6. 手探りの冒険家
血相を変えた人間を現実で見ることは後にも先にも、これが最後だっただろう。
唐突に扉を開いて駆けこんできたサクラの様子を見て、オレは手を止めた。
残響音が防音の部屋に木霊して、最後には消える。
コーダへ突入する前で良かった。恐らく、最終小節を迎えるまで気付かなかっただろうから。
「サクラか。何だ。蛾でも振ってきたのか?」
肩で息をして、頬は上気している。額には冷や汗が浮かび、瞳は焦点が合っていない。
心拍数が高い。呼吸も荒く、正体とは到底思えない。
遅れて背後からライラが合流した。だが、彼女の表情は困惑の色が強い。
確か、昼食のために外出していたはずだが。
おっとり刀で取って返した二人の雰囲気は尋常ではない。特に、サクラが。
とはいえ、当の本人は言葉を紡ごうとはしない。
息を整えるのに精一杯で、乾いた喉が張り付いて不愉快なはずだ。
ならば、オレから声をかけるのが常道だろう。
「帰って来てすぐで悪いが、合わせられるか?」
ペダルから足を降ろして立ち上がる。
数時間ぶりに歩くとバキバキと身体中の骨が軋んだ。成程、【不老不死】は使い勝手がいい。
昔は三時間程で肉体的な限界を迎えていた。おかげで指が温まった時点で小休止を挟む必要があり、歯嚙みしたものだ。
絶食絶飲でも稼動できる肉体に感謝しつつ、朝から放置されていたカップに口を付ける。
生温いが、それだけだ。喉を潤すことができればいい。
生憎と目に留まるカップは一つだけ。氷は解け切り、結露すら消えたキャッチャーから水を注ぎサクラへと手渡す。
「とりあえずだが、一曲目の──」
「ラファ」
ピシャリと叩きつけられた言葉に、オレは口を噤んだ。
強化された感覚からサクラの感情は手に取るように分かる。
純粋な怒気。睨め上げる彼女の眼光は鋭く、思わず蹈鞴を踏んでしまいそうだ。
握り締められた拳に、外部の情報を全て遮断するような頑なな態度。
ようやく、気が付いた。
サクラは怒髪天を衝く勢いで怒りを内包している。
「…………サクラ。自慢じゃないが、オレは察しの良い方じゃない。言いたいことがあるなら、直截に言ってもらおう」
何とも失礼な話だが。オレが怒りを買った覚えはない。
路銀を散財したり、ギャンブルへ突っ込んだことも、無駄遣いをしたつもりもない。そもそも、彼女に金の類は一任してある。オレに金銭への執着がないのも理由だが。
まさか、今更コンクールへの出場に疑問を呈したい訳でもあるまい。
……いいや、強ち間違いでもないのか? あまりにもオレが不甲斐ない演奏しかできないから、トリオの解消を?
だとしたら、ライラも同意したのか? この練習期間で二人の仲は長年の友人同士に近い距離へと変化した。
ならば、三人の不協和音をここで取り除こう決めた可能性も捨てきれない。
「オレのソロが聞くに堪えないのは分かっている。改善できる所はしておこう」
「…………違うわ」
「……? ならば何が言いたい。オレに不満があるんだろう? これでも、耳は良い」
ドクンッ、とサクラの心臓が早鐘を打った。今のは火に油を注ぐようなものだ。
皮肉屋のような口の利き方に後悔が無いわけじゃない。
生まれ持った性分は変えようもない。そも他人との関わりの薄いオレだが、言動の端々から反感を買うことも多くなかった。
だが、サクラは意に介すことなく言葉を紡いだ。
「……幻想、ポロネーズ」
ポロネーズだと? 藪から棒に何のつもりだ?
