4. イン・ブルー
ワジェンキ郊外の住宅街。
石造りの街にあって、その家屋もまた鈍重で堅牢な石壁によって境界を制定していた。
碁盤状に路地の広がる空間の一角、月並みな、どこにでもあるような家屋の一つ。
比較的大きな石造りの家に入ると思いきや、ライラは離れに案内した。
離れの内装は、蔵のような形をした外観からは想像もできなかった。
壁には一面に防音素材が設えてあり、湿度や温度を管理するために至るところに魔道具や温度計が設置されている。
楽器にとっては楽園だろう世界で、やはりというべきか、内部には所狭しと並べられていた。
部屋の中心にはグランドピアノが堂々と鎮座しており、ガラス張りの棚には楽器名の明記されたケースが几帳面に並べられている。
部屋の雰囲気が主の性格を映し出すとは言い当て妙で、この空間を創り出した人間は神経質な性分で、些かの完璧主義のきらいがあると感じさせる。
丁寧に並ぶ楽器の数々、塵一つない空間。外界の雑音など聞こえようはずもない離れ。
されど、一点。
譜面台とその周辺だけは様相が異なった。
雑多に床へ投げられた楽譜に、タオルやペンなど。異質だが、嫌悪はできない研鑽の証が、そこにはあった。
「ぇと、ようこそ……私の練習場所へ…………?」
昨日と同様のラフな装いで、ライラは疑問府を浮かべたまま両手を広げる。
奏者にとって、この空間は狂喜乱舞し、手放しで賞賛できる場所だ。
周囲への音漏れを気にせず、外部からの情報の一切を遮断し、自分の音にだけ没頭できる。
数多のプレイヤーが夢想し、終ぞ実現できなかった桃源郷が広がっているのだ。
「…………ラファ」
「ああ、何だ」
「もう一度、詳しく説明してくれるかしら?」
オレの隣で細かく肩を震わせる少女。
この世界では珍しい黒髪に、黒目。可憐だが実用的な装い。
普段なら春のうららのように、朗らかで温和なサクラだが。
強化された感覚で一々探る必要はない。今の彼女は激怒している。
かの邪知暴虐の王を打ち取らんとするマラソンランナーのように、憤怒に打ち震えているのだ。
「オレはライブに出る。そこのライラ=サマルディとな」
「は、はい……! ライラ=サマルディです…………!」
ライラが疑問と怯懦を抱えているのは、道中常に無言の圧を発し続けたサクラに恐怖してのことだ。
「第四十六回ワジェンキ・コンサート…………ライブというには規模が大きいんじゃない?」
昨日、オレはライラの提案にのった。
彼女自身はまさか簡単に承諾してもらえるとは思わず、拍子抜けしていたが。
空白期間があっても良いなら、という条件付きでオレはライラの手を取ったのだ。
だが、生憎とオレは孤高の気ままな自由人間じゃない。
冒険者であり、パーティも組んでいる。
幾ら雨季でワジェンキに足止めを余儀なくされているからといって、自由裁量にも限界がある。
とどのつまり、オレは未だにパートナーの認可を得ていなかった。
「コンクールではなくコンサートだ。規模は大きければ大きい程良い。雨季のおかげで足止めを喰らったんだ」
第四十六回ワジェンキ・コンサートは、古今東西の国々や地域から腕に自信のある者が集い数万人規模の観客の前で演奏するというもの。
ここで圧巻のパフォーマンスを演じると、大手の目に留まるらしい。
何処の世界も世知辛く、狭き門には変わりないな。
「丁度、コンサートが終わった時期には雨季も収まる。そう言いたいのね?」
「暇潰し、片手間で。そうは思ってはない。偶然の一致だ」
「…………はあ。律儀にわたしへ許可を取りに来たのは、交渉の一環ってことね」
辟易とした様子で、手短にあった椅子へと腰掛けるサクラ。
彼女を取り巻く空気は弛緩し、一触即発ではなくなった。
ライラも気が付いたのだろう、僅かばかり肩の力を抜いたようだ。
オレはサクラを事情も背景も何一つ事前情報なしで連れ出した。
偏に、彼女にライラへの偏見を持ってほしくなかった。一度だけ、サクラもライラの演奏を聴いている。
音は雄弁だ。だが、それだけでは伝わらない人間性もある。
オレが印象を歪めることなく、サクラが本心で認めてほしい。
つまるところ、オレのエゴだな。
「一つだけ、条件があるわ」
「な、なんでしょうか……」
サクラは、ライラへと声をかけた。
オレにではなく。
