7-6.窮鼠
「そんなに怒んなよ。頬にキスするぐらい、欧米じゃ挨拶だろ」
「ここは欧米じゃないし、生粋の日本人のくせに。けど、怒ってはいない」
「……怒ってるじゃねえか」
「怒ってない。しつこい」
せっけん作りをしていた目の前の家に入り、リビングにあたる場所で、郁と江間は何度目かしれないやり取りを繰り返す。
役所の端にある木造の粗末な小屋には、キャンプのキャビンと違って、板張りの床がある。真ん中には、火鉢、ゴーゴが中央に埋め込まれたテーブルがすえてあって、その四方にクッションが配置してあった。
江間と郁が対面に座り、リカルィデがその間で眉をひそめながら、二人を見比べている。
「怒っているかと言えば、怒っているように思うけど……そんな話をしている場合じゃないと思う」
あからさまな呆れを含んだリカルィデの声に、郁は口をへの字に曲げると、江間から背けていた顔を正面へと向け直した。
「睨んでるじゃねえか。せめて「なんであんなことした」ぐらい、聞こうぜ……」
「睨んでない。……「なんで」もわかってるから聞かない」
つい視線を伏せてしまえば、声の調子まで下がった。
わかっている、勘違いなんかしない。親密な関係であると思われていれば、二人で行動したがっても不自然だとは思われない、それだけのことだ。江間にはあれぐらい大した問題じゃないのだろうと思うと、真っ赤になった自分が情けなくなる。
「絶対わかってない。大体お前、なんであいつに女だってばれてんだ」
「わかってる。そもそもばれてない」
声音を低めた江間を平坦に遮って、「そういう趣味だそうだ」と告げれば、江間は鼻白んだ。
「ええと、それはつまり……」
「趣味は好みのこと? つまりサゴォルは男の人が好きってこと? なら、なんでエマじゃないんだ?」
理解できるが、したくないという顔をした江間の横で、リカルィデはあっさりと事実を受け入れる。が、彼女の言っていることも大概失礼だ。
おまえの影響か、とばかりに江間を睨めば、彼は「だからなんで俺を睨む……」と肩を落とした後、「――ちょっと待て」と勢いよく顔を上げた。
「そもそもなんでそんな話になった? 既に口説かれたってことか?」
「くどく……? いや、同性愛者と打ち明けられて、どう思うか聞かれたから、別にいいんじゃないか、と答えただけだ」
「はあ? お前はほんっとに一体どこまで鈍いんだよっ。向こうは完全にその気になってるぞっ」
「その気も何もどのみち私には関係のない話なんだから、同性愛だろうと異性愛だろうと勝手にやればいい」
郁を睨む江間と、その彼に対して露骨に眉をひそめる郁の間に、リカルィデは「だからそんな場合じゃない」と言いながら入ってきた。
十三歳になったばかりの子に呆れ混じりにたしなめられ、さらに気まずくなった空気を替えようと、郁は目の前の火鉢の火を起こす。五徳の様なものを炎の上に置いて、香草茶の茶葉と水の入った鍋をその上にかけた。
温められた水がゆらゆらと対流し始め、室内に優しい香りが広がっていく。
「それで今晩の件だけど、ミヤベは確定として、エマも行くのか? 行かないほうがいい気がするんだけど……」
「行く」
「だって、あのグルドザのあれは結局考え違い、じゃなくて、ええと」
「勘違い――でもどのみち同じだ。宮部をあいつと二人きりにさせる気はない。それに、」
リカルィデの心配を、いつものごとく軽くいなしていた江間は、唐突に語調を変え、「どのみちいずれ呼ばれるさ」と薄く笑った。
「……既に疑われていると?」
「稀人のうち二人が死んだってのは、俺たちがそう思うように仕向けたからだ。状況を常識に照らし合わせれば、そう思い込むだろうってな。だが、実際は死体すらない。聞く限り用心深く、疑い深い性質の王弟であれば、俺たちが死んだという点から疑う可能性は、十分にある。あの恐ろしく強い爺さん、ゼイギャクだっけ? 彼らがもし生き残っていれば、なおさらだ」
「……」
疑問に思ったことをしつこく追及してきた、幼いシャツェランの青い瞳を思い出して、郁は目を眇めた。
「実際えらいさんが来るの、早すぎるだろ。疫病がまだ収まりきっていないってのに」
「つまり確信はないまでも、稀人がいるかもしれないと考えて、網を張っている……」
「そ。で、俺たちはそこに引っかかったわけだ」
「……見捨てるべき、だったのかな」
リカルィデの泣きそうな声に、面談での振る舞いを考えていた郁は、眉を跳ね上げた。
ああ、そうだった、この子は郁たちのこの状況を、惑いの森で交わした約束のせいだと考えるような子だった。
