34-1.なんの得にもならない
『大神官長、面会のお申し出があります』
コントゥシャ大神殿の最上の台地。その最奥にある聖山の間に据えられた月の石に祈りを捧げ終わったイァズルテに、主神官補が告げた。
事前に予定のない面会――王もしくはそれに比する立場の人物からの、緊急の用だろうか、と思ったが、長きにわたってイァズルテを秘書として支えてきた彼の顔には、明らかな戸惑いがある。
『ギリクとテオと名乗るバルドゥーバ人で、その、シハラ前大神官の命願状を持っています』
『シハラの……』
幼馴染であり、神殿に入ってからもずっとイァズルテと共にいた彼女が神々の地に旅立って、早二ケ月が過ぎた。
≪私の命願状は、アヤ、ミヤベに渡したわ。届いたら、イァズルテ、あなたが叶えてやってくれる?≫
神官籍を得て五十年経た者に、一枚だけ渡されるその紙は、それに書かれた願いを叶えるために、神殿が最大限便宜を図るという趣旨のものだ。
一生遊んで暮らせるくらいの金品はもちろん、星辰の位くらいであれば、爵位を賜ることも、領主となることもできる。
だが、『自分の願いぐらい自分で叶えるわ』と言うシハラは、その言葉の通り、命願状を使わないまま、生涯を終えようとしていた。
≪ミヤベは文字が書けないのでは? どうやってそれが彼女からだと、知ればいい?≫
≪簡単よ。あの子、バカだから、すぐわかるわ≫
そう言って、死の床にいる彼女は、明るい声で笑った。
『会おう。滝見の間へ』
『っ、しかし、出身国もですが、身なりも、その、薄汚れておりまして……。面識を持つ者もおりませんし、前大神官から命願状を授けられるようには、とても……』
『問題ない』
『……畏まりました。では、支度を整えますので、半刻ほど後に』
シハラと知り合って、既に八十年近い。最愛のその彼女との別れを、イァズルテは一年前に覚悟していた。
彼女は長年、稀人サチコとアーシャル・ディケセルを王都セルから連れ出そうとしていた。
だが、願いが叶えられる前にサチコが死に、ついでアーシャルも惑いの森でイェリカ・ローダの餌食となった。
心労に絶望が加わり、あれほど気力に満ちていた彼女は倒れ、寝付いてしまった。神殿の医官のみならず、セルからも医師を呼び寄せたが、病が重い上に本人に生きようという気がない。
その彼女を死の淵から呼び戻し、そこから一年以上もの月日を生き長らえさせたのは、イァズルテでもコントゥシャ神でもなく、ミヤベ・アヤという女性だった。
嫉妬しない訳ではない。だが、それを上回る感謝がある。何よりシハラの願いだ。叶えない訳にはいかない。
イァズルテは、聖山の間の入り口で月の石を振り返る。
白磨石の上に据えられた、幼児ほどの背丈の月聖石は、差し込んできた夏の日を受け、虹色の光をあたりに振りまいている。
四年程前の静初の期、あの石が淡く光った。
あちらの世界とこちらの世界が繋がった――それからほどなくして、惑いの森のコクラミの洞窟で、大神殿の行者が見つけて持ち帰ったのは、シハラの弟の名の入ったスオッキと、それにくくりつけられた、彼のものと思しき骨の入った壺。
シハラが、そして、イァズルテがコントゥシャ大神殿に入るきっかけとなった人物が、その日ようやく姉のシハラの元に帰ってきた。
五十年以上前、イァズルテがシハラにようやく取り付けた婚約は、“トゥアンナ王女殿下を誘拐した”彼のせいで、取り消された。
≪君と弟は別人格だ。両親は私が説得するから、待っていてくれ≫
≪問題はそこじゃなくて、あなたもコトゥドが王女を誘拐したと頭から信じていることなの。やっぱり私に貴族、特に陽の夫人とか、絶対向いていないわ。だから……私は私のしたいこと、すべきことをする≫
コトゥドが悪いだけで、シハラは悪くない。無意識に、王女は善であり、コトゥドに問題があったとして事態を見ていたイァズルテに、神職に入っていくシハラを引き留める術はなかった。
青月の位にあったシハラのもう一人の弟を始めとして、他のリィアーレ家の者たちもみな公職を追われ、セルを去っていく。
ディケセル王国がリィアーレ一族を捨てたのではない。彼女らこそが国を見限ったのだ、ディケセル国の陽の位にあるイァズルテを含めて……。そう悟って、イァズルテは絶望した。
情けないことに、彼女がそんなふうに言ったのは、イァズルテの立場を思ってのことだったと気付いたのも、彼女が神殿を選んだ理由がリィアーレ一族を陰から支えるためだったと気付いたのも、それから大分経った頃だった。
≪……バカなの?≫
≪かも。でも、“自分がしたいと思うこと、すべきと思うことをしている”自信はある≫
再会には四年も必要だった。元王族の母を持つ、陽の位の貴族の嫡男としての立場を捨てて神殿に入ったイァズルテに、シハラは思いっきり呆れた後、『本当、仕方のない人ね』と笑みを零した。
イァズルテが彼女に十二回目のプロポーズをした時に返してくれたのと、まったく同じ言葉だった。
