8-2.転移、その後
待ち構えていた役場のグルドザ、サゴォルをやり過ごし、郁と江間は門番に見送られて役所の館の裏口を出た。日はすっかり暮れていて、秋の冷たさを含んだ風が首を撫でて行く。
目の前のささやかな木立の中には小さな小川が流れていて、せせらぎが聞こえてくる。祖父母と暮らした家の傍らに流れていた川の音とそっくり同じで、郁は一瞬自分がどこにいるかわからなくなった。
「……」
だが、空を見上げれば、黒い木の葉の影の向こうに広がるのは、日本ではまず見られない星の海。そして、青の小望月と黄の半月が距離を置いて向かい合っている。
「……親戚か」
いつになく静かだった江間が口を開いた。相変わらず察しがいい、と苦笑して、「祖父の兄の子。どうしているだろう、と口にしたことがあった。多分その子だ」と彼を見れば、闇に慣れた目に困っているような顔が映った。
その顔を見たら、言葉が口をついて出た。
「祖父、宮部小太郎の本名は、コトゥド・リィアーレ……リィアーメの方が近いかな。とにかくディケセルの、それなりにいい家の出のようだった。三人姉弟の末っ子だったそうだよ」
慣習はもちろん違っていたのだろう。けれど、育ちの良さ――自省と自制を持ち、思慮深く、知を尊び、他者を思いやる、その姿勢は世界が異なっても変わらなかったようで、一生独身でいるつもりだったという祖母の桜子は、「絶対にこの人と思ってしまったの」と笑っていた。
「ディケセル王女、現王の大伯母にあたるトゥアンナの護衛だった彼は、トゥアンナがバルドゥーバの王子との婚姻を嫌ってあちらの世界に逃げるのに、付き合わされた」
郁は夜空を見ながらつぶやく。瞬く星々は悲しいほどに美しい。
「彼女はあちらの世界、日本で、自分を保護してくれた資産家の男と結ばれ、息子を設けた。その後祖父は、その資産家の男の姉である祖母と結ばれて、母が生まれた」
「……お前のばあさん? どっかの大学の教授だったって聞いた」
「祖母の父は可愛がってくれたそうだけど、あの年代で勉強したくて仕方ない女の人ということで、変わり者扱いされていたって。言語学をやっていたから、最初はディケセル語に興味を持って、連日祖父たちのところに押しかけていたんだそうだ」
「……明るい、愛情深い人だった?」
「うん、すごく可愛がってもらった。というか、何で知ってる?」
「なんとなく」
言い当てられて、郁は少しだけ笑うことができた。
詳しく聞いたわけじゃない。でも、あの生真面目な祖父をトゥアンナから引き離し、別の人生を歩ませようと決意させてしまうのは、あの祖母にしかできなかったのではないか。
笑う祖母を見る、祖父の視線を思い出す。笑っているのは祖母なのに、祖父自身がひどく幸せそうで、彼女への愛しさが伝わってきた。祖父は郁を大切に慈しんでくれたが、それとは全く違う種類だったように思う。それは逆も同じで、郁はそんな二人を見るのが、とても好きだった――。
「その二十何年後、トゥアンナの息子がコトゥドの娘に手を出して、私生児として生まれたのが私」
「結婚しなかったのか?」
「トゥアンナが王女である自分の息子と、“使用人”の娘が結ばれるのを反対したと聞いている。あとは、彼女は私の祖母を嫌っていたから、その辺の感情もあったんじゃないかな。結婚を許すくらいなら死ぬと周囲を脅したそうだよ」
「妹は?」
訊ねられて郁は苦笑を零した。痛ましいものでも見たかのような顔をした江間が、「言いたくないなら言わなくていいぞ」と言ってくれて、それで普通に笑うことができた。
「それで私は母方の祖父母のもとで育てられたけど、両親はその後もこっそり付き合っていたらしい。四年後に妹が生まれて、彼女故にトゥアンナたちは、両親の結婚を許したそうだ。私の扱いはそのままだったけど」
郁の一番古い記憶は、美しい母が自分に会いに来て、抱きしめられた時のものだ。
その次の記憶は彼女が来ると聞いて、楽しみで表で待っていた時のものだ。“父”と共に現れた彼女は可愛い赤ちゃんを抱いて、幸せそうに歩いてきた。
そして、応接間の外の薄暗い廊下のシーンに繋がる。ふすまを隔てた向こうの空間で、落ち着いた優しい口調で話すのしか聞いたことのない祖母の桜子が、母たちにひどく冷たい声で何事かを告げていたこと。口数が多くないだけで、いつも温かい祖父コトゥドの声が、今にも破裂しそうなものだったこと。そして、なんとなく「お母さんがいるのはあの赤ちゃんだけで、自分はいらない子なんだ」と悟ったこと。
