7-3.紛
戸槌がガコンという音を立てる。向こうの世界での入店を知らせるベルのような役目のものだが、朴訥な木細工の響きが好ましい。
『いらっしゃい、ミヤベとリカルィデ。ってことは、今日はもう草の日か』
商売上手と評判の女店主ヒュリェルの朗らかな声に、郁は会釈を、リカルィデは笑顔を返した。
年の頃は四十ぐらいだろうか。豊かな青い髪に濃い茶色の瞳、なかなかの美人な上に、表情には自信と貫禄がある。江間と変わらない高い身長と相まって、とても存在感のある人だ。
郁は彼女のいるカウンターに持参した包みをおき、中から茶色と灰色の混ざった四角い物体を取り出した――せっけんだ。
『おや、これは試作品かい? ああ、シッカの香油を入れたのか……うん、いい香りじゃないか。なるほどねえ、流行り病がなくなったら見向きもされなくなった、じゃ困るもんね、いい考えだ』
店主の顔に刻まれた優しい皺が深くなる。
『でも、色が気に入らなくて、相談に乗っていただけないかと』
『なるほどねえ。じゃあ、おしろいに入れる赤粉でも試してみたらどうかね? 長いこと肌に使われてきたあれなら、あんたの言う「アンゼン」なものだろう? 手配してやるよ』
そう言って彼女は従業員を呼び、『ミツバの工房に連絡をしておくれ』と言いつけた。
『それで今回の納品分はどうしたんだい?』
『エマが持ってくる』
打って変わってぶすくれた顔となったリカルィデに、ヒュリェルは目を丸くする。
『ああ、また女に捕まってんのかい』
即座にそう見抜いた女店主に、郁は苦笑を零した。
元々振る舞いにそつがない江間だ。言葉を覚えてきたこともあって、流行り病を鎮めるために役場の人間と交渉したり、疑う人々に対して粘り強く説得したりを繰り返していくうちに、彼は多くの人々の信頼を得た。
そこに、こちらの人々の美的感覚が向こうとさほど変わらないことが加わって、江間を見つめる年頃の女性たちの視線はさらにすごいことになった。外を歩く度に声をかけられ、捕まっている。今日もそうだ。一緒に家を出たのに、彼だけ人に取り囲まれた。
『あの見た目と性格だもんねえ。しかも腕っぷしもいいんだって? こないだ変なのに囲まれた時も棒っきれ振り回したかと思ったら、一瞬で片付けちまったって。キャンプだけじゃなくて、村の娘たちまできゃあきゃあ言っているよ』
『ですね』
『なーにを他人事みたいに。あんたも気が気じゃないねって言ってるんだよ。エマは異性愛者だろ? 女どもももう知ってるんだから、いい加減その男みたいな格好、おやめ。あんたもそん時エマと一緒になって、二、三人ぶっ飛ばしたって聞いたよ? 可愛らしく縋り付けば、エマなら守ってくれるだろうに』
『その時どころか、さっきも一人殴り倒してたよ』
余計な口をはさんだリカルィデに片眉をひそめながら、郁は『江間とはそういう関係ではないので』とすげなく返した。
『あのねえ、エマはあんたに気があるよ? そんななりのあんたが女だってあたしがわかったのも、そのせいだってのに……』
『気のせい。江間は誰に対しても距離が近い』
≪いかにも処女って子は重たすぎて論外。宮部みたいなのとか≫
脳内にまた響いてきた声に、唇を皮肉に歪めつつ、郁は試作品の石鹸を片付けた。
『……そうなのかねえ。なんか、難しそうだね、あんたたち』と呟く店主と目を合わせ、横のリカルィデは露骨に口をへの字に曲げた。
『おっと、忘れるところだった。これ、この前の洗衛石の売り上げだよ』
『売り切ってくださったんですか』
袋に入った硬貨の重みに郁が目を丸くすれば、ヒュリェルは胸を張った。
『当たり前だ、私を誰だと思ってるんだい』
