第30話 ダンジョンへ②
「あの動画をアップしたのは、朝日くん。きみだね?」
頭の中が、真っ白になった。
過去に、僕と零士さんがアップした動画。
帝都大学心理学部のとあるゼミ発表について、盗作疑惑を追及するものだったけど、結果は事実無根だった。
長門は、言ってみれば被害者だ。あの事件を、覚えてないはずがない。
けれど、その投稿主が僕であると、まさかこの場で気づかれるなんて……
……いや。よく考えたら、別に不思議ではない。動画が炎上した際、僕の実名は世間に拡散されてしまっていたから。
例えば、長門が騒動にひどく腹を立てていて、実行犯の名前を記憶していたというのも、ありえない話じゃない。
でも、父さんのことを知っているのは、どういうことだろう。
「いやぁ、何も責めようというわけじゃない。
あの炎上事件を主導したのが、五十鈴零士であったことは、既に世間にも広く知れ渡っているよ。
それに、朝日くんは当時、中学生だろう?
ネットで相当なパッシングを受けていたことは私も把握しているし、そういう意味ではきみも、巻き込まれた被害者と言えるだろうねぇ」
考えがまとまらない間に、長門が話を進めていく。
質問でも、謝罪でもいい。何か言わなければ、と焦るのに、声が出ない。
「しかし、五十鈴零士と接点のあったきみが、赤城彬良くんのレポートがなくなったこのタイミングでこの場を訪れたという事実は、実に興味深いねぇ。
教えてもらえないだろうか? 今日、きみがここへ来た、本当の理由を――」
思わず、視線が泳ぐ。
右隣の朱里を見ると、彼女は今にも泣き出しそうな顔で、不安げにこちらを見つめていた。
すると、逆側の隣席から、まるで鈴が鳴るような声がする。
「すみません、長門先生。
今日はもう時間がありませんので、これで失礼します。
後日きちんとアポイントをとった上で訪問いたしますので、お話の続きや炎上事件のお詫びは、その時とさせてください」
燈が、しっかりとした口調で言った。
その際、長門の目に入らない角度で、スマホの画面をこちらへ見せる。
【REMNANT:今すぐ席を立て】
――彬良くんの、メッセージ?
今の話の流れは、危険だということ?
「……ふぅむ。たしかに、茶も出さずに話し込んでしまったねぇ。
仕方ない。名残惜しいが、今日はここまでとしようか」
そう言って、長門が立ち上がる。
「門まで送ろう。一応、きみたちは無許可の部外者だからねぇ」
◇ ◇ ◇
研究室の扉を出ると、夕刻の光が廊下を薄い橙色に染めていた。
長門は先頭を歩きながら、ゆったりとした歩幅で階段を降りていく。
僕たちは、その少し後ろを黙ってついていった。
途中、踊り場の窓から差し込む光に、長門の白髪がふわりと浮かびあがる。
その姿は、柔らかいのか冷たいのか、どちらとも判別できず――ただ不気味な印象だけが残った。
「朝日くん、先ほどの話だがねぇ」
長門が、僕に話しかけてくる。
「五十鈴零士の話は、私も興味があるのだよ。
大学を卒業後、彼がどうなったのか、今何をしているのかを含めて、ねぇ。
また近いうちに、話をしようじゃないか。
その時、新しい情報があれば、教えてほしいねぇ。私のほうでも、わかったことがあれば共有しよう」
僕は、おそるおそる口を開く。
「……わかりました。
一応、行方がわからなくて心配していると言ったのは、嘘ではありません。
零士さんが今、どこで何をしているのか、本当に知りませんし、知りたいと思っています」
僕の言葉に、長門が無言で笑みを返す。
穏やかな表情の裏に、どうしようもなく重たいものを含んでいるような気がした。
正門が見えてくる。
外へ続く影のような形をした鉄門が、夕陽の中で黒く沈んでいた。
「では、ここまでだ。気をつけて帰りたまえよ」
そう言って、長門は立ち止まった。
彼へ向き直り、僕と朱里は軽く会釈する。
その直後だった。
長門の背後へわずかに回り込むようにして、燈が一歩、静かに踏み出した。
鞄に隠したスマホを、長門の背中すれすれへ。触れるか触れないかの距離まで近づける。
しかし――
風が切れるような音がした。
長門がまるで最初から見えていたかのように、半歩分だけ体をずらした。
ゆっくり歩いていた時の印象とはまるで違う。
柔らかい動きの中に、異様な素早さがあった。
「……おや?」
長門の横顔が、燈のほうをちらりと向く。
「今――何をしようとしたのかね?」
一瞬で、空気が凍りついた。
朱里が息を呑み、僕の心臓が跳ねる。
すると、燈は何事もなかったかのように鞄を肩へかけなおし、
「何も。最後、先生にお礼を言おうとしただけです」
と、淡々と微笑んだ。
その声音には揺れがなく、逆にそれが不自然に思えるほどだった。
少しの間、燈の手元と表情を、長門は興味深そうに眺め――
「……そうかねぇ。いや、失礼。私の思い違いかもしれん」
急にいつもの調子に戻った声で、軽く笑った。
その笑みはどこか乾いていて、底がまったく見えない。
「では、また近いうちに」
長門はひらりと手を振り、くるりと背を向けて歩き出す。
さきほどまでの緊張が嘘のように、何事もなかったかのように。
だけど、僕には見えた。
長門が建物へ戻る際、こちらを一度だけ振り返り。
夕暮れの光の中、その目だけが光も影も映さず、ただ僕らを「観察」していた。
それからしばらく、僕たちは動けなかった。
燈に目をやると、彼女の指先は、わずかに震えていた。