「ショパンがどうした。聴きたいのか? 英雄でもいいが、幻想を選ぶセンスも中々のものだ。いいだろう。悪いが、オレはアレンジをしない主義でな。教本通りとは言わないが、忠実にな」
真意の程は定かではないが、ピアニストがリクエストを受けて「弾けません」は音楽家失格だ。
曲がりなりにも演奏者を自負するのでれば、如何なる状態でも観衆を圧倒させるだけの演奏を披露しなければならない。
少なくとも、オレは最低限の素養だと思っている。
名声を、料金を、時間を。聴衆がいるからこそ、音楽家は成り立っている。
「座ったらどうだ。恐らく、幻想だけに留まらない。英雄まで弾く腹積もりで聴いてくれ」
つい先ほどまで座っていた椅子へと腰を下ろす。
やはり、白と黒の鍵盤の前に座ると身が引き締まる。八十八の鍵盤に、文字通り命を賭ける。
オレの生命を、情熱を、ピアニズムとして叩きつける。
返答はない。言葉ではなく、音で。
「…………ピアノが聴きたい、訳じゃないの」
「……、そうか。ならば、どういう訳だ?」
鍵盤の上に構えた両手を降ろし、身体をサクラへと向ける。
おろおろとオレとサクラを交互に見つめるライラ。彼女は視線で訴えかけている「サクラは何に怒っているのか?」と。
それは、オレが聞きたいな。
扉の前で固まっていたサクラは一歩一歩、踏みしめるように強い歩調でオレの眼前へと進み出た。
魔獣やモンスターを目前にしたような決意に満ちた双眸。
その感情の重さに、思わず息を呑む。
サクラは、こうも激情に満ちた瞳をできるのかと。
「……ラファ。貴方の本当の名前はなに?」
希うように。
請願するように。
サクラは怒りと引き換えに悲哀を口にした。
その横顔に、オレはチリリと予感した。無論、嫌な予感だ。
魔獣が忍び寄っているような、モンスターが虎視眈々とオレの命を狙っているような、避けきれない絶対の未来を。
「……、ラファエル=ヴィリーだ。それ以上でも、それ以下でもない」
「ショパンを、知っているのに?」
間髪入れずに糾弾するサクラの口調は酷く荒々しい。
オレには、彼女の真意を掴み切れない。サクラの肉体的反応から、感情や思考までを直結させられない。
どれだけ優れている感覚機能を誇ろうとも、これでは宝の持ち腐れだ。
これだけ追及してもダメなのか? と言わんばかりに悲しげに眉をハノ字に曲げて、端正な顔を悲痛に歪めて。酷く乾ききった言葉を続ける。
「ただ知ってるだけじゃないわ。ショパンはとっても難しい曲よ。一朝一夕で、それも暗譜で片手間で弾けるなんてありえない。余程のピアニスト出ない限りね……」
言葉を切ったサクラは刹那の間、逡巡しているかのように思えた。
この先に告げる胸の丈を、思いのままぶちまけてもいいのかと。それは、きっと彼女が優しいからだろう。
親友の無念を晴らすために、己が命すら賭けられるサクラらしい躊躇だった。
けれど、同時に。
彼女は踏み出す勇気と、間違いを糺そうとする正義感を秘めている。
まるで、どこかの無尽蔵なお人好しのように。他人を信じているのだ。
「貴方が凄腕のピアニストだと、合わせたから分かる。でも、それとこれと話は別よ。ラファ……貴方|は、わたしと同じ《・》異世界人でしょう?」
心臓が早鐘を打った。
今度はオレが焦る番らしい。
「……どうしてわかった?」
誤魔化すことはできない。彼女がオレの素性を看破するだけの証拠はない。物証なき心象は伝聞証拠に過ぎない。頑なに否定し続ければいいだけの話だ。
しかし、彼女は断定してしまった。
もはや嫌疑の段階を通り過ぎて、確定させてしまっている。
今更、オレが否を貫こうにも意味を為さない。
「旅の途中で口を滑らせたか? それとも、向こうの地名でも口にしたか?」
「……へ? ゃ、ぇ…………?」