「……その話だと、なんであれがお前に付きまとうのかわからん。普通逆じゃね?」
あの美しい妹を心底嫌そうに「あれ」呼ばわりする人間は、とても珍しい。
「その辺は私にもよくわからない。最初は妹のこと、本当に可愛かったんだ。お人形さんなんて目じゃないほど整っていたし、めったに会えないのに懐いてくれて、何度も会いに来てくれた。好いてくれていると本気で思ってたんだ……」
だから、妹の佳乃が郁の本来の呼び方である「アヤ」ではなく、こっちのほうがいいと「カオル」と呼び始めた時も止めきれなかった。そのうち妹に言われたからと、父母もそう呼び始める。
≪名は体を表す、あなたの名は光と言う意味よ。おじいさまの国の言葉なの≫
そう言っていたのは、育ててくれた祖母の桜子だった。だから、両親にはやめて欲しいと言っていたのに。
「けど……その頃から見下されていたのかもしれないな。あの子は私がどう思うか考えるなんて、発想自体ないと思う」
そうと知ったのは十年前、シャツェランのことがあった時だ。妹はシャツェランに、郁の名前は本当は「カオル」だと吹き込み、トゥアンナは祖父に騙されて日本に行った、その点でも郁が嘘をついている、と告げた。
なぜそんな嘘を言ったのかと問い詰めた郁に、トゥアンナと自分がお姫様だから、と妹は真顔で言った。噛み合わない答えに、質問の意味が解っていないのか、答えをはぐらかしているのか、と思っていたが、しばらくして違うと気付いた。
郁がシャツェランと会わなくなってからも、佳乃はわざわざ郁のところにやってきては、こんな話をしただの、美しいと言われただの、王族の真名を教えてもらっただの、話していた。
別に聞きたくない、他の誰にでも話せばいい、と拒絶した郁に、佳乃は心底不思議そうに「シャツィを知っているのは、お姉様しかいないのですから」と答え、「それより昨日の夜の話ですが」とにこにこと続けた。
人の気持ちがわからないとかいうレベルじゃない、この子はそもそも人に感情があることすらわかっていないかもしれない、と思いあたって、怒るよりぞっとした。
だから、彼女にはシャツェランや郁に対して、嘘をついたという認識などなかった。事実も道徳も倫理も彼女の中ではまったく問題ではなく、人は皆、自分の要望を満たすべき存在でしかない。そして、自分が満たされることが彼女にとっての“正しい”――彼女が欠片の悪意もなく、郁を含めた他人を自分が好きにしていいままごと道具のように扱う理由だ。
「お前ともだが、聞けば聞くほど、お前の祖父さん祖母さんと“あれ”が繋がらん……」
呻くように口にした江間に、「トゥアンナとは繋がらないか」と言えば、彼も得心したような顔をした。
「祖父は一度もトゥアンナのことを悪く言ったことはなかった。悪くとられるようなことも含めて一切。彼らがあっちに渡った時の状況を私があまり知らないのも、祖父が話すのを避けていたからだ」
先ほど内務処長からリィアーレ一族の話を聞かされた時、一瞬激昂したように見えた郁が今静かに祖父を語る様子を、江間はじっと見ている。
「その辺を教えてくれたのは、当のトゥアンナだ」
一瞬目を眇め、「胸が悪くなるだけで、帰るのには役に立たない情報ばかりだったけど」と郁は続けた。
トゥアンナが“ヒキガエル”のようなバルドゥーバの王子との縁談を嫌って、侍女数人とまだ見習のグルドザ数人を連れて、惑いの森に入ったこと。イェリカ・ローダに襲われて、侍女一人を残して皆命を落としたこと。そんな状況で思惑通り駆け付けくれた護衛のコトゥドが見事そのイェリカ・ローダを倒し、トゥアンナを救ったこと。コトゥドと結ばれる運命にあると思ったのに、霧の中に入って行き着いた先の日本で、父方の祖父に出会って、“二人に求められ”、翻弄されたこと。結局トゥアンナは父方の祖父を選び、コトゥドは“妥協して泣く泣く”郁の母方の祖母桜子と結婚したこと――。
「トゥアンナは終始一貫全部自分、だ。自分自分自分自分――捨てた国やそこに住む人々はおろか、森で死んだグルドザたちや、あちらに連れていかれ、故郷を焦がれて命を絶った侍女のリョーナ、運命を狂わされた祖父、残された彼らの家族も、彼女の“ロマンス”の舞台装置でしかない」
