7-5.足音
肌身離すなと祖父たちに厳しい顔で言われたことを思い出しながら、郁は袋の中の月聖石を指でいじった。彼らはまるで郁がここに来ることを予見していたようじゃないか。
(だとすれば、理由は何だろう? なにか条件があって、私がそれを満たしそうだった、とか……?)
郁たちがこの世界に来た時は、高速道路で事故に巻き込まれかけていた。場所はG県。当時ひどい霧が出ていた。持ち物はバックパックと財布、スマホ、最低限の身の回り品。郁以外の人間に、おそらくディケセルとの関わりはないはずだ。
サチコさんの場合は、ハイキング中に霧が出て、とリカルィデに聞いた。息子さんが山道で足を踏み外しかけて助けようとしていたのに、気づいたら何も見えない、真っ白な一面の霧の中にいたという。だから、息子さんの安否をひどく気にしていた、と。場所は言っていた気がするけれど、よく覚えていないらしい。彼女にも、郁のようにこちらの世界との繋がりがあったのだろうか? リカルィデは、特に気になることは言っていなかったが……。
祖父からは、惑いの森に勝手に入ったトゥアンナに追いつき、彼女と従者たちに襲い掛かっていたイェリカ・ローダを退けた後、夕刻の森をコクラミの洞窟に向かって歩いていた、と聞いた。その時も霧の中で、イェリカ・ローダが後をつけてきている気配があって、かなり気が急いていた、と。持ち物は三つ又の短刀スオッキと剣、身の回り品と神木など森で必要なもの、今郁が持っている月聖石の首飾りや地図、硬貨。他に何か持っていただろうか?
その前の進駐軍の若い兵士は……? 詳細は分からないが、祖父、厳密にはその父の情報によれば、ディケセルとの縁があったという話はない。
「霧……」
(分かっている限りで共通しているのは、霧が出ていたということぐらい……)
物思いにふけりながら胸元の小袋をいじるのは、完全に郁の癖になってしまっている。
郁がこちらに来ると知っていたかもしれない祖父母は、彼我の世界を行き来するための条件を知っていたのだろうか?
(いや、知っていれば、侍女のリョーナさんだけでも帰したはず……)
祖父の忠誠心を思えば、異世界に主人たるトゥアンナを残して、自分だけ帰るとは想像しにくい。だが、祖国を恋しがるあまり病んで自ら命を絶ったというトゥアンナの侍女ぐらいなら、知っていれば……いや、知っていても、条件が整わなかったという可能性もある。
見方を変えれば、トゥアンナは渡界方法を知り、実現もさせておきながら、彼女を放置の上見殺しにした――。
「……」
嫌悪と憎悪に顔を歪めた刹那、何かが頭をかすめた。郁はかがんで瓶に手をかけながら、記憶を辿る。
(何かを忘れている気がする。あれはおばあさまの葬儀の時――)
『ミヤベ、よかった、会えた』
「っ」
突然呼ばれて、郁はびくりと体を震わせた。
『あ、と……サゴォル、様』
統官の元でキャンプの治安維持にあたっている若いグルドザが庭に姿を見せた。にこりと笑った拍子に、細くて長めの八本の犬歯が露になった。
双月教徒に絡まれることが増えて、統官が部下に郁たちに気を配るよう指示を出したそうだ。その中でも彼は郁の周囲で見かけることが多く、自然話す機会も増えた。
『ああ、また洗衛石を作っているのか。本当に不思議なものだよねえ。固まっているのに、水でぬらすとぬるぬるになって小さくなっていく。これで結構な病気が治るって言うんだから』
彼は郁のすぐ傍らにやってきて、郁が持ち上げようと手をかけていた瓶をのぞき込んだ。グルドザが好んで制服に焚きしめる神木の香りが、とたんに色濃くなった。
正確には病気が治るわけではなく、かかりにくくなるのだが、病原体という存在についてあやふやなこの世界では、余計なことを言わないほうがいいだろう。
『重いだろう。代わる』
江間がやってきて、郁が手をかけていた瓶を代わりに持ち上げた。手が触れ合った瞬間、ぐっと握られた気がして慌てて引いた。跳ねた心臓の鼓動をすぐに元に戻す。――いつものこと、だ。
『それでサゴォル様、ご用件はなんでしょうか?』
『君の顔が見たくなった。というのも本当なんだけど、メゼルからこの洗衛石のことを聞きたいという方がいらっしゃっているから、今晩統官のところに来るように知らせに来たんだ』
立ち上がって一歩下がった郁に合わせるようにサゴォルも立ち上がり、内緒話をするように郁へと再び身を寄せてきた。
顔に広がる笑みは郁が喜ぶことを期待しているようだったが、郁は顔を強張らせる。
