9-2.屈折(菊田)
なぜあんなにひどくふるまえたのだろう…?
菊田がA大の大学院の試験を受けたのは、就活がいまいちうまく行っていなかった菊田に、A大出身の教授が声をかけてくれたからだ。真面目に過ごしていたのを先生が見ていてくれたことも嬉しかったが、正直な話、A大と聞いて菊田は内心ではしゃいだ。どうせ行くなら名の通った大学がいい。受かれば今度は就職できるだろうし、幸い自分は見た目もそう悪くない。うまくいけばエリートの旦那候補をゲットできるかも、と思った。
先生に助けてもらいながら一生懸命勉強して、首尾よく受かって浮かれたのも束の間、新しいキャンパスで菊田は明らかに浮いていた。
元の大学もかなり真面目なところだった。でも、新しい場所の授業や研究のレベルはそこより高いようで、何を話しているかわからないことがある。その場を何とかやり過ごして、あとで必死に調べたりしたけど、全部ばれているような気がして怯えた。
その上、これまでの菊田には当たり前だったおしゃれも、そこでは少し派手目に見えたらしい。陽キャ系の子たちから声をかけられるようなったけれど、別の、ぶっちゃけてしまえば、レベルの落ちるところの出だと知られると、いつも微妙な空気が流れる。それに焦った。
そんな時知り合ったのが、二つ下の江間だった。親睦会という名の合コンで「彼女、学部B大だって」「へー、ロンダだってやつ?」「いい男、見つかった?」とあからさまに揶揄された時に、「やりたいこと考えてわざわざ選んで、ちゃんと試験受けて来たんだろ」と言って、さりげなく庇ってくれた。
気後れしてしまうくらい整っていて、頭のいい人の集まる大学の中でも、特に優秀な人のようだった。当然周りにはいつもレベルの高い子がいて、しかも二つも年下。いくら菊田が努力していると言っても、付き合うのは厳しそうだった。でも話しかければ、雑な扱いをせず、ちゃんと応じてくれる。
ちょっとしたやりとりを彼とできるようになって幸せに浸っていた時、彼が菊田の所属する研究室に入ることが決まった。ひょっとしたら、と期待を持った直後に、彼の目が誰を追っているのか、気付いてしまった。
同じ研究室に入ってきたその人と、菊田は面識があった。
教授に必要な知識が少し足りないと言われて履修した学部の集中講義で、厳しいと評判の講師に問いを投げられた彼女は、講師が満足する答えを淀みなく返していた。菊田には全くわからないその講義の試験前、頼み込んで貸してもらったノートは、本当に同じ授業を受けていたのだろうかと思ってしまうほど、わかりやすかった。
長い黒茶の髪は染められた形跡もなく、いつも適当にくくられている。スタイルは悪くないが、服も野暮ったくてぱっとしない。顔立ちは取り立てて変なパーツもないが、人目を引くほど整っているというわけではない。そのくせ、まともに化粧もしていない。常に冷静で、無表情で、いつも独りぼっち。印象に残るものがあるとしたら、百七十センチはある身長と、切れ長の黒茶の瞳に時々見える強い光だけだった。
江間君はなぜあんな子に、と思ってしまって、それから彼女のことを聞きまわった。そして、彼女の妹のことを知って……嗤った。資産家の娘なのに、家を出され、老いた祖父の世話をしているという彼女は、両親の元にいる美しい妹に付きまとわれていて、それゆえに常に一人でいる。江間も近寄れない。噂通りの光景を実際に見た時は、愉快で仕方がなかった。