『この地域で一番やり手の女商店主、ヒュリェルさん』
『……いや、ごめん、そんな真面目に褒められると調子が狂うわ』
真っ赤になった彼女は、そびやかすようにしていた肩を落とし、『ミヤベとエマの洗衛石あってのことだろう……。あんたこそもっと商売っ気だしなよ』と苦笑した。
『商売もですけど、これでこの間のような変な病気を減らせたらと』
横のリカルィデを見れば、目をみはった彼女はむっとして顔を背けた。そのくせ少し伸びた髪の間から見える耳が赤くて、何ともかわいらしい。
洗衛石とは、こちらの世界でのせっけんの呼び名だ。
流行り病がまだ猛威を振るっていた頃、まことしやかに人々が口にしていた噂が二つがある。
一つは来訪した稀人が病をもたらしたというもの。
もう一つは村の南方、巨大な地下空間に住まうドルラと呼ばれる土地神が、正しき双月教が祀る偉大なる神タジボーグを困らせようと、この流行り病を引き起こしたというものだった。
前者はともかく、後者は誰がそう言っているか明らかでうんざりしたというのはさておき、郁と江間は巨大な地下の空間という言葉に興味を引かれた。それが鍾乳洞であれば石灰岩があるはずだ、と。
それで顔見知りになっていたキャンプの役人たちを説き伏せ、材料を集めるのに協力してもらい、せっけんを作ってみたのだ。
祖父もシャツェランも、こちらの世界にも海があると言っていた。もし、そこに貝のような生き物がいて、石灰岩ができる環境があるのであれば、あちこちにあるはずだ。ならば山岳民族の出身ということにしてある郁たちがそれを元に何か作っても、不思議はないだろうと踏まえてのことだった。
後で分かったことだが、事実、石灰岩はこちらの世界でも壁などの塗料の材料として既に使われていた。詳しく知る人たちを集めて以降、石灰岩の調達と加工はさらに加速し、今ではせっけん以外に死者の埋葬などの際にも利用している。
『洗衛石』という名前は、こちらの世界の人々に受け入れてもらうために、村の長老に付けてもらったものだ。
郁たち三人はそうして生まれた洗衛石を、病人の集められたテントや病の出た地域を中心に、この世界版の経口補水液と一緒に配って歩いた。「ドルラからの贈り物だ」と言う触れ込みと併せて。
まあ、そんなことをやっていたせいで、双月教信者からはさらに睨まれてしまって何度となく襲われているのだが、稀人の噂も消せて一石何鳥になったかわからない。
『姉さんっ、宮部たち、来てるっ? さっきそこでまた襲われたってっ』
『ああ、ようやくご登場だ。いらっしゃい、エマ。そこでぴんぴんしてるよ』
戸槌と音と同時に騒がしく入ってきた江間は、宮部とリカルィデを見て、あからさまにほっとした顔をした。
その彼に、リカルィデが『そんなに心配するなら、あんなのほっといて一緒に来ればいいだろ』と噛みつく。
『まあまあ、色々あるんだよ、あんまりそっけなくして、あんたたちが恨まれても困るだろ?』
ヒュリェルのフォローに江間は苦笑を返した。
『なんせエマ、今日もいい男だねえ。あっちこちで声かけられるのもわかるよ』
『ヒュリェル姉さんの女ぶり? で合ってるかな、まあいいや、ええと、姉さんの方が美人だよ』
『嬉しいこと言ってくれるねえ。って、そんなだから相手にされなくなるんだって、いい加減気付けばいいのに』
『ええと、嬉しい? 相手? ……悪い、何を言ってるか、わからねえ』
『……』
『なんでおまえ、睨んでるんだ……?』
いつも自然に江間の通訳をかって出るリカルィデにまで白い目を向けられた江間は、笑い転げるヒュリェルに持ってきた石鹸を渡しながら、顔を顰めた。




