7-7.相思
何とか平静を保った郁を江間は観察するような目つきで見、続けた。
「まったく仕組みの違う社会では、同義の言葉がそもそも存在しないことが多い。それを補うには、かなり高い言語能力もしくは異なる社会への基礎的な知識がいる。なぜ王弟はそれをあっさりクリアできた」
リカルィデが息を呑んで郁を見た。
サチコがこちらにいたのは八年、その間基本的にリカルィデと共に軟禁状態にあったというから、ディケセル語の能力には限界があっただろう。なのに、リカルィデがサチコの話を理解できたのは、サチコが幼い彼女と一緒に暮らし、日本語と日本のことを教えたから。ならばなぜ王弟は――。
「さあ? 私はその場にいたわけではないから」
やはり気づいていた、と郁は鉄面皮の下で歯噛みする。
「まだ足りないか」
江間は楽し気に呟く。その顔は笑っているのに、悪魔めいて見えた。
「シャツェラン、だったか」
「……」
いきなり王弟の名を口にした江間に眉を跳ね上げた後、郁は蒼褪める。
「惑いの森での最後の晩だ。あの時、リカルィデは王弟を頼るとしか言っていなかった。なのに、お前は彼の名を口にした――」
自分の迂闊さを思い知らされて、郁はついに顔を歪めた。頭に血が上っていた、やってはいけないミスを犯していた。
「役場のトイレがそもそもおかしいんだ。完全に向こうの世界の仕組みだった。S字パイプぐらいならともかく問題はタンクの構造だ。レバーの動きに応じて排水する仕組み、浮き球を利用した給水の仕組み、故障時に水をあふれさせないための管……ただの偶然でここまで一致することが早々あるわけがない」
押し黙る郁を見つめ、江間は「リカルィデの話を聞いても、サチコさんの経歴を考えても、あれはサチコさんの知識じゃない。専門家か、作るつもりで調べたことのある人間の知識だ。でなきゃそこにある物を見て同じだと判断できても作れない、俺みたいに」と断定する。
そして、郁の顔を真正面から見据えた。
「俺たちが向こうに帰るための情報を、王弟が持っているとお前が思うのは、トゥアンナや言い伝えだけが理由じゃない」
そう静かに告げ、言い逃れは許さないという意志を込めた目つきで、江間は郁を睨んだ。
「宮部、お前――王弟を知っているだろう」
「っ」
息を止めた郁の横で、ひゅっという音がリカルィデの喉から響いた。同時に、得体のしれないものを見る目つきで郁を見てくる。
そうだ、普通はこうだ。人は知らず常識でものを測っている。結果ありえないと判断されることに、通常人は目を向けられない。そこをこの男はあっさり飛び越えて事実に迫ってくる。
(本当に嫌な奴だ…)
郁は目をつむる。奥歯がギっと音を立てた。
瞼の裏に浮かんでくるのは、臨終の床にいた祖父の姿だ。筋肉で覆われていた全身が、病と闘ううちに、すっかり細くなっていた。意識が失われていく中で、彼ははしばみ色の瞳で郁を捉えると、枯れ木のようになった腕を伸ばしてきて――
「……その通りだ」
郁は長く息を吐き出すと、首肯を返した。
「どうやってとか、なんでとか聞いても、また答えないんだろうな」
顔を歪ませた江間に、また頷く。
「前に行ったとおり、言わないことも嘘をつくこともある。でも……江間にもリカルィデにも悪いようにはしない。誓う」
惑いの森で江間に告げたのと同じセリフだった。だが、彼は以前のようには笑わず、苦い物を噛んだような顔をした。
「お前の考える「俺にとって悪くない」が、俺の思う「俺にとって悪くない」と一致しないことだってあるはずだ――お前、王弟のところに一人で行くつもりだろう?」
流石に隠し切れなくなって、郁は目をみはった。江間の顔が怒りで歪んだのを見て、咄嗟に視線を伏せる。
「……リカルィデは正体がばれるかもしれない」
「宮部」
「江間は言葉の問題がまだある」
「宮部」
「稀人だとばれれば」
「宮部、もういい」
江間の押し殺した声に、郁も苛立ちを隠しきれなくなった。
「よくない……っ」
「いいって言ってるだろっ」
「よくないっ、江間はリカルィデとここにいて様子を見ろ。私がダメになったら次の手を」
「はあ!? ダメにって、何言ってやがるっ、ふざけんなっ」
「ふざけてなんかいないっ」
怒鳴り合った挙句、お互いを憎むように睨む郁と江間の間で、呆然としていたリカルィデが、「ミヤベ、私も知りたい」とおずおずと割って入ってきた。
「その、王弟のこと、驚いたし、色々わからないことばっかりだけど、言われれば、私も思う当た、思い当たることはあるし……ミヤベが言えないと言うなら、本当に言えないことなんだと思う」
まっすぐ郁を見つめたまま、リカルィデは「だから聞かないことにする」と続けた。
「でも、ミヤベ一人で王弟のところに行くのは、私も反対だ。トゥアンナ王女の孫で、王弟殿下とも知り合いと考えたら、一番危ないのはミヤベだ。私やエマが行くか、せ、せめて?一緒の方がごまかせると思う。ここまでそうしてきたみたいに」
「っ」
苛立ちがさらに増した。