彼女の妹は、頭が悪いのも性格が悪いのも、自分と同じ。違い――圧倒的な美貌とお金は生まれついてのものだから仕方ない。そう思えた分、宮部より妹の方がましだった。
江間の横に宮部だけは置きたくない――最初小さかった悪意の芽は、同志を得てどんどん育っていった。
ある飲み会で、宮部に無理強いをしてはどうかと笑いながら話していた男の子たちがいた。酒で調子に乗っているだけと皆が適当に流そうとしていたのに、江間だけは殺しかねない勢いで彼らに切れた。
嫌味を言われても絡まれても、苦笑するぐらいでうまくかわす彼が見せた殺気が怖くて、宮部に実際の手出しをすることだけはやめたけれど、彼女は誰に何を言われてもほぼ無反応。時折見せる変化も、せいぜいため息や軽蔑の視線ぐらいだった。
だから「これぐらい彼女には大したことない」と思ってしまった。今思えば、“これぐらい”は自分なら耐えられないものだったというのに。
彼女の悪口を影だけでなく、本人を前に口にした。露骨に嘲笑ったこともある。研究室でのちょっとした雑談などから外すのはもちろん、彼らとやる私的な集まりには、絶対に呼ばなかった。彼女の連絡手段は、大学が学生皆に用意するメルアドしかないから、と勝手に言い広めて、連絡用のグループからも外した。全員ではなかったけれど、少なくない人たちが菊田と一緒に彼女を除け者にし、そうでない人たちも彼女を遠巻きにした。
それなのに、そんな扱いを受けている宮部に江間が引くことはなく、むしろさりげなくフォローしていた。やればやるほど、江間だけは宮部に近づいていく。
教授が同級生の二人に共同研究をさせたり、学会などの手伝いで二人を組ませたりしていたことも、贔屓のように思えて不満を募らせた。
なのに、宮部はそれをありがたがる様子もない。全部宮部を孤独に追い込んだ菊田のせいなのに余計ムカつき、菊田は見えないところでの嫌がらせを加速させた。
上に施錠されている屋上しかない階段に、江間が時々行くのは知っていた。一人になりたい時に行くのだと気付いて、彼の秘密を知った気がしてとても嬉しかった。
だからこそ菊田しか知らないはずの彼の秘密のその場所に、宮部も行くことがあると気付いた時、頭に血が上った。彼に会いに行っているのであれば論外。偶然でも許せない。
「なんでこんなとこにいるの」
「こんなところと仰る場所に、先輩ご自身もいらっしゃったのに?」
ある日彼女を追いかけて、踊り場にいたところを捕まえて問い詰めたが、彼女はいつものように冷めた目で無視しようとする。
「とぼけないでよ、ここは江間君の大事な場所なの」
「へえ。では、二度と近寄りません」
「っ」
望んだ言葉そのものだったのに宮部が露骨にうんざりとしているのがわかって、かっとなった。
知っている。江間は他の誰を嫌がっても、宮部がここに来ることだけは多分嫌がらない。なのに――。
ムカついて、ひっぱたいてやろうとしたら、あっさりよけられて、もっと頭に血が上って、掴みかかって……もみ合いの末、彼女が階段から落ちかけた。
咄嗟に手すりを掴んで落下を免れたものの、珍しく怒った顔をした彼女にやり過ぎたと悟った菊田は、先に「宮部さんに突き落とされそうになって……」と周囲に言い回った。
あまりのひどさに教授たちが気づいて、最終的には注意まで受けたし、出身大の恩師にも怒られ、江間にもはっきりと苦言を呈されたというのに、それでさらに宮部を恨んだ。
いい加減おかしい、やり過ぎていると、なぜ、なぜ気づけなかったのだろう……?