もはやオレは諦められたのか、それとも警戒しているのか。
見据えるサクラの眼光は鋭く、いつにも増して重圧を感じる。
「あなたは軍楽隊の存在に疑問を抱いている。だから、音楽で異議を唱えたい…………そうね?」
「はい。人の心を慰め、活力を与える。それが、音楽です。決して、血塗られた栄光を讃美するものであってい訳がありません」
信念は固い。
オレへ語った内容こそ同じだが、理路整然と纏まりを得ている。
ライラはライラなりに。己の原点を再度、見直したのだろう。
何のために吹くのか。
何故、既存の体系へ挑戦状をたたきつけるのか。
一見すると、臆病でおどおどと内省的な人間にも見える。しかし、彼女の深奥に根付いたマグマのような激情は胡乱げなオレをすら動かした。
彼女の音を聴いてみたい。
彼女と合わせてみたい。
そう思わせるだけの実力が、あるのだ。
「……ラファは梃子でも動かない。だから、わたしの要求は一つだけ──わたしも参加する」
「……っ!」
「楽器は」
幾許かの驚愕はある。
まさか、否を唱える訳でもなく、諦観する訳でもなく。
自身も参加するというのだから。
「ライラ……だったわね。いいかしら?」
「へ? あ、はい。どれでも大丈夫です」
家主の許可を取り、サクラが足早に向かった先はガラス張りの棚だった。
弦楽器がケースの中に眠り、主人の帰りを今か今かと待ち望む中で。
彼女は迷うことなく、とあるケースへと手を伸ばした。
棚の上へと衝撃を押し殺し、まるで我が子を抱く母親のような丁寧で優しい手つきのままにケースを開いた。
そして、くすり──と。
愛器をうっとりとした表情で眺めるように、静かに微笑を洩らした。
「ヴァイオリン。これでも、結構弾けるのよ」
初めて見たはずだった。
サクラが過去にヴァイオリンに触れていたのか、知らないはずだった。
しかし、ヴァイオリンと弓を構えたサクラの姿は。
とても様になっていた。
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役者は揃った。
直ぐにでも八面六臂、面目躍如、獅子奮迅の大躍進……とはいかない。
二重奏でなく三重奏へと。人数が増えればその分、音にも厚みがでる。表現の幅が広がる。
しかし、それぞれの音を合わせるための必要となる時間は人一人分多くなる。
故に、トリオを結成してオレたちに求められるのは各自の音を把握することだ。
ペース、強弱、表現、性格。
ハンドルを握ると狂暴になる人間がいるように、楽器を握ると正反対の印象を受ける者は往々にして存在する。
「さて、ライラの演奏は一度聞いたことがある。オレも、サクラも。だが、ライラはオレたちの音を聞いたことがない。だから、先ずはソロで相性を確認していこう」
同時に首肯する二人。
ライラの腕は知悉している……と断言すると実に傲慢だな。一度二度聞いただけで当人の実力を推し量れる程、オレは才能に満ち溢れていない。
だが、少なくとも好意的には思われていないステージで一曲を吹き切り、数万人規模のステージへ上がる実力があるのは分かる。
ならば、オレとサクラに、ライラと並ぶだけの底力があるのか。
今日はそれを計る日と言える。
もし、ライラの御眼鏡に適わなければ。
トリオは解散。
冷徹、恩情の欠片もない。
そう思われても仕方ない。しかし、ステージではそれが当然なのだ。
頭一つ抜きんでる技術と言えば聞こえはいいが、調和を乱すだけの夾雑物になりかねない。
ならば、早々に見切りをつけたほうがいい。
下手すぎてもダメ。上手すぎてもダメ。
シビアでシリアス。妥協する余地がない。ライラが立とうとしているステージは、現実と感情を切り離す必要がある。
「な、なら……わたしから演るわ」
存外、彼女も緊張しているのだろう。
一室には衣擦れの音も、些細な息遣いすら大きく聞こえる。
今もしきりに振り続ける雨音は、防音設備を貫通することなく部屋全体へ静穏を与えている。
鼓動すらも巨大に感じる部屋にあって、サクラは息を吐き、ヴァイオリンを構えた。
まるで、呼吸と同じに。
自然と吸い込まれるように佇立したサクラは、緊張など嘘のように動悸が収まった。
安定したのだ。
「……ふぅ──」
音がオレの頬を叩いた。
揺蕩う空気が、一挙に引き締まった。
