。
石膏で塗り固めたハリボテの覚悟だろうが、オレの選択で描いた結末なんだ。
ここで背を向けるのは簡単だ。
彷徨龍だか何だか知らないが。何も正面切って戦う必要はない。
けれど、ここで。オレが立ち去れば。
彷徨龍は意地でもミカエラを追うだろう。
オレが敵うはずもない。
“黒天部隊”とは訳が違う。
援軍もなければ、罠も、仕掛けも、言葉すら通じない。
正真正銘の絶望。
意味も分からず異世界に転移させられて、ここまでがむしゃらに遮二無二生き永らえてきたが。
終ぞ、悪運も尽きた。
「華々しく終わらせてやろうってリップサービスは……期待できねえか」
ユラユラと揺れる怨嗟の炎。
態勢を立て直した彷徨龍が見据えるのはたった一点。
敵とすら、同じ生き物とすら認識していなかっただろう、二足歩行の小石。
油断はない。
間隙を縫うことも、弱点を突くことも。
超能力も【技能】もないオレには不可能だ。
だが、時間は稼げる。
悪足搔きは、滑稽なまでの生き汚さだけは。
少なくとも、お高く留まっている彷徨龍よりは得意だぜ?
泥仕合だな。
最低でも一日は足止めしてやる。
半歩、臨戦態勢へと移行する兆しを見せた彷徨龍の、残った左目に向かって。
オレは短剣を投擲した。
ステータス──レベル35→40
・筋力82→95
・体力135→142
・速力76→80
・知力108→113
【技能】なし




