第28話 帝都の影④
翌日の、秋の陽射しが傾きかけた午後。
とある大学の正門に、僕たちは立った。
鶯谷駅から、歩いて10分。
零士さんの動画に居ても立ってもいられなくなり、学校帰りに制服姿のまま来てしまった。
キャンパスの奥には、古びたレンガ造りの講堂が見える。
かつて東京の学問の象徴として建てられたこの大学も、今では周囲の再開発に取り残されたように、時間の流れが止まっていた。
「……思ったより静かね」
肩にかけたバッグを直しながら、朱里がつぶやいた。
彼女の声が、石畳を渡る風にかき消される。
「夕方だから、人が少ないだけかも」
燈が言った。
彼女の目は、門柱に掲げられた『帝都大学』の文字を見上げている。
金属の表札は光を反射し、眩しくもどこか冷たかった。
――さて、ここからどうしよう。
ろくに作戦も立てず、ここまで来てしまったけど――
『それで、どの建物に行くんだ?』
肩に乗せたヤマトの声が、スマホからした。
燈と朱里が、同時にこちらへ視線を送る。
えっ、僕が決めるの?
「……心理学部に、行ってみましょうか。あてがあるとすれば、それくらいですし」
「制服のままで大丈夫なの? やっぱり、着替えたほうがよかったんじゃ……」
「時間がなかったし、仕方ないよ。
もし不審がられたら、『五十鈴零士って人を探してる』って言って、どうにかならないかな?」
心配げな朱里に向かって、燈が言った。
零士さんの名前は、出すべきなんだろうか。僕は不安に思った。
◇ ◇ ◇
ホームページのマップに従って、心理学部のある棟までやって来た。
煉瓦の壁に蔦が絡む、歴史を感じる建物。
けれど近づくほどに、どこか空気が重い。
「……静かすぎない?」
朱里が、足を止めた。
僕も同じ違和感を感じていた。何か「圧」のようなものが、胸の奥にまとわりつく。
そこでふと、スマホが微かに震えた。
ポケットの中で、MALICEアプリの通知音が鳴る。
【悪意を検知しました 対象:不明】
心臓が、跳ねる。
画面を開くと、心理学部棟の周囲にだけ、赤色の薄い波紋が広がっていた。
点ではなく面で、じわっと染み出すように。
――何、これ。
「悪意ホットスポット?」と燈。
『違う……密度が変だ。「誰かひとり」じゃない。もっと局所的で、強い源がある』
肩の上で、ヤマトが低く言った。
何を言っているかはわからない。けれど、言葉では言い表せない不穏な空気が、たしかにこの場所に漂っていた。
――まるで。
誰かが僕たちを、ずっと見ているみたいな――
朱里が、肌をさする。
「……視線、感じる?」
その瞬間だった。
建物の影が、微かに揺れた。
僕らが振り返るより先に、低く落ち着いた声が響いた。
「――おやぁ? その制服姿、高校生かね?
構内見学の予定など、聞いてはいなかったが」
階段脇の柱の陰から、白髪混じりの男が一歩、足を踏み出してきた。
まっさらな白衣に、銀縁の眼鏡。深い皺。知性のにじむ目。
ただ、その眼光の奥に――透明な氷のような硬さを感じた。
「用件を伺ってもよろしいかな、きみたち」
微笑みは柔らかい。
だけど、悪意の主はこの人だ、と僕は直感した。
それに。この男、見覚えがある。
たぶん炎上事件の時に、インタビューを受けていた映像か何かが、ネットに上がっていたはずだ。
燈が、僕の袖をそっと引いた。
アプリの画面を、僕に見せる。
【モンスターネーム:ロゴスフォール
悪意スコア:52(警戒域)
悪意タグ:分析 狂信 反照】
僕は、息をのんだ。
悪意スコア、52。さほど高くはないはずなのに、数字では説明できない威圧感が、この男にはある。
――どうする? 何て返せばいい?
相手は、MALICEが「悪意アリ」と認定した人物だ。
零士さんのことも含めて、こちらの情報は迂闊に話すべきじゃないかもしれない。
そうした思惑に反し、朱里が突然、一歩前に出た。
続けて、予想外のことを言い出す。
「無断で入ってしまい、すみません。あたし、赤城朱里って言います。
兄――赤城彬良のことを知りたくて、勝手ですが来てしまいました」
はたして、この発言は好手か悪手か。
燈と、視線が合う。彼女も同じような思いなんだろう。
たしかに、炎上事件の首謀者である零士さんの名前を出すよりは、穏便に話ができそうだ。
亡くなってしまった兄のことを知りたいという、動機も自然だ。
たぶん、朱里自身も同じことを考えたからこその、アドリブなんだろう。
これは、彼女からしか言い出せない話だ。
僕たちが思いついていたとしても、兄を失った朱里のことを思えば、とてもお願いできる内容ではないから……
「――ふむ。赤城、彬良くんか。
あぁ、覚えているよ。うちの学部の生徒で、たしか去年ごろ、列車事故で亡くなってしまった子だ。
そうか。きみは、彼の妹なのだね――」
銀縁の眼鏡の奥で、男の瞳が、鋭く光った。
朱里の緊張が、言葉にせずとも伝わってくる。
――この人、何を考えているか、まったく読めない。
やっぱり、無計画で来てしまったのは、軽率だったんじゃ――
「兄のことを、知りたいと言ったね? 何を知りたいのかな?」
朱里が、助けを求めるような視線を、僕に向ける。
考えがまとまらずにいると、
「申し訳ありません。勝手に入ったこと、お詫びします。
こちらの大学の、教員の方でしょうか?」
と、燈がたずねた。
「あぁ、名乗るのが遅れたね。私は、こういう者だよ」
そう言って、男は首からぶら下げたカードを、こちらへ掲げた。
『長門時宗 帝都大学 心理学部 准教授』
――やっぱり、僕はこの人を知っている。
長門准教授。
零士さんが「パクリ疑惑」で晒したゼミの、担当だった教員だ。
一陣の風が吹く。
背筋を氷の指でなぞられたような感覚が走った。
「ふむ、肌寒い季節になってきたねぇ。
立ち話もなんだ。私の研究室は、この棟の3階にある。
少し事情を伺うだけなら時間を取れるが――どうかね?」
背後の夕陽が、長門の影を長く伸ばした。
それが、僕らの行く先を示す矢印のように見えて、嫌な汗が背中を伝った。