次に、この石が光ったのは、コトゥドの遺骨の帰還から二年半後だった。
その時は、誰もが驚くほど眩く輝いた。新たな稀人の来訪――そこにまさかコトゥドの孫が含まれていると、誰が想像できただろう。
その知らせをもたらしたのは、シハラの甥、オルゲィ・リィアーレだった。
死の寸前にあって、一日の大半をまどろみの中で過ごしていたシハラの目が、彼からの手紙を読むうちに、輝きを取り戻していった。そして、『会わなくては』と。
正直、嫉妬した。シハラの運命を左右したのはコトゥドだ。その命の終わりに、彼女を絶望の淵から引きずり戻すのも彼の孫なのか、と。
≪ほんとにコトゥドの孫なのかしら? だってあの子、バカ正直というか、正直が行き過ぎたバカだったじゃない? オルゲィの書いていることが本当なら、孫の可能性のあるこの子は嘘をつきまくり、騙しまくりよ? 応接使の目を掻い潜って、挙げ句惑いの森を自力で抜けた? 稀人だと隠している? しかも、アーシャルを連れている――ほんと、どこの誰がそんなことを思いついて、実行するって言うの≫
そう言って彼女は、楽しくて仕方がないという顔で、半年ぶりに声を立てて笑った。涙を流し、咳き込むまで。
≪さて、そんな嘘つきちゃんを、どうやってここに来させようかしら?≫
五歳で初めて出会った時から、彼女はずっとそんなふうだった。
頭の回転が速く、口も回り、主張すべきと判断したことを主張し、するべきと信じるままに行動する。目的を達成する為に情報を集め、知恵を凝らし、策を巡らして……他の誰より、生命力にあふれていた。
彼女だけが、色鮮やかに見えた。彼女と話す時だけ、イァズルテの世界は色づいた。
ずっと側にいたい。そう思えるのは、イァズルテにとって、生涯シハラだけだった。
以前と同じように生き生きとし出したシハラに、喜びと一抹の複雑さを抱えて、イァズルテはコトゥドの孫、シハラの又姪にあたる彼女に面会した。
彼女は驚くぐらいそんなシハラに似ていた。
すらりとした背格好、切れ長の目を始めとする凛とした顔立ち、透き通った空気、気の強さ、度胸の良さ……。
そして、シハラならきっとそうするというやり様そのままに、嘘もつかずに自らの正体をぼかし、それでいて自分が必要な情報を大神殿が保護する稀人、フュバルから引き出していく。苦々しい顔をする王弟を前にふてぶてしく。
稀人テラシタに対してもそうだ。背後にいるバルドゥーバもろとも騙しにかかり、操っている。
シハラが言う通り、彼女はコトゥドではなく、シハラの孫だと言われる方がしっくりくるような人だった。
(だが、彼女がシハラに一番似ているところは……)
イァズルテは、滝見の祠に向けて、天井の高い空間を歩く。足音が柱に、壁にぶつかって反響してすぐに消えていく。自分の後ろに、もう一つの足音があった時は、そんなことはなかった。
深殿の扉を抜ければ、滝から風が吹いてきた。汗で額に張り付いていた髪が、その風に吹き上げられて、心地よい。
深殿から川向こうに渡された石橋を渡る。橋の欄干に埋め込まれた月聖岩が、陽光に光り、目に眩い。
橋の上からは神森とそこを貫く大河バルがよく見える。背後には三筋の白い滝をまとった、聖ディ山が青々と聳えている。
≪きれいね≫
なんのてらいもなく、美しいものを美しいと言い、好きなものを好きだと口にして、イァズルテを見上げてきた彼女はもういない。
聖ディ山を落ちる三つの滝が見える、その祠の中には、二人の男がいた。
跪礼を受けながら、彼らの様子をイァズルテは見つめる。その内の背の高い一人の所作は、バルドゥーバの高位貴族のものだ。だが、主神官補の言うように身なりはボロボロで、痩せこけている上に首にはひどい傷跡がある。
『大神官長、こちらが命願状になります』
『……』
主神官補が困惑を露わにしている理由が、イァズルテにはよく理解できた。
しわくちゃになったその紙に書かれているのは、ひどく細い線で描かれた、馴染んだシハラの署名と、解読のできない文字で書かれた彼女の又姪の名前だけ。
≪これがあの子の名前と筆跡。覚えておいて。この線? エマに向こうの世界の筆記炭を借りたの。水に浸かっても消えないんですって≫
本来命願状に記されるべき、願い事の記載はやはりない。
『望みを聞こう』
『大神官長……』
主神官補の咎めるような視線を流し、イァズルテは二人に目を向けた。
『サノ……こちらでフュバルと呼ばれている方に、会わせていただきたい――私の名は、テュオル・アゾルヴァイです。名を捨てる覚悟は済ませました』
≪簡単よ。あの子、バカだから、すぐわかるわ。あの子にとって、なんの得にもならない願い事をして来たら、それがあの子からだっていう証拠≫
計算高くて、どうしようもない嘘つき。そのくせ、そんなことをする――シハラ、あの子はやはり君にそっくりだ。




