9-1.砂漠(菊田)
もうすぐ熱く、乾燥した夏が終わるらしい。バルドゥーバの南に位置するこの砂漠にも雨期は一応来るらしく、今菊田が見上げている空にもこれまで見られなかった雲がぽつぽつと浮かんでいる。もっとも雨にまでなることは稀だそうだ。それでも、あのきつい太陽が多少なりと遮られるのはありがたいことだった。
「変な砂漠……」
顔をあげれば、強い日差しが顔にあたった。まだ暑い風が吹いてきて、菊田の黒とピンクベージュのツートーンとなった長い髪を揺らした。
菊田の目の前には砂と棘のある灌木が広がり、所々に大岩が転がっている。
ある岩の影からトカゲそっくりの生き物が、八本足の節足動物を追いかけて走り出た。トカゲはターゲットを捕らえると、すぐに岩陰に戻って行く。
それらの木と岩の間を人が縫って歩く隙間もないほどに埋めているのは、様々な大きさの丸い多肉植物だ。サボテンのような棘には毒があり、時期が来れば根を自ら枯らして風でコロコロと転がっていくとあって、人は危なくてこの砂漠を歩けない。
ただ、この辺で放牧している、真珠色の角を持つ山羊に似た生物トッカは、その毒に耐えられる上に、舌でとげを器用に抜いて植物本体を食べることもできる。そして、それは菊田にとってひどく幸運なことだった。
『キクタ様ー、「ヒヤケ」しますよ。また、ええと、かさ、でしたっけ? あれ、作ります』
幼い声に呼ばれて振り返った。浅黒い肌に赤い髪の子供、ベニが、心配そうに自分を見ている。ここに追いやられたばかりの頃、そう言って泣きわめいていたのを覚えられているらしい。
『もう、こ、こわだる?の、やめたからいい、です。そして、それ、忘れて』
『はい! キクタ様が、そう言う…じゃなくて仰る? なら、もちろんやめます』
顔をひそめながら言えば、八本の長く細い犬歯を見せて子供が笑った。
彼の背後に、台地の上から落ちてくる落差三十メートルくらいの細い滝が見えた。そこから菊田たちのいる方向に向けて、川と呼ぶのも申し訳ないような水量の水が流れてくる。
それでも砂漠の中では貴重な水だからだろう。そこを中心に両岸にはちょっとした林があって、青々とした背の高い木が涼し気な枝葉を揺らし、可愛らしい花をつけた草がその林床を覆っている。
すすけた色合いの砂漠の中、川辺のこのあたりはひと際色鮮やかだ。もっとも、あの滝の水源になっている台地上のオアシスの周辺はさらに美しく、生き物に満ちていて、その畔にはバルドゥーバ女王の滞在用の城があった。
菊田がいるのはもちろんそんな城ではなく、台地の下にある粗末な家畜小屋、『牧童舎』だ。
隙間だらけのみすぼらしい建物で、同じ屋根の下にいる家畜はもちろん、川沿いにある屎尿置き場の臭いも風に乗って漂ってくる。
でも、バルドゥーバの城と違って、嫌な目で見てくる人間もあれをするなこれをしろだの、あっちに行くなこっちに行けだの、うるさく言ってくる人間はいない。
「欝々とされているようですから、気晴らしに別荘に行かれては?」
福地に言われたという寺下が、バルドゥーバ城の自室に閉じこもっていた菊田のもとにやって来たのは、繁初の期の終わり、日本での五月のことだ。この世界に来てしまってから、二か月ほど経っていたように思う。
久しぶりに出会った寺下は、バルドゥーバ風に美しく化粧し、華やかな衣装に身を包んでいた。いつもおどおどして、菊田を含む周り機嫌を窺っていた頃とはまったくの別人で、言葉だけは丁寧だったけれど、あからさまに自分を見下してきた。
「言いにくいんですけど、稀人への期待に応えられない方に、ここにおられると、福地君や私もちょっと……」
