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第29話 ダンジョンへ①

 薄い陽光が、心理部棟の3階にある、研究室を淡く照らしていた。

 応接スペースに通された僕・燈・朱里は、一列に並んでソファーに座る。ヤマトは外で待たせていた。


「コーヒーでいいかね?」


 長門の問いに、僕は首を振る。


「すぐに帰りますので」


 そうか、とだけ言って、長門は対面のソファーに座る。


「――さぁて、赤城彬良くんの話、だったね。


 彼はまだ2年生だったが、私の担当するゼミに仮所属していてね。

 だから彼のことは、よく覚えているよ。優秀な学生だったねぇ」


 長門はそこで一度言葉を切り、細い指で眼鏡の位置を直した。

 その仕草はごく自然なはずなのに、いやに「観察されている」感じがした。


「お兄ちゃんは、ゼミでどんな活動を?」朱里が言った。


「私の研究を、手伝ってもらっていたんだよ。調べものや、資料の整理などをねぇ」


「どんな研究ですか? 先生の専攻は、どういった分野なのでしょう?」と燈。


「わかりやすく言えば、人の『悪意』が社会にもたらす影響、かねぇ」


 その瞬間、僕は息を止めた。

 隣にいる燈や朱里にも、緊張が走るのが肘越しに伝わってくる。


 ――悪意。

 たった2文字のその言葉が、胸の奥のできものを押されたように、じくりと痛む。


 以前、ヤマトが言っていた。悪意は伝播する、と。

 だからこそ僕は、街の悪意レベルを高めてしまった過ちを償うために、MALICEを使って人々の悪意を下げる活動をしているのだ。


 そんな、常識では考えられない仕組みが、世の裏に存在する一方で……

 この人は、まるでその仕組みを裏付けするような研究をしているという。


 これは、偶然なんだろうか。


「……3人とも、いい反応をする。興味はあるかね?」


 ほんの少し表情を緩めつつ、探るような声音で長門が尋ねてきた。

 背中に冷えた汗が、一筋落ちる。


 ――この人、何をどこまで知っている?

 わざわざ僕たちを部屋に呼んで、何を探ろうとしているの?――


 燈や朱里に視線を送ることすらできず、沈黙だけが場に張り付いた。


「……ふぅむ。実は赤城くんついては、少し妙なことがあってね」


 長門の声が、低く落ちた。

 朱里が小さく背筋を伸ばしたのが、視界の端でわかった。


「生前、彼がまとめてくれたレポートが、封筒ごと消えたのだよ。ごく最近のことだ」


 男の鋭い眼光が、こちらに向けられた。

 何か知らないか? とでも問いかけられているような、無言の圧力を感じる。


 ――封筒。


 昨日、悪意ホットスポットから取得した動画。

 帝都大学の封筒を、零士さんが抱えていた様子が、ひとりでに脳内で再生される。


「……それは、誰かに盗まれたってことですか?」


 僕の質問に、長門は首を振る。


「この建物は、セキュリティが緩くてね。

 監視カメラもないし、詳しいことは何もわからないのだよ。


 ――盗まれたのだとわかれば、まだ気は晴れるんだがねぇ」


 どうして、盗まれたと思ったのか。

 そう、暗に問われている気がした。


 ――やっぱり、この人は危険だ。


 彼は、頭がいい。この場に長くいたら、すべてを見透かされる。

 そんな確信めいた直感が、熱を帯びて脳にまとわりついてくる。


 でも、まだ帰れない。

 僕たちは、零士さんの情報を、まだ何ひとつ得られていない。


 この人は、彬良くんの先生だという。

 そして、彼のレポートを盗んだのは零士さんかもしれない。


 2人と接点がある長門は、とても重要な人物だ。何かしら情報を得られる可能性が高い。

 危ないかもしれないけど、そのリスクを冒す価値は十分にある。


「……ぶしつけなことをお聞きしますが。

 五十鈴零士って名前に、心当たりはありますか?」


 研究室の空気が、ぴたりと止まった。


 燈が横でわずかに肩を震わせ、朱里が息を呑む気配がした。

 僕自身、言い終えた瞬間、心臓が跳ね上がる。


 長門が、眼鏡の奥で、確かに瞳孔を細める。


「――どうして、その名前を?」


 誰だ、とは聞かれなかった。


 僕は確信する。

 彼は零士さんを知っている、と。


「少し、知り合いでして。ここ1年ほど、行方がわからなくて心配しています」


「なぜ、私に尋ねたのかねぇ?」


 探るような長門の問いに、僕は沈黙する。

 不用意には返せない。でも、何も思いつかない。


「ふぅむ、まぁいいさ。五十鈴零士は、この大学の卒業生だよ。

 もっとも、心理学部ではなく、彼は理工学部だったけどねぇ」


 ――えっ?


 燈や朱里が、いっせいにこちらを見る。

 でも、僕は首を横に振るしかできない。初めて聞く情報だったからだ。


「情報工学科に在籍していたのだけど、プログラミングの速さは、常軌を逸していると聞いたねぇ。

 彼を『天才』と称する人間も、多くいたよ。


 当時の担当教授は、彼を大学院に進ませたかったようだけど、結局は学部を卒業後に就職し、ソフト開発のエンジニアになったようだねぇ」


 そう。

 零士さんがプログラマーの仕事をしているのは、僕も知っていた。


 その仕事ぶりも、家に行った時に見せてもらったことがある。

 恐ろしい速さでコードを記述していく姿に、畏怖すら抱いた。


 零士さんは、帝都大学の出身だったのか。

 しかも、周囲から「天才」とまで言われるような、すごいエンジニアだったなんて……


 そう物思いにふけっていたところで、


「ところできみ、名前はなんて言うのかな?」


 と、長門が僕に尋ねてきた。

 少し迷いはしたものの、答えないという選択肢はさすがになかった。


「朝日悠、と言います」


「朝日……?」


 長門の目の色が変わったのが、手に取るようにわかった。


「……もしかして、きみの父は警察官かねぇ?」


「え? どうしてそれを……」


 その反応で、十分だと思ったのだろう。

 長門は、答えを得るまでもないと言わんばかりに、静かな声で続ける。


「なるほどねぇ。

 去年、我々のゼミの発表を貶めるような『誤報』がネットに上がって、大炎上したことがあった。


 ――あの動画をアップしたのは、朝日くん。きみだね?」


 喉の奥が、ひりつく。

 心臓を、冷たい手で掴まれたようだった。

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