北海の盟約
青い光は夜の海を染めていた。
港に集まった人々は、誰一人として言葉を発せなかった。
海の中央に浮かぶ巨大な影。
その二つの目がゆっくり閉じると、光は次第に弱まり、やがて霧の中へ沈んでいった。 しかし恐怖だけは残った。 神話が現実になったのだ。 翌朝、王宮では再び緊急会議が開かれた。 ナギ、ヤシロ、ヒメカ、イズモ、そしてシオンが円卓を囲む。 誰も疲労を隠せていない。
「昨夜見たものは何だった。」
ヤシロが重い声で問う。 シオンは静かに答えた。
「封印された海神――我々は『アオノカミ』と呼んでいる。」
「倒せるのか?」
その問いに、シオンはすぐには答えなかった。
「かつては倒せなかった。」 部屋が静まり返る。
「だから封印した。完全に滅ぼす方法は見つからなかった。」 ナギは拳を握った。
「では、どうすればいい。」
「封印を維持するしかない。」 シオンは続ける。
「だが封印は三百年前から弱まり続けている。昨夜の出現は、その限界が近い証拠だ。」 ヒメカが口を開く。
「地下神殿の記録にもありました。封印は二つの王家の血によって保たれる、と。」 ナギは顔を上げた。
「二つの王家?」
「アシハラとヒノモトです。」 つまり両国の王族が協力しなければ封印は保てない。 長年敵対してきた二国が。
◇ 三日後。 北海の無人島。 ナギは小規模な護衛隊を率いて海へ出た。 イズモが最後まで反対したが、ナギは譲らなかった。
「これは罠ではない。」
「なぜそう言い切れるのです。」
「タケルは国を守るために戦っている。昨夜の光を見たなら、彼も理解したはずだ。」 波は荒かった。 灰色の雲が空を覆っている。 やがて岩だらけの小島が見えてきた。 草木も少ない、不気味な島だった。 その浜辺に、すでに一隻の船が停泊していた。 赤旗は掲げられていない。 ヒノモトの船だ。 ナギは剣の柄に手を置きながら上陸した。 島の中央には古い石造りの祭壇があり、その前に一人の男が立っていた。 タケルだった。 黒い鎧は着ていない。 戦場ではなく、交渉の場だという意思表示なのだろう。 護衛たちは互いに距離を取る。 緊張が張り詰める中、タケルが先に口を開いた。
「来ると思っていた。」
「こちらもだ。」 しばらく沈黙が続く。 波の音だけが聞こえた。 やがてナギが言う。
「昨夜の光を見たか。」
「見た。」 タケルの表情は険しい。
「そして我々の神殿でも記録を確認した。」
「どんな記録だ。」
「海神の封印には東西二つの王家が必要だと。」 ナギはヒメカの言葉を思い出す。 やはり同じ記録がヒノモトにも残っていた。「つまり我々は敵同士でありながら、同時に封印を守る役目も負っていた。」 タケルが言う。「だが長年の戦争で、その役目は忘れ去られていた。」 風が吹き抜ける。 ナギは祭壇を見つめた。 そこには古代文字が刻まれていた。 地下神殿のものとよく似ている。「ここは何だ。」「封印の一部だ。」 タケルが答える。「島全体が結界になっている。」 その時だった。 地面が小さく震えた。 ゴゴ…… 全員が顔を上げる。 海の沖合が青く光り始めていた。「また来る!」 イズモが叫ぶ。 光は前回よりも近い。 海面が大きく盛り上がり、巨大な渦が生まれる。 そして海中から黒い触手のようなものが現れた。 太い。 船の帆柱ほどもある。 触手は海面を叩きつけ、巨大な波を生み出した。「下がれ!」 タケルが叫ぶ。 だが遅かった。 波が島へ襲いかかる。 兵士たちが吹き飛ばされる。 ナギも岩に叩きつけられた。 息ができない。 海水が口に入る。 ようやく立ち上がると、触手が島へ伸びていた。 兵士の一人が巻き取られ、海へ引きずり込まれる。「助けてくれ!」 悲鳴。 次の瞬間、海中へ消えた。 ナギは剣を抜き、触手へ斬りつけた。 ガンッ! 刃が弾かれる。 硬すぎる。 まるで鉄の塊だった。 タケルも駆け込んでくる。「離れろ!」 彼の長剣が触手を斬った。 今度は浅く傷が入る。 青い液体が飛び散った。 触手が激しくうねる。 その隙に兵士たちが退避した。「普通の武器では通らない!」 タケルが叫ぶ。 シオンが祭壇へ走る。「封印石を起動させる!」 彼は古代文字に手を置いた。 だが石は光らない。「駄目だ、力が足りない!」 ヒメカが気付いた。「王家の血だ!」 ナギとタケルが顔を見合わせる。 次の瞬間、二人は同時に祭壇へ向かった。 剣を納め、手を石へ置く。 冷たい感触。 すると石の紋様が青白く輝き始めた。 ゴォォォ…… 島全体が震える。 海の光が祭壇へ吸い込まれていく。 触手が苦しむように暴れた。 そして巨大な渦が逆向きに回転し始める。「今だ!」 シオンが叫ぶ。「封印を閉じろ!」 ナギとタケルは力を込めた。 光が爆発的に広がる。 海面を覆う青い膜。 巨大な影が沈んでいく。 最後に二つの目がこちらを見た。 怒りとも悲しみともつかない視線だった。 やがて海は静かになった。 渦も消える。 残ったのは荒れ果てた島と、倒れ込む人々だけだった。 ナギは息を切らしながら座り込んだ。 タケルも同じだった。 二人はしばらく無言だったが、やがてタケルが口を開く。「一時的に封じただけだ。」「分かっている。」「次はもっと強く現れる。」 ナギは海を見つめた。
静かな海だった。 だがその下には、まだあの存在が眠っている。「だから協力しろ、と言うつもりか。」 タケルが言う。「そうだ。」 ナギは答えた。「アシハラとヒノモトが争っている場合じゃない。」 タケルは少しだけ笑った。
「敵同士が同盟か。祖先が聞けば笑うだろうな。」「いや。」 ナギも小さく笑う。「祖先たちは最初から、それを望んでいたのかもしれない。」 風が吹いた。 灰色の雲の切れ間から、わずかに陽光が差し込む。 長い戦争の時代が終わるのか。 それとも、さらに大きな戦いの始まりなのか。 二人にはまだ分からなかった。 だが一つだけ確かなことがある。 アシハラとヒノモトは、もう単なる敵ではなかった。 海の底から迫る災厄に立ち向かうための、運命共同体となったのだ。 その頃、遥か西の海。 セイラン船団の旗艦では、一人の男が静かに海を見つめていた。 長い銀髪。 青い瞳。 シオンよりもさらに年老いて見える。
「封印が再起動したか。」 男は低く呟く。
「ならば急がねばならぬ。」 彼の背後には、巨大な青い石が置かれていた。 その石の内部で、微かな光が脈打っている。 まるで生き物の心臓のように。第十四話へ続く――