いや、違う。吸い込まれているのだ。
ソナタ形式に奏でられる旋律が、目覚しい程に鮮烈な音が、オレとライラの意識を一息で簒奪した。
アレグロ・マエストーソ。変ホ長調。
まさか、ヴァイオリン協奏曲第一番か。技巧を要求されるパガニーニを選択する覚悟は、サクラらしいというべきか。
それにしても、正確なタッチだ。
ミスもなく、雄弁に語る旋律は彼女の心象をオレにこれでもかと伝えてくれる。
本来ならばオーケストラ方式で演奏するこの曲は、ヴァイオリン一挺では薄弱でやもすれば、到底聞けたものじゃなくなる。
しかし、サクラの技量が、情熱が、堂に入った音圧が、聴き手の意識を掴んで離さない。
チラと、ライラへ視線を向けてみると陶酔した信者のように呆けた表情で固まっていた。
凛然と奏でるサクラの立ち姿は、感嘆と感涙に衝撃を受ける。
第一主題から第二主題へと変化する手前、ふっと息を吐ける刹那で。
ライラは息をすることを忘れたように、静かに頷いた。
納得したのか。それとも、感動したのか。
すると、コーダに向かう中でサクラの右腕は忙しなく動く。
瞳を閉じて旋律にだけ身を委ねる彼女の脳裏に何が去来しているのか、オレとライラには分からない。
しかし、音は素直で正直だ。
沈み込んだ本音を浮き彫りにする。
サクラがヴァイオリンを弾いていた世界は、帰還の目途すら立っていない遥か対岸の世界だ。
訳も分からず召喚された異世界で翻弄された末に、身を焦がす憎悪を小さな身体へと押し込み。そして、抜け殻となった心を別の目的で埋めた。
それでも、彼女の空虚さが消える訳もない。
郷愁、感傷。
そして、終幕。
特徴的な左手によるピッツィカートによって、十六分余りの独奏に幕が下りる。
「………………、凄い」
全力疾走したのだろう。体力の温存など考えず、たった一曲の第一楽章に全霊を注いだのだろう。
肩で息をして、額を伝う汗を拭うので精一杯なサクラに、ライラの賞賛の声は届いていない。
しかし、彼女の感想と、オレの本心は違わない。
サクラはトップクラスのヴァイオリニストだ。
正確さ、精緻さ、堅実さ。
圧倒的な努力量に裏打ちされた圧巻の表現力。
気後れしてしまう程の技量だった。
「凄い……! サクラと言いましたか! 感動しました!」
「久しぶりに弾いたけど……反省点は多いわ」
熱に浮かされ、感情の赴くまま感想を口にするライラ。対して、苦虫を噛み潰したように渋面を作るサクラ。
未だ熱情の余韻が残る空間で、当の奏者は完成に釈然としない様子で眉を八の字に曲げている。
召喚されて以降、ヴァイオリンに触れていなければ、少なくとも一年以上の空白があるはずだが。
彼女の演奏はそれを感じさせなかった。
「さあ、わたしは弾いたわ。ラファ。今度は貴方の番よ」
「そういえば……ラファさんは何を?」
期待の込められた瞳。
散々好き勝手に評価して、トリオの練習を仕切るオレが、何を魅せてくれるのか。
聞くに堪えないなら酷評されるだろう。
いや、まさか。二人の性格は知悉しているつもりだ。
サクラはヴァイオリンの音色にも表れている。とても機微に聡く、賢明。
亡き親友のために己が命すらも投げうつことのできる高潔な精神も持ち主。
ライラのトランペットは激情的で、浮足立つような、幻想の海に耽溺できるような。とかくに印象的な音だ。
父親と実兄の誤りを正さんと、音楽のもたらす影響を信じて疑わない。
オレも、覚悟を決めるとしよう。
椅子から立ち上がり、二人を一瞥する。
汗を拭うサクラと、キラキラと惜しみなく期待を額面へ表すライラ。
歩を進める。
目指すべき場所は一つ。
オレの還る場所。
オレが甦る場所。
「まさか……ピアノ?」
ああ、そうだ。期待外れだったか、サクラ。
ピアノと言えばクラシックの代名詞。
トランペットやヴァイオリンと合わせられるのはオーケストラだけだと。
「スタインウェイ……いや、それ以上だな」
ブリッジを立てて響板を開く。
内部はそれだけで一種の芸術品だ。フレームや材質はかつての世界ではお目にかかれなかった素材だろう。
弦やハンマー一つとっても嗜好が凝らされている。
湿気に強い釜蛙の革に、強度に優れた十六蜘蛛の糸。
鍵盤の素材は……分からんな。だが、最高品質であることだけは確かだ。