厳しい批判か、さもなくば秘密を打ち明けなかった失望か。
そんな反応を予想していたオレは、見事に裏切られた。
「どうした。サクラの話だろ。どこで、オレが異世界出身だと思った」
「ぇ、ぇええ?」
心底、疑問だと。こいつは本気で何言ってんだ、と眉を顰めて言葉にならない呟きだけを残して。
サクラはただ純粋な瞳でオレを見つめていた。
「そ、その……ら、ラファ? 真面目に聞いてね?」
「ああ、オレは徹頭徹尾大真面目だ」
「ぁ、そう……? じゃあ、ラファはショパンを弾けるのよね?」
「当然だ。相応の練習を重ねたからな。とはいえ、ショパン弾きはこの世界にごまんといる。それだけでオレが異世界人だとは断定できないだろう。だから、他に理由がある。オレも気付けないボロを出した可能性がある。そうだろう?」
「い、いいえ? 違うわよ?」
何だ、サクラは何が言いたい。
名前は変えた。生粋の日本人であるオレだが、幸か不幸かオレの外見は悪人面で日本人の造詣とは些か異なる。
言葉遣いにも細心の注意を払った。日本どころか、地球の地名を可能な限り自制した。
オレの疑念に反して、サクラはより当惑を強めたようだ。
「ラファはショパンを弾けるのよね?」
「だから、それが何だ」
「だって、ショパンは異世界の、つまり……わたしたちの世界の人でしょ?」
「何言ってる。ショパンは、いいや。ショパンだけじゃない。バダジェフスカも、ベートーヴェン、モーツァルト、リスト、ガーシュウィン、チャイコフスキー、ドビュッシー。数えきれない英傑は世界共通の………………………………………………………………あ」
…………オレはとんだ大間抜けのようだ。
「ラファが骨の髄までピアニストだってのはよく分かったわ。けど、貴方の場合、愛すべきピアノ馬鹿よね」
サクラの言葉は批判ではなく呆れを含意していた。
その心遣いは非常に痛い。
ただ沈痛に項垂れるしか、できない程に。
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早朝に練習部屋へと入り、既に半日。
久方ぶりに浴びる外気は雨季らしく多湿で、今は郷愁の彼方である故郷の大気を思い出して苦笑してしまう。
ライラの屋敷は広大だ。練習部屋となる蔵から屋敷の中へと案内してもらい、応接間に三人で集まり座った。
目の前には高価な調度品の数々が並び、ローテーブルには見るからに高級そうな紅茶が配膳された。
誰に? メイドの手によって。
如何に異世界に慣れたとはいえ、本来の風土とは異なる慣習に戸惑いは隠せない。
オレの馬鹿が露呈した後では、取り繕うことさえ徒労に思えた。
「はあぇ……それにしても、異世界のピアニストで秘密がばれるなんて…………」
「わたしも、まさかショパンが異世界でも通用する、異世界でも名前が広がっていて当然のものだと思い込んでいたことには驚きだわ」
二人の視線が痛い。
ライラは同情と憧憬を。サクラは憐憫と呆れを。
両者ともに新鮮な感情をぶつけてくれる。
「慰めにもならないな。ああ、そうだよ。まったく無意識だった」
両手で顔を覆い、天を仰ぐ。黙っていた罪悪感、愚かにも考え得る限り最悪の露呈をしたバツの悪さ。
それら全てを凌駕するような安堵。
成程、オレは存外、肩の荷が降りたと思えているんだな。
「改めて、生粋のピアノ至上主義者のラファに聞くわ」
「サクラ。済まないが、訂正を求める」
「……、なに」
「オレはピアノだけではなく、音楽そのものを崇拝している。だから、音楽至上主義者か、音楽信奉者と──」
「狂信者は黙ってて。真面目に取り合ったのがバカだったわ……」
ピシャリと黙らされたオレは黙って紅茶をすすることにした。
まあ、先ずは落ち着こう。