「今、街で汚い病気が流行っているみたいで、下民や奴隷が死んでいっているそうなんです。それを稀人のせいという人が出てきていまして、私や福地君はそうではないと言って納得してもらえているんですけど、菊田先輩や佐野さんは……ねえ」
『下民』と『奴隷』――この世界で人権のない人々につけられた蔑称を当たり前のように使った寺下に驚いた。大人しい内向的な子で、人を見下すような振る舞いとは、無縁だと思っていたのに。
サッ茶を出そうとした菊田の世話人が、茶器を軽くテーブルにぶつけてしまった際は、さらに露骨だった。
「この程度のこともちゃんとできないのね。こんな“の”しかつけてもらえないなんて、菊田先輩って……」
そう呟き、世話人の子のみならず、菊田をも嘲笑した。
「っ、さっきからあんた何様のつもりなのよっ」
自分より確かに下にいたはずの寺下に馬鹿にされた――。
その事実に頭が真っ白になって、気付けば怒鳴りつけていた。その後は寺下の連れていた兵たちに寄ってたかって取り押さえられ、部屋に軟禁、数日後にここにホダの引く馬車で移送された。
ここには城にいた時のような、付きっ切りの監視はいなかった。それもそのはず、ここは砂漠と棘に毒のあるサボテンモドキに囲まれた陸の孤島で、足を鉄甲で覆ったホダを利用しない限り出られない。
あれから、菊田はここでオアシス一帯を警護しているバルドゥーバ軍に監視されながら、トッカの管理を任されている奴隷たちと暮らしている。
川沿いの木立の緑から目を離し、再び砂漠へと目を向けた。
『そろそろ呼び戻しましょうか?』
期待に満ちた目で、ベニが菊田に笑いかけてくる。頷けば、ベニは嬉しそうに胸元につるしていた小さな笛を取り出し、口に当てた。透き通った音が青い空に響き、散っていく。
『来ました来ました』
緑や茶の円いボールが転がる乾いた大地の地平線に、砂埃を伴う黒い点が現れ、どんどん増えていく。トッカの群れだ。熱せられた空気でその影は皆揺らいで見える。
『ふふ、みんなまん丸になりましたね、やっぱりキクタ様の言う通りだ。おーいっ』
トッカの周囲にはホダに乗った牧童たちがいて、ベニの呼びかけに手を振り返してくる。あのうちの一番先頭にいる片腕のない男が、牧童たちのリーダーの男だ。
『……キクタ様』
にこにこしながらその光景を見つめていたベニが、ふと真顔になった。
『俺、キクタ様がここに来てくれて、本当に、本当によかった。『おい』とか『そこの赤髪』とか呼ばれていた俺に名前をくれた。トッカが馬鹿すか死んでって、俺らも殺されるはずだったのに、理由を教えてくれた。飯だって毎日食える。タジボーク神は俺らを助けてくれなかったのに』
ベニは真剣な顔をして、菊田を振り返った。
『タジボーク神なんか嘘っぱちだ。神さまはキクタ様だって、みんな言ってる。俺もそう思う』
「……」
まっすぐに言われて菊田は目を逸らす。後ろめたすぎて彼の目が見られない。
『キクタ様?』
『……誰、聞いている、わからない。その話、だめです』
『あ、そっか』
えへへ、と笑ったベニが、トッカの群れに向かって駆けていく。あの子が数か月前、鞭で打たれても、死んだような目でのろのろとしか動かなかった子だとはとても思えない。
近づいてくる牧童たちはリーダーの男だけでなく、手や足、目や鼻、体のいずれかが欠けていたり、皮膚が爛れていたりする。奴隷の中でも“使えなくなった”者たちがここに集められると聞いた。
「……」
最初は菊田を見るたびに顔を伏せ、怯えていた彼らの顔に、今は信頼があるのを見て、菊田はまた視線を落とした。
(私はこんなふうに尊敬されていい人間じゃない――)
この世界に来てから、いや、来る前からの振る舞いを思い出して、また消えたくなった。