八十八の鍵盤を見下ろして、椅子を調整する。
ピアノを弾くのは六年振りだ。
召喚される前は毎日気が狂ったように弾いていたというのに。
日々生きるか死ぬかのレースに強制参加させられて、必死に生き永らえた結果。オレは再びピアノを弾けるまでの地位を得た。
報酬なのだろうか。
もし、相当の褒美というのなら。
「…………存分に楽しんでやろう」
椅子の高さを調整し、脚をペダルにかける。
トラックを見てクラウチングスタートを構える陸上選手のように、スタート台に上った競泳選手のように。白鍵と黒鍵を眼前に、オレの姿勢は自然と定まった。
指を打鍵にかける。
演目は決めていなかった。
しかし、無意識にオレの指はとある一小節へと収まった。
成程、やはり。そうなのか。
オレは未だに未練がましく、弾きたいと望むのか。
打鍵を弾く。
ペダルを踏む。
音を奏でる。
両の指を介してオレの脊椎に暴力的なまでの情景を思い出させる。
耳朶を震わせる音の濁流は筆舌に尽くしがたい。
六年の空白は無視できない。ミスタッチが目立ち、コンクールでは歯牙にもかけられない出来だ。
ピアノ奏者は一日でも休むと本調子を取り戻すのに一週間はかかる。とはいえ、それは一般論に過ぎない。己を過大評価する訳ではないが、生憎とオレのピアニストとしての経歴は胡散臭い。それに、異質だ。
だから、通念的な尺度はオレには通じない。
オレの指は遺憾なく動いてくれた。躍動するように、血肉沸き起こるように。
弾けば弾く程、願えば願う程、狂えば狂う程、オレの指は血気盛んに踊り出す。それにしても、素晴らしいピアノだ。
教えてくれる。次に打つべき箇所を、次なる表現方法を。
これは、麻薬だな。
最高品質の素材を使っているから。そんな陳腐な理由ではない。
このピアノには製作者の魂が吹き込まれている。
確か、ストラディバリウスは奏者を狂わせると聞いたことがある。
今までヤマハやスタインウェイの高品質のピアノで弾いてきたが、異世界の、トランペット奏者の演奏部屋に鎮座しているピアノには勝てない。
「あぁ……素晴らしい」
主題を具現する。
作曲家の願いを、情熱を表現する。
それが、奏者の仕事だ。
その名を冠するコンクールで、オレが弾いた曲。課題曲に指定されていたから弾いたに過ぎないが。
それでも、彼の故郷を想い馳せる願いまでを無碍にした気はない。
ただ、ひたすらに。伝統的な概念に立脚し、オレなりの解釈で弾いただけだ。
審査員はそれを良しとはしなかった。
同然だ。彼ら彼女らは祖国の文化的英雄に最大の敬意を払っている。
由緒正しき会場で、ファイナリストに名を連ねたからこそ分かる。
かの国の、かの英雄は、相応の歴史に裏打ちされているのだ。
一時はツーリストと──競争の色合いが強いコンクールでは物見遊山のプレイヤーを観光客と揶揄する──著名な音楽雑誌に書かれたが。
誰もがオレの演奏を聴けば、一端のプレイヤーだと認めた。
だが、大衆の反応など知らない。
オレにとって、必要なのは観客の反応だけだ。
液晶画面の遥か先の人間でも、訳知り顔で批評を繰り返すマスコミやメディアではない。
会場まで足を運んで、安くないカネを払って、オレの演奏を聴いてくれる人たちに対して。
オレは最大の敬意を払う必要がある。
「……成程な。こういうのが好みか?」
今の聴衆はたった二人。
僥倖だ。コンクールならいざ知らず、彼女たちはオレを計っている。プレイヤーとしての技量を。
サクラは伝統と格式を重んじる。
ライラは自由と平等を愛している。
一見すると、相対する正反対の事象だと思える。
表象だけ眺めるとそうだろう。
だが、真実は違う。
幻想ポロネーズ変イ長調。
フレデリック=ショパンの名曲は、クラシックの金字塔であり、異なる感情を並列させて奏でる必要に迫られる。
まさに、伝統的で連綿と歴史が紡いできた完成形だろう。
音楽の、ピアノの世界しか知らなかったオレなら。
きっとサクラには届けられても、ライラには驚愕以外の感情を与えられなかった。
どうだ、ライラ。
響くか? 聴こえるか?
ただの旋律ではない。
譜面をなぞり、作曲者の意図を伝えるでも、歪曲するでもない。
一つの目的に拘泥することなく、オレの全てを伝える。
ああ。やっぱり。
音楽は、楽しいな。