『いらっしゃる』とは敬語、メゼルとはメゼルディセルの領都――つまりシャツェランの居城から派遣されてきた、身分の高い人間だ。
「領都から使いがやってきて、せっけんについて聞きたいって。あと、あの人、ミヤベに会いたかったって」
「……有益な情報をどうも」
灰と水を混ぜた瓶からその上澄みを移すための新しい容器と漉し布を江間に手渡しながら、リカルィデはひそやかに通訳する。江間は低い声で返しつつ、探るようにサゴォルを見上げた。
『私がお目通りできるようなお立場の方なのでしょうか?』
『王弟殿下の許で、内務処長を務めている方だよ』
『内務処長……』
サゴォルに『申し訳ありません、ナイムショチョウと仰る方のご身分が分からなくて』と説明を求めながらリカルィデへと目を走らせれば、彼女は硬い顔で小さく首を横に振った。
(リカルィデと面識はない)
一つ懸念が消えたが、シャツェランにかなり近い人物となれば、向こうが一方的に“王太子アーシャル”を見知っている可能性があってもおかしくない。となると、どの道彼女は連れていけない。
だが、自分たちとて、迂闊にシャツェランに近づきたくはない。十年以上前に喧嘩別れしたきりの郁に彼が気づくとは思えないが、その時やサチコを通じて得た情報で、郁と江間が日本人、稀人だと気付く可能性は高いのではないか。彼が持っているかもしれない、あちらに帰るための情報は確かに魅力的だが……。
≪トイレが臭わない……? 仕組みを教えろ≫
≪つまりお城なのに、トイレが臭う……? ……夢、壊さないでよ。それより何よりトイレに詳しい王子さまってなんか嫌≫
≪あいっかわらずムカつくな。お前が言ったんだろ、流行り病を防ぐことにもつながるって≫
≪まあ、それはそうか。ええと、下水設備、使用した水をそうでない水と分けて処理する仕組みとセットの場合だけだと思うけど……≫
ギャプフの村役場にあった“水洗トイレ”を思い出して、郁は鼻の頭に皺を寄せた。リカルィデによれば、セルの城にも同じ仕組みのトイレがあったという。
あれから郁はネットや小学校の図書館でトイレについて調べまくった。同級生にすっかり変な子扱いされながら、S字トラップだの、タンクの仕組みだの……。そして夜な夜な彼とその話をし、あーでもないこーでもないと頭を悩ませていたある晩シャツェランが言ったのだ、実際に作らせてみる、と。
つまり王弟シャツェラン・ディケセルは、確かにあの“シャツェラン”――彼は実際に存在していて今この地で生きている。
(あれに会う? 今更? ……吐き気がする)
郁はさらに顔が歪みそうになるのを何とか堪える。
『領内の諸事、ええと、財政、国土の保全と開発、食料の生産や調達、民の衛生管理などを、一手に引き受けられている方だよ。今回の病のことがお耳に届いたんだと思う』
『光栄ですが、私ではご期待に沿えないのではないかと。統官からお話しいただくよう、お伝えください』
『僕が統官にミヤベを推薦したんだ。ディケセル語も完璧だし、ミヤベなら大丈夫さ』
(――やはり逃げられない)
彼は上の者が下の者に与える“名誉”を、下の者が迷惑がるとは微塵も思っていない。恩着せがましく言ってくる彼に、さらなる嫌悪が顔に出そうになるのを抑えて江間へ視線をやれば、彼は彼で苦い顔で頷いた。
『では、恐れ多いことですが、お目通りさせていただきます』
『よかった。じゃあ、今晩迎えに行くから、その後一緒に食事でも』
『――ありがとうございます、楽しみにしています』
「え」
サゴォルと郁の間に、江間が顔を出した。
『……あーと、エマも来る、かい?』
『もちろんです』
引きつった顔をしたサゴォルと郁を前に、江間はその整った顔で快活に笑って見せる。
「ちょ、ちょっと、江間、なにを勝手なことを言って」
「こいつと二人きりで食事に行きたいのか?」
「そうじゃなくて」
一人で行くつもりだった郁は、慌てて江間の巻頭衣の袖を引いた。
江間はまだディケセル語に馴染んでいない、となると稀人だとばれる可能性が、と焦る郁に、江間は目の端で小さく笑い、左手人さし指を唇に押し当ててきた。
「……」
黒い目にまっすぐ射貫くように見つめられて、動けなくなる。長い指が唇を撫でて移動し、右顎が包まれた。鳥肌が立つ。
『――一人にはしない』
江間はそうディケセル語で呟くと、もう片方の手で郁の腰を引き寄せる。
黒の瞳が近づいてきて、すぐに見えなくなった。左頬に吐息がかかったと感じた直後、温かい感触が同じ場所に柔らかく落ちた。