隠し事だらけなのに、それでもいいとまで言ってくれる、この子を行かせられるわけがない。シャツェランはまっすぐな気性ではあるが、基本的に傲慢だ。素性を偽っていた現王の娘など、どんな扱いを受けかわかったものではない。
足手まといとでも言えばあきらめるか、と思いついて口を開く。
「私のことなら……私と会ったことのある人は、本当に限られている。王弟とも儀式以外で顔を合わせたことはない。どうせ誰にもわからないよ」
だが、自嘲気味に笑ったリカルィデの顔を見て、かろうじて言葉を飲み込んだ。
この子は、実際に親や周囲に、「いらない」と捨てられた子だ。侍女もいつも一人でそれも日替わりだった、学問やスオッキの先生も基本はいなくて、偶に来たとしてもすぐに変わった、誰とも話さないまま、書物だけ見て一日を終えることも珍しくなかった、そう言っていた。例外がサチコだった、と。
たとえこの子の身を護るためであったとしても、「足手まとい」なんて言っていい言葉じゃない。
「……どうあってもこれを帰したいの」
長々と息を吐き出して気を落ち着かせてから、江間を指せば、「なんだそれ」と彼は呆れたような、怒ったよう顔をした。「これって言うな」とも。
「愛されているの、わかる?」
――家族に、私たちと違って。
「……」
言わなかった部分は、リカルィデにはちゃんと通じたらしい。いつものように食って掛かってくることもなく、神妙な顔で頷いた。
「一体何の話をしてんだ」
そして、不快と疑問を顔に載せた江間には、それがわからない。それこそが、郁が彼を家族のもとに帰してやらなくてはならないと思う理由なのだ。
このキャンプに来てからと言うもの、三人で色んな話をしてきた。
その中で江間の家族のことも知った。祖父と父母、二つ下の妹と六つ下の弟がいること。お祖父さんは元警察官で、お父さんは検察官で、皆剣道をやっていること。家に小さな道場があって、幼い頃からずっと習ってきたこと。お祖父さんとお父さんに反発して、中学からバスケットボールを始め、髪も伸ばし始めたこと。その髪を染めたら激怒されて、家から閉め出されたこと。妹と弟が必死でお祖父さんとお父さんを説得してくれたこと。最後にはお母さんが江間と一緒に家出して、家に帰れるようになったこと。帰ったら、二人が謝ってきたこと。妹が同じ大学にいるのだが、受験生の弟もその予定だということ。その二人が可愛くて仕方がなさそうだということ。お祖父さんのこともお父さんのことも、「くそじじい」とか言うくせに尊敬してやまないこと。その二人には反発できても、お母さんにはできないこと……他にもいっぱい。
そして悟った。江間が善良で、うまく他人を思いやれるのは、やはり善良な家族に、当たり前に愛されてきたからだ、と。
以前大学で、江間の妹に会った時にも思った。江間と喧嘩したというお爺さんの誕生祝いに、江間を引っ張り出そうとやって来た彼女は、兄の江間によく似た外見で、中身も凛として美しい、優しい子だった。江間に弾丸のように文句を言っていたが、彼を大事に思っていることも伝わってきた。彼女も、家族もみなきっと彼を心配している。
郁を待っている人はもういない。ならば、優先されるべきは江間だ。彼をどうしても彼らの所に帰してやりたい。
郁が王弟の所で失敗して一緒にいれなくなっても、リカルィデがついていれば、彼ならこの世界でもやっていけるはずだ。いつか帰る方法も見つけるだろう。そして、彼もリカルィデを助けてくれる。
「……受けた恩は返す。そう約束した」
理由を伏せてそう告げれば、黙っていれば冷たく見える、江間の切れ長の目が丸くなる。それから、彼はまっすぐ郁を見つめてきた。
「そんな返し方はいらない」
思わずたじろいでしまうような、ひどく強い視線に息を止める。
「約束なら俺もした」
テーブル越しに江間の長い腕が伸びてきて、大きな手が右頬に触れる。
「一人にはしない」
「……」
なぜか悲しくなってきて眉根を寄せた郁に、江間は「俺は俺で強情なんだ」と苦笑を見せて、郁の頬を緩く撫でた。
「リカルィデの言う通りだ。教えられないと思うのであれば、それで構わない。でも、一緒にいる」
今度こそ言葉が見つからなかった。
(なぜこうもお人よしなのか、愚かすぎる――)
「ま、断わられても勝手について行くけどな、さっきみたいに」
いたずらっ子がするように笑うと、江間の手は郁から離れていく。なのに、頬の温かみはまだ引かない。
「リカルィデ、お前も行くよな? 確かにばれる可能性もなくはないけど、スリリングでいいだろ?」
「行く。けど……す、すりり、りんぐ?」
「スリリング。怖くて楽しいってこと。お前、もうすっかり女の子だし、堂々としてりゃ案外ばれないって」
「女の子って言うな。大体、そういうの、ムセキニンって言うんだろ? 人が心配してやってるっていうのに……!」
怒るリカルィデを、ケラケラと笑いながらからかい始めた江間を見、郁はようやく息を吐き出した。
「……」
改めて確認した。自分は江間がやはり大嫌いだ。