「な訳ない。流行り病のことも、ゼイギャクたちのことも、後生が悪すぎる」
「その表現は難しすぎる。ええとな、後味が悪い、も難しいか。つまりだ、俺も宮部も稀人だとばれる可能性があっても救える命は救う。でないと後悔するって話だ」
苦笑した江間に頭を撫でられても、納得できないらしい。
相変わらず視線を揺らすリカルィデに、郁は「というわけで、リカルィデ、知識を頭から引っ張り出して。私たちが稀人だと疑われていると仮定して、それをかわす方法を考える――頼りにしてる」と真顔を向けた。
(そうだ、救える命は救う、稀人とばれるリスクを冒してでも――)
自分のすべきことをしろと言った祖父、迷ったときは自分を好きでいられるように行動しろと言った祖母。ふたりの顔が脳裏に浮かんで、郁は膝の上に置いた拳をぐっと握った。
「……」
それから二人で話し始めた江間とリカルィデを横顔を見つめた。
いい加減覚悟を決めよう。王弟に近づけば、稀人だとばれるリスクも高くなるが、同時に彼らを向こうに渡すチャンスも増えるはずだ。
「稀人だと隠すことを前提としての話なんだけど、この機に王弟の城に潜り込もうと思う」
「……本気? たった今、王弟は危ないという話をしていたのに」
口をぱっくりと開け郁を振り返ったリカルィデとは対照的に、江間は鋭い視線を向けてきた。
「帰る方法を探すためには、このままここにいても埒が明かない――ええと、解決しない。だから王族かコントゥシャ神殿の高位の者に、接触する必要があると思う。でも、コントゥシャ大神殿は王都の方にあるし、伝手もない。それならこうやって機会ができた王弟の方に、と思って」
王族の中でも、シャツェランは何かを知っている可能性が高いとみている。
当初彼は、消えたトゥアンナの行き先がこちらの世界であることを知らなかった。そして、なぜ王族に対しても隠されているのかと疑問を持ったようだった。郁との交流はその後途絶えたが、彼の性格を思えば、隠されていた理由については、その後も追及し続けているのではないか。
個人的な嫌悪という意味でも、稀人、しかも自分があの「アヤ」だと気付かれる可能性を考えても、彼に会いたいとは全く思えないが……すべきことをしよう、祖父の教え通りに。
「それはそうかもしれないけど……」
リカルィデがちらりと江間に視線を移した。
「神殿はともかく、なぜ王族であれば、渡界方法を知っていると思うんだ?」
「……トゥアンナが知っていたから。ディケセル王族は世界を繋ぐ力があるという、言い伝えがあるはずだし」
相も変わらず嫌なところをついてくる。舌打ちしそうになるのを抑えてしれっと答えると、郁はリカルィデに視線を向けた。
だが、リカルィデは「そういう言い伝えはあるけど……ごめん、私はあっちに行く方法とか、全く聞いたことがないんだ。その、あんな風、だったし、誰も私に教えようとは思わなかっただけかもしれないけど」と悲しそうに縮こまった。
「トゥアンナが逃げたことで、秘密にされるようになっただけかもしれ……」
傷つけた、と慌ててリカルィデをフォローした後、郁は失言に気付いた。
「なら、トゥアンナ逃亡後に生まれた王弟も知らないはずだろ」
「……言われれば、そうだ」
江間も当然のごとく気付いたらしい。久々に耳にした江間のひどく低い声音に、内心冷や汗を流しながら、郁は何気なさを装った。
郁以外の人間に向けられたのを聞いたことのない声に、ここのところ平和にやっていたせいで忘れていた緊張感が一気に蘇る。
「なあ、宮部」
ゆっくりと名を呼ばれた。緩い口調とは裏腹に、江間の目はひどく鋭い。警戒が全身に広がっていく中、郁は無表情を保つ。
「お前が持っているこっちの情報、お前の祖父さんから聞いたものにしては、新しすぎるのがあるよな? どうやって手に入れた?」
「どれのこと?」
不思議そうに尋ね返してみたが、掌に汗が滲み出した。
自分は、あちらに渡ったディケセル人の子孫というだけでは、知っているはずのない情報を江間に漏らしたか?
「例えば、古いコインが今でも使えること」
「人に見せて聞いた」
「例えば、ディケセルの衰退を前提に物を考えていたこと」
「トゥアンナのやらかしの結果だ。ありうると思っただけ」
その程度なら問題ない、と密かに安堵した瞬間、江間は皮肉な笑いを漏らした。
「サチコさんが教える内容を、彼女が感嘆するレベルで王弟が理解できたことについてはどうだ」
「っ」
心臓がドクリと音を立てた。