助け合うべきだったのに、彼女の方は助けようとしてくれたのに、菊田はこっちに来てからも同じことを繰り返し、結果彼女は死んでしまった――
ちょっと思い知らせてやるだけのつもりだった。
明らかにおかしなこの世界にいても化け物に襲われても冷静な彼女と、同じく冷静だった江間の距離は、こっちに来て急速に縮まっていくように見えた。邪魔する宮部の妹はもういない。泣きわめき、ただ不安を口にするだけの自分たちより、落ち着いて話せる者同士で話すのは当たり前だったのに、その間には福地もいたのに嫉妬した。
洞窟で夜、火の番をしていた江間が、火と皆から離れた場所で眠る宮部に自分のコートをわざわざかけに行き、壊れ物に触れるようにその頬に指を落としたのを見てしまってからは猶更だった。
夕刻の森に置き去りにしてみたら、さすがの宮部も泣くんじゃないかと、冗談めかして口にしたが、佐野と寺下が面白がって乗って来た時、菊田ははっきり喜んだ。それは内心の願望通りだった。
そんなことをしていい場所ではなかったと、化け物に襲われた時にようやく思い出したが、そこでも菊田は助けに来てくれた宮部と協力するより、彼女を再度置き去りにして、自分が助かることを選んだ。
洞窟へと必死に逃げ帰って、江間を見つけて縋り付いた。安堵したのも束の間、彼はすぐに彼女がいないことに気付いて、問いただしてきた。
焦って取り繕うこともできず、口々にしどろもどろに返した自分たちに、「つまり、置き去りにした上、助けに来た宮部をまた置いて逃げた……」と呆然と呟いた後だ。
「――最低だな」
江間は憎悪と軽蔑を露にそう吐き捨てると、飛び出していってしまった。行かないで、と頼んだのに。
そして、二人とも戻ってこなかった。稀人を迎えに来たバルドゥーバ人に探してもらって見つかったのは、大量の血と宮部の髪、そして、その脇に残った江間の手形だけだった。きっと彼は最後まで彼女を庇ったのだろう……。
「……」
あの夜の凄惨な光景がまた頭に浮かんで、菊田は耐えきれなくなって、両手で顔を覆う。
≪わ、私のせいじゃないわ、悪いのは化け物でしょ、宮部さんだってちゃんと逃げればよかったんじゃない…っ、彼女のせいで江間君まで……っ≫
(彼女のせいじゃない、私のせいだ。罪を犯したのに、それを認めることすらしなかった。私はどこまでも最低だ――)
『……キクタ様?』
「っ」
ベニの声に菊田は慌てて顔をあげる。いつの間にか牧童たちが戻ってきていて、みなが心配そうな視線を向けてくれている。その気遣いに泣きそうになった。
『ご気分が悪いですか? ここは暑いですし、小屋に戻りますか?』
『いや小屋より川辺の方が』
『私、果実水、取ってきます』
足を引きずりながら走っていくのは自分と変わらない年の、空色の瞳が美しいソラだ。けれど、顔を主人に焼かれたそうで、その目はもう一つしか残っていない。
「私は悪くない」とただ泣きわめいていた菊田に、自分のやったことを思い出させた人たちだ。
ただでさえひどいのに、ここにきて粗末にまでなったと文句をつけた食事、それを補おうと彼らが自分たちの分を差し出してくれていたことを後で知った。
籠り切って鬱になっていった自分を心配して外に誘ってくれた。日焼けしたくないからと断ったのもその時だ。そうしたらヤシに似た木の葉を編んで、見よう見まねで日傘を作ってきた。
来たくて来たわけでもないのに、何ができるわけでもないのに、稀人だからと勝手に崇めて勝手に期待している、とイライラして、当たり散らした。
ある日面と向かって彼らに怒鳴った時、隣国ディケセルの出身だという女性カズニが『確かに私は親から、稀人はとてもえらいと聞きました。でも、そんなの困りますよね、知らない国にいきなり来たら、誰だってつらいのに』というようなことを言った。
頭を石で殴られたような気がした。なんだか無性に恥ずかしくなって、また引きこもった。
その頃のことだ。
『トッカがまた死んだ。もう七頭目だ』
『見たこともないのに、どうやって世話しろって言うんだ』
『次に死ぬのは俺たちだな……』
『女王の髪飾りのために、殺されるわけか』
彼らが角をとるために、あのヤギに似た生き物の世話をしていること。それがうまく行っていないこと。このままそれが続けば殺されることを知った。
また目の前で人が死ぬ――初めて周りを見た。それからは「今度こそ殺したくない」という一心だった。