顔を歪めて、「リョーナさんのことなんて、名前すら憶えていなかった。悪いなんて一切思っていないから、ああも能天気に語れるんだろう」と続ける。
「――あの女の血が流れていると思うと、吐き気がする」
数えるほどしかないトゥアンナとの面会で、毎回そんな話を聞かされた。その横で、目をキラキラさせてその話をせがんでいた妹も、にこにことその光景を見つめていた両親も、みんなみんな気色が悪い。
「お前はトゥアンナに似てない」
「……」
憎悪を込めた吐き捨てに、静かな断定が返ってきて、郁は視線を江間に合わせた。樹冠の合間から月明かりが射しこんで、彼の彫りの深い顔の陰影を際立たせる。
「似ていない」
「……」
江間ならそう言ってくれる、そう知っていて口にしたような気がして、自分の卑怯さにますます嫌気がさした。
「…んな顔するなって」
苦笑した江間の手が頭に落ちる。
「大事なのは誰の血を引いているかより、どういう自分でありたいか、あろうとするか、だろ? 俺は、宮部、お前が好きだ」
≪自分を好きになれるように行動するの。いい? 特に迷った時こそ、自分を好きでいられるように行動するのよ≫
≪……私、自分のこと、好きだったことない≫
≪あらそうなの。私は郁のこと、大好きよ≫
「……」
彼は祖父コトゥドだけではなく、祖母の桜子にも似ている。宥めるように頭を撫でる手に、改めてそう悟ると、郁は唇を左右に引き絞って、込み上げてくるものを堪えた。
(なら、なおのこと、絶対にすべきことを成し遂げなくては――)
郁は江間の掌の下から、彼の顔を見つめ、口を開く。
「私は江間が嫌いだ」
「……い、や、お前が「実は私も」とか言うとは、まったく期待してなかったけど、さ、すがにそれ、どうなんだよ……」
盛大に顔を引きつらせた後、かくりと肩を落とした江間に、郁は笑みを漏らす。そして、「江間、」と改めて彼を呼んだ。
「んだよ」
すねたような顔に、ついくすりと笑いを零した。こうやって救われるのもいったい何度目だろう。
「ありがとう、サゴォルの件も」
「……別にお前のためってわけじゃない」
内務処長との面会から戻ってくるのを待ち構えていたサゴォルを、江間がうまくかわしてくれたことに託けて、感謝を伝える。最後の一音は、唇を尖らせてそっぽを向いた彼の耳に聞こえないよう、わざと声を落とした。
「恩、返すからな」
「だからいらねえっての。お前のそれ、どうせろくなもんじゃないし」
「リカルィデの台詞じゃないけど、お前は本当に失礼だ」
ひと際強く吹いた風が、木立を鳴らして吹き抜けていった。せせらぎの音がそれに合わせて歌を奏でる。
「……帰ろうか」
「ああ」
一歩踏み出せば、ごく自然に歩調が合わさった。
「リカルィデ、気を揉んでるだろうなあ、あいつ、かなり心配性だし」
「確かに。帰って、おかげでうまくいったと伝えて、褒めまくって……いい子いい子する?」
「また子供扱いするなって喚くぞ」
郁はくすくすと音をたてて笑った。
「それすら可愛いんだけど、本人が気づくの、いつかなあ」
「多分まだ先。しかし、なんつーか、意外だな、お前、子供とか、年下の人間嫌いなんだと思ってた」
これも多分妹のことだろう、とあたりをつけて郁は肩をすくめた。
住んでいる地域すら違うのに、わざわざ郁の大学にまで来て、江間を含めた郁の周囲の人間に、ちょっかいをかけていく彼女の存在は、良くも悪くも知れ渡っている。
「年下が嫌いなんじゃなくて、年に関係なく嫌いな人が嫌いなだけ。リカルィデは好き」
あの子も人が良くて損をするタイプだ、祖父や江間みたいに。だから、あの子のことも……。
「好き、ねえ……」
「江間もリカルィデ、可愛いだろう?」
江間こそ本当の妹のように接している。
「まあそうだけど。……言っとくけど、違うからな? そういう趣味とかいう話じゃないからな?」
「何も言ってませんが?」
「妹!」
ニヤリと笑って見せると、器用に片頬だけ歪ませた江間に額を小突かれた。
自宅へと林を進めば、木々の合間から建設中の石垣が見えてくる。キャンプに向かって開かれていたこの場所は、あれによって隔てられようとしている。バルドゥーバの侵攻があるかもしれないという噂は、きっと信憑性のあることなのだろう。