「ラファ。わたしは今更、貴方の過去に言及するつもりはないわ。わたしを助けてくれたのは異世界人の貴方ではなくラファエル=ヴィリーだから」
神妙な面持ちで語るサクラは念を押すような口調だった。
彼女の悲願を手助けし、『獣魔帝』を討伐したのはラファエルだ。だから、結なくるについては不問にする、と。
最悪の形で露呈した今、オレに異議を唱える権利はない。
仮にもパーティメンバーであり、トリオの仲間に秘密を抱え続けてきたのだ。寛大な処置と言えよう。
「貴方が話してくれなかったのは、正直に言うと少しショックだわ。そんなに、わたしが信用ならない?」
「断じて違う。オレはラファエルだ。向こうでの名前は捨てた……こっちの世界に来てから、拭いきれない罪を被ってきたからな。素性を打ち明ける必要もないと思った。サクラの言ったように、君に出会ったのはこっちのオレだからな」
五年間。地下の怪物犇めく地獄で生き永らえ、オレはようやく日の目を見た。
光も届かない息詰まる空間で、ただ彼女との再会だけを目的に死に物狂いでのし上がってきた。
幾度となく死の寸前まで進み、一時は仮死状態に陥りすらした。あれは二度と御免だが。
それでも、無様に、意地汚くオレは生にしがみついた。
偏に、ミカエラとの約束を果たすために。
だからだろうか。時折、オレの行動指針が揺らぐ感覚を覚える。
まるで、彼女ならばどう行動するかを念頭に置いたように。
サクラとの関係値は複雑だ。オレはサクラの悲願に感銘を受け、自分勝手に仇を討った。
オレの自己満足で彼女の生きる目的を奪ったようなものだ。
けれど、サクラは恨むどころか、オレの力になってくれると言った。ヴァリアス半島へ向かう道すがらのみならず、唐突なトリオを承諾もしてくれた。
ああ、そうか…………オレは、正直に在りたいと願っているのか。
【権能】のおかげで生物に忌避され、不器用で言葉少ない不愛想なオレを仲間として見てくれるサクラに。嘘や欺瞞を介在させたくないと。
「…………成程な。オレもまだまだ人間って訳か」
「……? ラファ?」
「いいや、納得しただけだ」
人間らしさは捨て去ったと思っていた。
【技能】を持たず、運び屋ヴィリーとしての基盤を築くまで犠牲にしてきた命の数々。
一人たりとも忘れることはできない。
悪夢に視る程ではないが、ふとした時に思考へ引っかかる。
だが、後悔はしない。オレは再び、ピアノを弾けたから。
憧憬も、感謝も、請願も。
無縁だと思っていた感情に、出会えたから。
「サクラ……もし、君が良ければ。聞いてくれないか?」
「…………、同じこと。聞こうとしてたわ」
クスリとはにかむサクラ。
幾許か柔和に戻った彼女の雰囲気はオレの知る朗らかなものだった。
どうやら、赦してもらえたらしい。
「あ、あの……私も同席してよろしいですか……?」
おずおずと小さく手を挙げて問うライラ。もし否を突きつければ即座に退室する腹積りなのだろう。
トランペットを吹いている時の彼女からは想像もできない奥ゆかしさ、謙虚さだ。
この屋敷の主人は今やライラだ。多少、強く出たとしてもおかしくはない。
「当然じゃない。ライラはトリオでしょう?」
「……っ! あ、ありがとうございます……!」
ライラとサクラは友人のように微笑み、視線を交わした。
互いに育った環境が違えど、友人になれた。
今の今まで友人の一人もいなかったオレとは大違いだ。
「さて、どこから話すべきか。昔語りなんて経験がないおかげで……難しいかもな」
言葉を紡ぎつつ、記憶を探る。
最もオレが真摯に音楽へ向き合っていた頃。
ただひたすらに、求道者のように道を模索していた時期。
見えた世界、手にした世界。
一つ一つを詳らかにするように。
オレは言葉にする。




